第2話
弘紀に煽られて落ち着かない二日間を過ごし、だがその宿直の夜、修之輔は弘紀の元に行くことができなかった。
その夜、不審な人影が城外にあったということで、宿直に前後半がなくなり、集められた者全員が夜通しの番に当てられた。城内の見回りだけでなく、堀の外まで見回りの手が増やされ、準備もないまま夜の海風に晒されることになった者たちは一様に不満を訴えたが、こればかりは誰のせいでもない。控え部屋の囲炉裏の火は一晩中赤々と、落ちつかない気配が夜明けまで続いた。
朝になり、夜通しの番をした者達は登城してきた者達に役割を引き継いで、それぞれ自宅か、あるいは城内の住み込み部屋に戻った。修之輔は特に眠気などは感じておらず、黒河の気候に慣れた身にとって夜の寒さも堪えてはいなかった。それよりも。
弘紀に会いたいときに会えないで、会えるのは決まった日だけ。その決まった日ですら会えないことがあるという現状に、弘紀を求める気持ちが募るだけでなく、正直、隠しようのない苛立ちが混じって、それが修之輔を落ち着かない気分にさせていた。
あの肌に触れるはずだった。快楽に喘ぐあの声でこの耳を満たすはずだったのに。弘紀の身から溢れる体液で指を濡らし、あの身体の中の滑らかな熱を、熱さを、二人で共有するはずだった。
落ち着かない足取りそのまま、部屋に戻る前に風呂場の裏を覗いたが、今朝は薪割りにも来ていない。不意のことがあったから、いくつかの
部屋に戻ると、なんだか昨夜は大変だったみたいだな、と木村に声を掛けられた。今日、菊部屋に振られた仕事は、八つ時過ぎに届く予定の荷の内容の確認と運び入れ、帳面への記載だった。これで午前いっぱい、昼過ぎまで休みが取れる。
寝るか、それともたまには城の外に遊びに行くか、と聞かれ、城内で竹刀を振れるところはないかと木村に聞いた。
「そういえば秋生は剣術をやると言っていたか。俺もむかしは少し剣をやっていたんだ。一度、手合わせを願おうか」
木村の答えは知りたかった事とは少しずれていて、修之輔は重ねて聞いてみた。
「手合わせは勿論、だがどこでできる」
「北の丸の隅に剣道場があるんだ。時々気が向いた奴が適当に使っているから、まあまあだ。掃除するからといえば使わせてもらえるだろう」
行ってみるか、そう云って立ち上がった木村について部屋を出ると、時間を持て余している三山が二人についてくるのはいつものこととして、部屋の奥に座っていた原が、俺も行く、といったのは予想外のことだった。
菊部屋の四人が連れ立って歩くのも珍しい。二の丸を抜けて北の丸に行く途中、御殿を通り過ぎる時に、修之輔はやはり弘紀の気配を探してしまう。急ぎの会議が開かれているのだろう、いつもより警備の数が多いように見えて、公とはいえ休みを貰っている身としては足早に二の丸の敷地を通り過ぎた。
普段、あまり足を向けることのない北の丸は、いまも人の気配はほとんどない。けれど生き物の気配は充分にあって、厩から顔を出した松風が通り過ぎる修之輔たちを目で追ってくる。
「ここだ」
そう木村が指し示したのは、厩の向こう、剣道場というよりも大勢で集まって作業したり一時的に荷物を置いたりするような平屋の建物で、木村の言葉に依れば確かに年末年始の時などはここに人手を集めて作業するらしい。そのせいか建物の外には何やら荷物が積まれている。中に入れば板敷の広間があって剣道場としての体裁はあるが、ここにもいくつか物が置かれて埃もそこかしこに白く光っていた。
こういうことは勢いだからと菊部屋の四人がかりで置かれたものを脇に寄せ、簡単に片づけてからその辺りに引っかかっていたボロ布で床を拭いた。修之輔はその作業で体を十分に解したのだが、木村はこれで一仕事終えた気分でやれやれと腰を下ろしている。
急かせて立ち合いを促すと、なんだ秋生珍しいな、と木村に驚かれた。
その打ち合いも、最初こそ順当に打ち合ってみても木村の腕に力が足りないのは明らかだった。腰も浮いていて、これではすぐに息が上がってくるのも納得だった。三山はその木村の様子を見て早々に、今回は遠慮しておきます、と竹刀を脇に置いた。
修之輔はこの程度の立ち合いでまったく足りておらず、むしろ竹刀を握った分煽られて、行く途なく彷徨った視線が原のそれと合った。
「じゃあ試してみるか」
おもむろに竹刀を手にして立ち上がった原の気配は日頃の冷めた態度とは異なっていた。竹刀を持つ手、こちらを見据える目。慣れている。しかもこれは。
型どおり、定石どおりに竹刀を合わせたのはほんの数手のみ、すぐに修之輔と原の打ち合いは互いの全力を出し切る激しいものになった。始めの内こそ木村も三山も感心して見ていたが、竹刀の打ち合いだけでなく、体当たりや足蹴りも入ってくるようになると次第に怯え始めた。
一度修之輔が強い蹴りで原を倒したが、原はすぐに起き上がって修之輔の竹刀による追撃を避けた。原はそのまま修之輔の竹刀の半ばを握って動きを封じ、腹を殴りに来た。
