第3章 棕櫚の庭
第1話
日差しの強さはそのままに、だが空の高さは日に日に増して、気候はすでに秋にあると告げてくる。
昼前、修之輔が一人で二の丸御殿の庭の棕櫚の木の周りを掃きながら、次の宿直は確か明後日かと頭の片隅で数えていると、背後から砂利を踏んで近付く足音が聞こえた。木村か三山か、何気なく後ろを振り向くと、思いがけない人物が立っていた。
「秋生か」
家老の加納だった。その場ですぐに膝をついて頭を下げる。
始めて近くに見る加納の風貌は、既に耳にしている通りの有能な官僚という印象で、どこか大膳に似た風情もある。だがあのおおらかさはなく、怜悧な風貌にこちらを見る目が険しい。
「田崎殿が随分目をかけているようだが」
何の前置きもなく寄こされた問いかけに何と応えるべきか、言葉を探して返事に少々時間がかかった。
「はい、こちらへの仕官を紹介して頂きました」
こちらの答えを聞いたのかどうか、修之輔の言葉が終わる前に加納が頭上から話しを被せる。
「過年より今に至るこの藩の動揺は、田崎殿にも責任がある。田崎殿は他所から来た者でありながら、強引な手法で羽代の藩政の中心に短期間で食い込んだ」
加納はまるで修之輔に非があるような口ぶりで言葉を投げてくる。
「純粋な武家の血を重んじたから羽代の古参の家臣たちは皆、田崎殿の肩を持ったが、今この時代、純粋な血筋などどれほど残っているものか。お前も余所者、如何に田崎殿が目をかけようと、不審な振舞いあれば直ちに私の命で追放する。心得ておけ」
身に覚えのない事、話も今聞かされたことで、すぐには判断が追い付かなかったが、かろうじて頭を下げて一礼した。加納はそれで立ち去るのかと思えば、まだ続きがあった。
面を上げろ、と加納に言われて修之輔は従った。虹彩の色の薄い加納の目がこちらを射すくめるように見下ろしてくる。
「気に食わぬ、お前のその顔の評判は聞いている。だがその美しい顔だけで世を渡って来たわけではないだろう。本当に田崎殿はどこから拾ってきたものか」
それでようやく気が済んだのか、加納は池の端を巡って二の丸御殿の方へ去って行った。
修之輔はこの間の宿直室での会話を思い出した。皆が噂していた田崎と加納の確執は本当のようだった。これまでの先入観を捨て、羽代家中での田崎の立場を改めて考えなおす必要があると、そう思った。
今
加納が去った後、掃除の残りを仕上げて昼食を取る前に一度部屋に戻ろうとすると、また名前を呼ばれた。
「修之輔様」
羽代で自分をそう呼ぶのは、一人しかいない。振り返ると、お仕着せの着物をきて使用人に成りすました弘紀が小走りにこちらにやってくるのが見えた。先ほどの加納の言葉で行き場無く淀んでいた自分の気持ちが瞬時に薄らぐのを自覚して、修之輔は我が事ながら苦笑した。
「今、すごく忙しいんですよ」
開口一番そう云った弘紀は、三の丸に行くのでしょう、と修之輔に付いてくる。庭で修之輔が掃除している姿を見て、急いで着替えてやってきたのだという。
「忙しいのだろう、いいのか」
「忙しいので時間を有効に使うのです。修之輔様の部屋、連れて行ってください。一度様子を見てみたかったのです」
追い返す理由も見当たらなく、というより、先ほどの加納との邂逅で覚えた不満がどこか反発する気持ちを呼び起こし、修之輔はそのまま弘紀を三の丸まで連れて行くことにした。
弘紀と共に戻った菊部屋には、修之輔以外の者が皆、揃っていた。
「秋生、ようやく戻ったか。俺たちは先に飯を食ってきたぞ」
そう声を掛けてきた木村が、修之輔の後ろの弘紀の姿に気が付いた。
「なんだその小さいの」
弘紀が着ているのはちゃんと自分の身の丈に合ったお仕着せで、木村も三山もそれで警戒はしていないようだ。
おそらく部屋の中にこれほどの人数がいると思っていなかった弘紀は、珍しく
「なんだ、小姓にしては貧相だし、どうもみすぼらしい奴だな」
弘紀を年下の格下とみなしたらしい三山が遠慮のない口調でそう言って、弘紀がむっとしたのが直ぐに分かった。もしかしなくても、三山との相性は良くなさそうだ。原が、煩くなりそうだと思ったのか、弘紀の脇を通って部屋を出て行った。
「どこかで秋生を見かけて一目惚れでもして付いてきたのか」
木村の軽口を否定せずに修之輔を見上げる弘紀の仕草は、端から見れば肯定したのも同然だが、こちらに対応を丸投げしてきただけだと修之輔には分かっている。
「風呂場の裏で薪割りをしているところを見かけて、話しかけたら懐かれた。部屋に入れてもいいか」
言いつくろったが案外嘘ではない。
「ああいいぞ、相撲取りでも連れてきたなら話は別だが、そんなに場所を取らなそうな奴じゃないか」
弘紀は木村に軽く頭を下げて部屋の中に入ってきた。木村は味方、弘紀はそう判断したようだった。相手が敵か味方かの判断が早い。木村は木村で見覚えのない弘紀の姿を好奇心で眺めているが、弘紀は自分が見られることに全く頓着していない。三山が立ち上がって修之輔の側に寄ってきた。
「秋生殿、肩のこれ、棕櫚の葉ではないですか」
