第6話
前に弘紀と逢ったのは本丸の天守跡に建てられた観月楼で、あそこは私的な客人をもてなす客室だったが、今、修之輔が足を踏み入れた部屋は完全に弘紀の私室だった。
弘紀がこの城に戻ってまだ半年、藩主のためのこの部屋を使い始めたのもその時からの筈だが、八畳ほどの部屋には、棚にはもちろん床の間にも壁際にも書物が山のように積まれていた。夜も大分深まったこの時間、弘紀は寝巻の単衣の上に薄水の絽の羽織を羽織って、書物を読んでいた。
「弘紀、この通路は」
「有事の際、藩主が逃れるための隠し通路です。二の丸御殿にはこのような通路がいくつかあるのです」
修之輔が出てきた出入口は、床の間から入り込むように
「ここに来るのは誰にも見られていないと思うが」
「大丈夫だと思いますよ」
それより、と弘紀が手招きする。その薄水の絽の袖は、弘紀が動くと色の濃さを様々に変化させる。修之輔が側に寄って腰を下ろすと、弘紀は一山の書物を指し示した。
「この間の話を聞いて、取り寄せられる物を取り寄せてみました。届いたばかりなので私もまだ全部は見ていないのですが」
そう云う弘紀に二、三冊、書物を手渡され、そのうちの一冊が虎道場で見た『解体新書』だった。寅丸が持っていたのは原本を映した写本をさらに版木に移して刷った廉価版だったが、修之輔が今、手にしているものは原本に近い版で、図版の細やかな線が鮮やかに擦り出されている。値段は想像もつかない。
「修之輔様が見たのはどの図版ですか」
覗き込んでくる弘紀に、これだったように思うが、と頁を示して肩を寄せ合い、一緒に書物を眺めた。黒河で時折そうしていたように。
人体の解剖図には内臓や骨格の図があり、最後の方に皮膚の下の構造が描かれた版図があって、体全体の筋肉の他、手や足の細かな腱まで描かれている。
「自分の体が貧弱に思えるのです」
じっと図版を見ていたそう弘紀がつぶやいた。弘紀は数えで十七歳だが、その年齢に比べて少々成長が遅れているのか、ちょうど今が成人の体に変わる過渡期だった。もともと小柄で、それに加えて筋の質も変わり始めたこの頃は、腕や足が細く見えることが不満らしい。
「肩も骨ばっているだけで、厚さがないのです」
と、弘紀は自分の体ではなく修之輔の首筋から肩に続く体の線を指でなぞった。くすぐったさに口元が思わず緩む。
「どうしてそんなに体のことを気にしている。確かに俺は虎道場で鍛えてみたとは言ったが」
「それもあるのですが、執務の場はみんな大人で体も大きくて、心細いことがあるのです」
なるほど、田崎も加納も弘紀よりかなり年上で体格も優れている。
「私の身の回りの世話をする者の中には年下の者もいるのですが」
「弘紀より背が高いのか」
「はい」
素直にうなずくその様子に、弘紀には悪いが思わず笑みが漏れる。
弘紀の背丈は低くても、手足はすんなりと伸びているし、背筋は真っすぐに、しなやかな動きを支えるだけの筋もある。全てに於いてやや小作りなだけで、それがかえって可愛らしく修之輔には思われるのだが、弘紀は深刻そうな顔をしている。
「肩が骨ばって見えるのは、肩幅がしっかりあるからだ。弘紀は姿勢が良いから背の筋もしっかりしている。この頃は薪割りもして体を動かしているだろう。よく食べていれば体はしっかりできてくる。心配するな。それに」
弘紀の今の体が好きだ、と囁いて、書物の上に置かれた手を取ると絽の袖が軽やかに、ついで単衣の袖も滑り落ちる。肘の内側から二の腕までが露わになった柔らかな皮膚に指を這わせると弘紀の体が小さく震えた。子どもでも大人でもないその境にある弘紀の体はどこか繊細で、手加減が必要な幼さは既になく、だが力まかせに抱けば
「このままの方が良いのでしょうか」
身体を直接触れる修之輔の指の動きに、浅くなる息を堪えながら弘紀が云う。
「いや、変わっていくからこそ、今このときが大切なのだと思う」
「変わっていった方が良いのですか」
正しい答えを求める弘紀の真摯さは、時に強すぎる思い込みになりがちだ。修之輔はもう片方の手で弘紀の頬に触れながら、その目を覗いて、そうではない、と言って聞かせた。
「何が良いとか悪いとかでなく、弘紀の今ある姿を愛おしいと思うだけだ」
だから、言葉遊びの戯れはここまで。
自分を呼んだのは言葉を交わす、ただそれだけのためではないはず、と無言のうちに促せば、弘紀はためらわずに視線を自分の背後に向けて、几帳の影に用意されている床を修之輔に示した。
几帳の手前、弘紀が肩から落とした薄水の羽織と自分が脱いだお仕着せの小袖袴が重なる。互いに白い単衣の姿は黒河で過ごしたいくつかの夜と同じ姿。
弘紀はこちらを見上げながら敷布に横たわった。その傍らに膝を付き、襟の中深くに手を差し入れて素肌を直に撫で上げる。指先で胸の小さな突起に触れながら、今の弘紀のからだの全てを確かめたいと乞い願えば、存分に、と呼気を湿らせた弘紀が応えた。
舌を絡めながら互いの単衣の裾を割り、手は弘紀の内腿を撫で上げる。滑らかな皮膚の下は健康的な肉の弾力で、若い動物が持つしなやかな瞬発力を思わせた。その付け根、下帯を緩めて外し、露わになった根元の柔らかなふくらみを手に包んで軽く握ると、軽い痙攣と共に弘紀の両脚がまっすぐに伸びた。
足を開くよう促して、さらに奥まで指を進める。後孔の縁をなぞって、ふくらみに指を遊ばせ、そして先まで撫で上げ、擦り上げ、時に爪先を先端に引っ掛けて。刺激の度に漏れる甘やかな声に次第に手の力を加えていくと、弘紀の先端からは先走りの液が零れてきた。透明な体液は音を立てて修之輔の指にまとわりつく。
反対の腕で支える弘紀の腰が微かに震え始めるのを感じながら、それを扱く手指の力を強めていくと、あともう少しというところで、息を荒げる弘紀に強く胸を押された。
「止めて、ください」
これまで言われたことの無い制止の言葉に、一度手を放し、どこか体の具合でも悪いのかと冷静になりかけた頭を引き寄せられた。
「まだ、出したくない。貴方と一緒にいきたいから」
快楽の涙で目を滲ませながら弘紀の口から洩れる言葉は、懇願か命令か。弘紀は自ら脚を深く曲げて修之輔の腰に絡め、できるだけ奥まで挿れて欲しい、と囁いた。
弘紀の、望みのままに。
肩を深く抱いて、自分の首筋にその頭を抱え込んで。濡れた音を立てさせながら深く、数度に分けて奥までつらぬくと、弘紀の背が強く撓った。
互いの荒い息で満たされた部屋に、やがて絶え間ない波の音が戻ってきた。
「山の中とは違って、海は常に音が聞こえる」
修之輔のその言葉に弘紀が頷く。求め合った後の乱れた単衣はそのままに、横たわったままで修之輔は傍らの弘紀の露わな肩を指でなぞる。先ほど自分がなぞられたように。
「波音のしない黒河の夜はとても静かで、時折寂しく思う時がありました。冬に雪の降った夜など、音が全て雪に吸われて世界から音がなくなり、一人この世に取り残された様な心持になったこともあります」
雪があんなに積もるのも黒河で初めて知りましたと弘紀は言う。
「だから貴方と過ごした夜は、一人ではないと、そう思えて、とても安心して眠れた」
それであの寝相か、と思い出して思わず小さく笑い声が漏れる。
「何回か夜着を取られた」
「そうでしたか」
取った方は気付いていないものなのか。しれっと弘紀が返事を寄越した。
これまで何回か弘紀と肌を合わせて気づいたことがある。弘紀は一度達すると、続けては求めてこない。少し間を置いて、その間、今のように修之輔とたわいのないことを話したり、場合によっては起き上がってその場に座ったまま何か考え事をし始めたりすることもある。
渇くような欲求が治まっていったん落ち着くし、頭が冴える気がする、ということらしい。修之輔は熱の冷めないままでもう一度くらいは続けたいとも思うのだが、弘紀の気が乗らなければそれ以上手を進めても仕方ない。
少し待てば自分の腕の中に弘紀が自ら戻ってくることも分かっているので、そういうことと納得することにしている。その気になれば弘紀は唇で修之輔の首筋に触れて催促してくる。その仕草が例えようなく可愛いので、少しの間放っておかれても我慢できると思うのだ。