さっきの掃除のときに付いたのか、自分で取るからと伸ばされた三山の手を避けようとして、同時にそれ以上の力で三山とは反対側に引っ張られた。弘紀が三山のことを睨みながら修之輔の腕を掴んでいる。
「どうした、」
弘紀、とは呼べなくて、少し逡巡してしまったが、弘太、と呼んでみた。
「弘太ですか」
弘紀が小声で尋ねてくる。
「弘太でいいだろう、他に何がいいんだ」
「まあそれでいいです」
小声の早口で交わした会話の後も、鼻白んだ様子の三山のことを弘紀が下ろした前髪の影から睨んでいるのが分かった。三山はどうやら弘紀にとって“敵”のようだ。
ふと三山から目線を逸らした弘紀がこちらを見上げてきた。
「修之輔様、喉が渇いた」
修之輔の腕を掴んだ力を緩め、訴えてくる声はあからさまな甘えの声音で、端から聞いていた木村が苦笑しながら云った。
「えっと、おまえ弘太というのか、茶を淹れてやるからまあ飲んで行けよ。お前らもそう突っ立っているなよ、ただでさえ狭い部屋がさらに窮屈だ」
どうやら先ほど昼食を済ませてきた折に、沸いた湯を土瓶に入れて持ってきていたようで、木村が早速、茶器を用意する。少し待つと香りの良い煎茶が湯呑に注がれた。
その間に弘紀はまったく躊躇する様子なく菊部屋の奥まで入り込み、床の間の前に座っている。三山が何か言いかけたが、原がいない今でもこの場に四人、広くはない部屋で座る場所までそうそう気にしてはいられない。弘紀は修之輔が渡した湯呑をそれが当然の顔で受け取って一口飲み、小さく首を傾げた。
「このお茶、美味しいですね」
取り繕ったお世辞の言葉でなく、本当にそう感じたようだ。
「おお、わかるか。わかっちゃうか。実はこれ、うちの実家で作ってる茶なんだよ」
なんだお前、弘太と言ったか、話が分かりそうなやつだな、と木村が破顔した。弘紀は真剣な顔でもう一口、茶を口に含んでいる。味を確かめているようだ。
「城で
弘紀のつぶやいた言葉に木村がすかさず反応した。
「そう、うちで作ったが売り物にならない、というか売れなかったものだな」
「木村殿のご実家は確か茶畑を持つ農家でしたか」
茶の味にぴんと来ていないらしい三山は、木村の出自の話を持ちだした。特に隠しているわけでもないが、と前置いて話す木村によると、木村の実家は茶畑を持つ農家で、羽振りがいい時に
「どのあたりで茶を作っているのですか」
弘紀が木村に尋ねる。
「山の方だ」
「山で茶を作っているのなら、
木村が意外そうに弘紀を見た。
「へえ、知っているのか」
「あの辺りは確か数年前、疫病が流行ったようですが」
ああそれでか、と木村の口調が暗くなる。
木村の実家がある須貝の庄は数年前、北の風が運んできた病が流行り、肺臓を病んで多くの者が死んだ。木村の実家が雇っていた小作も稼ぎ頭の者達が次々に倒れ、手入れに人手が必要な茶畑が荒れてしまったという。
「一度茶葉を納品できなかったら、江戸から毎年買い付けに来ていた大手の問屋もそれ以降来なくなっちまった。かといって今さら他の畑の小作をすると言うわけにもいかない。茶の木を抜いて他の作物を作るのも手間だ」
弘紀が湯呑を置き、木村に尋ねた。
「疫病はもう収まっているのでは」
「ああ。ああいった病は季節のものだからな、過ぎれば元通りの筈なんだ。だが厄介なのは人の口だ。一度疫病が流行れば、江戸のような大きなところでない限り、その土地に人が戻ってくるには時間がかかる」
今は身内が手入れできる範囲で茶畑を維持しているが、到底それだけでは大手の問屋に卸せるだけの量ができない。疫病よりもその後の始末の方が後を引いていると木村が言う。
「儂の家族はそこで普通に暮らしているし、通いの者も全く平気なんだがな」
「そうですか。この茶の風味、このまま立ち消えてしまうには惜しい。どうしたらいいかな」
何ごとかを考え始めた弘紀の真剣な横顔は、それが弘紀本来の姿であることを修之輔に思い出させた。木村は、儂らじゃあ何もできない、お手上げだ、とおどけて、だがそれは空元気にしか聞こえなかった。
時を告げる鐘の音が聞こえた。
弘紀がふと顔を上げる。そろそろ戻らなければいけないのだろう。
「ごちそうさまでした」
「どういたしまして」
丁寧に頭を下げる弘紀に、木村は機嫌よく返事して茶器を片付け始めた。その合間、弘紀が修之輔の耳元に顔を寄せてきた。
「明後日ですよね、修之輔様の宿直」
弘紀の目が瞬き一つで色を変えてその濃さを増す。こちらを覗きこむ濡れて光るその瞳。待ってますから、と小声で耳打ちされて思わず身の内が煽られる。修之輔が不意を突かれたその一瞬で弘紀は立ち上がり、その身に少しでも触れる隙がないまま伸ばしかけた指は行き場を失くした。
そういえば忙しいのです、と独り言を言いながら部屋を横切り、お邪魔しました、と部屋の入り口で一度くるりと振り返ってお辞儀をし、弘紀はばたばたと廊下を走り去って行った。
「薪割りも忙しそうだな」
その木村の言葉にうなずいたのは三山だけだった。
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