今も。
弘紀が先ほどまでは並べていたその身をひたと修之輔に沿わせて、胸の辺りから上目遣いにこちらを見上げてくる。そうして伸ばした腕で自ら修之輔を引き寄せて、首筋に唇を軽く触れてきた。柔らかな唇の感触。弘紀からの催促。
もう一度。
今夜はお預けの時間が少しだけ、短かった。
先ほどの愛撫は繰り返さずに後孔に指を伸ばすと、さっきの交合の残滓が濡れた音を立てて絡みついた。指で拡げたその後に、修之輔の胸の上で肌を重ねる弘紀の体をそのまま下から貫いて、柔らかに熱く蠢く感触を確かめながら何度も突き上げて、長くはない許された時間にできる限り互いの熱を伝え合った。
一度目よりも、二度目は双方が充分に満足するまで求めたので、終えると弘紀はかなり眠そうで、横になったままお仕着せの小袖袴を身につける修之輔の姿を見ている。
「弘紀はどうやってこんなにたくさん本を手に入れたんだ」
袴の紐を結びながら聞いてみたが、この程度、藩主であるなら造作もないことで、くだらない質問だったように思えた。だが弘紀は具体的な手段について聞かれたと思ったらしい。
「羽代で草紙を扱っている商人か、あるいは江戸にいる兄上に時々送ってもらっています」
弘紀はそう、眠そうな声で応えた。兄というのは先代の羽代藩主のことだろう。
「商人には著者や題名をこちらから指定するのですが、兄は他にも面白そうなもの、江戸で今話題のものなども送ってくれます」
眠そうではあっても声に少し弾みがみられるのは弘紀が心から書物を好んでいるからだろう。
「何かお貸ししましょうか」
「借りても良いのなら是非」
それならと、弘紀は傍らの本の山の一つから書物を一冊、抜き出した。山が崩れたが弘紀は気にしていない。
「これ、どうぞ」
江戸で流行っている料理本だというが、どういう基準でこれを手に入れたのかはともかく、何故今、修之輔に貸そうと思ったのだろう。弘紀は少し寝ぼけているのかもしれない。
弘紀の頭を撫でて、まだ夏物でも十分の気候、軽く肌触りの良い掛け布を直してやって、隠し通路から部屋を出た。あのおかしな場所にも見回りの者が来るかもしれない。朝までここに居るわけにはいかないだろう。
借りた本は次に会う時に返す約束で、それは次に会う時があるという約束でもあった。修之輔は弘紀に借りたその書物を、懐にしっかりとしまい込んだ。
その二、三日後、山崎に呼ばれて部屋を出て行った木村が戻ってきて、宿直の当番の場所が増えた、と言葉を漏らした。当日まで番をする場所を明かさない当番ができたらしい。しばらく菊部屋の秋生は前番は通例通り、後番はその新たな当番に入るように伝えてくれ、と言われたという。
それはおそらく弘紀の計らいで、宿直の夜は弘紀に会えることを暗に確約したものに違いなかった。
「今、人が少ないからな。新人はなるべく多く仕事して、その内容を覚えるように、とのことだ。だからといって前番後番、続けて入るのか。大変だな」
そう木村に労わりの目で見られたが、大変ではなさそうだから大丈夫だ、とだけ応えた。
ただ、よくよくその謎に満ちた当番に配置される名を見れば、修之輔のほかにあと二、三名、見覚えのない名の者が入ることがあるようで、確かに修之輔一人だけがそこの当番にずっと入れば怪しまれるだろう。その辺りは弘紀というより田崎の差配の様な気がした。
一度、原もそこの当番に当たり、夜中なのに厩の世話だ、と、いつも通りの無表情で部屋を出て行ったし、他にもその当番にあたった者が城内そこかしこの灯籠の油を差しに行ったこともあった。勤務前に油の量は確認しているので門番の係りは怪訝な顔をしたが、油を差しに来た者も命じられたから来ただけ、どうして自分がこの作業をしているのか分かっていないようだった。
臨時の雑務用に都合よく、その当番は割り当てられているのかもしれなかった。
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