修之輔は竹刀を掴む原の腕ごとその体を振り払ったが原の拳は脇腹を打ち、修之輔は竹刀を取り落とした。原の体躯を強引に引き寄せて、自分が倒れるその荷重全てで原の背を抑え込む。原が全身の筋肉を反発させて修之輔を振り払い、修之輔は原の手の内にある竹刀の打撃を避けるためすかさず後方に飛びずさり、取り落とした竹刀を再び手に握った。
原も立ち上がって、ともに正眼に竹刀を構える。
呼吸を軽く整え、再び打ち合いを始めようとして原に制された。木村と三山だけでなく、見物人がやけに増えている。その見物人の並びから一人、前に出てきた者がいる。前に宿直の控え部屋で話しかけてきた外田だった。
「珍しく竹刀の音がすると思って来て見たら、だいぶ派手な事をやっているじゃないか」
仕事の空き時間に、とはいえ城勤めの先輩から何か注意されるのかと思えば、そういうつもりではないらしい。
「俺も試してみたいのだが」
そういって外田は木村の手から竹刀を取った。その間に原は、俺はもういい、とだけ言って外に出て行ってしまった。
「原殿はもう少し愛想というものがあってもいいと思うのですが」
「何か用事でもあったんじゃないのか、腹が痛いとか」
三山と木村がそんなことを言っているのを背後に聞きながら、原との勝負がついたのかどうかわからないまま、こちらも不消化が続いたこともあって修之輔は外田の申し出を引き受けた。
結局、何本か様子を見た後、外田をあっさりと胴打ちで打ち取り、見ていた他の者が次は俺も、と列をなして修之輔に手合わせを願い出る羽目になった。しばらく竹刀を握っておらず、原と思いがけなく全力に近い勝負ができた高揚が続いていたこともあり、修之輔も強いて断ることなく応じた。
何人かを相手に指導することは、道場の師範代であった黒河の頃に馴れてはいた。だが、しばらく様子を見るうちに羽代の城中、特に若い者に、剣術の指導をしっかり受けたことがない者が多いことが気に掛かった。真剣を鞘から抜いたことすらない者も増えているとは聞いていたが、竹刀の持ち方、打ち方すら覚束ないとは。
その時、建物の入り口にざわめきと緊張が走った。何人かがその場で跪礼する気配だが、何が起きているのか、修之輔のところからは見えなかった。
「そのままでよい」
周囲の者に命じる良く通る声。軽い足音。
土間にいた者、板敷の広間にいた者、全てが拝礼の姿勢を取る。開けた視界のその先に、黒曜の瞳を軽く笑ませて、こちらを見ている弘紀の姿があった。
一呼吸遅れて膝をつく修之輔に向かい、弘紀はまっすぐやってきた。
「二の丸御殿からも竹刀の音が聞こえたから」
頭を下げたまま、視線だけ少し上に向けると、土間に立つ田崎と加納の姿が見えた。特に日頃と表情の変わらない田崎とは異なり、加納の表情にはやや苛立ちが見える。この分だと会議の合間に抜け出そうとして、だがこの二人を振り切ることはできずに、結局つれてくる羽目になったようだ。
弘紀が床の竹刀を拾って手に取り、私も、と修之輔に声を掛けてきた。修之輔は拝礼を解いて立ち上がった。周囲は伏したまま、だが皆、顔を上げてこの成り行きを見守っている。
「ではまず基本から」
少し見上げの角度でこちらを見る弘紀の目。懐かしいこの距離感。いつか黒河で何度も繰り返し交わした視線。
何本か、打って返して、姿勢を整えて。
「指導だけでなく勝負もお願いします」
何度目かの打ち合いの後、竹刀を下ろして弘紀がそう言う。修之輔は田崎の方を見たが止められることは無かった。加納の軽い苛立ちの表情は先ほどから変わらない。
軽く首を傾げてこちらを見る弘紀に、では、と答えた。
勝負とはいっても先ほどの原とのような打ち合いを望んでいるわけでなく、二人の打ち合いは互いへの攻撃よりも型の正確さに重きを置いたため、これまでの打ち合いを見て来た者達にはまるで舞を見るように思われた。
打って返して、払って戻る。
黒河で弘紀に剣術を教えたのは自分自身。弘紀はもっとも秀でた門下生だった。
竹刀の音が響く度、思い出されるいくつかの記憶。
朝までこの腕に抱いていたこともあったのに。あの時、弘紀は確かに自分だけのものだった。でも今は。
途切れない打ち合いに、最後、黒河で弘紀に教えた沙鳴きの
これまでで一番大きな音を立てて、弘紀は修之輔の竹刀を受け止めた。
間近に見る弘紀の目。黒河での夜の記憶に、こちらに来てからまだ数えるほどの逢瀬の記憶が重なる。
本来ならさらにこの後、技が続くが。
修之輔は傍目にはわからない程度、僅かに左手首だけ力を抜いた。左右のその差分で均衡を失った修之輔の竹刀を、弘紀が強く打ち払った。修之輔の首元に弘紀の竹刀の先があたる。
修之輔はその場で膝をついて自分の負けであることを宣言した。
傍目に見れば、そして実質も、藩主である弘紀への接待試合だったが、十分に見ごたえがあった立ち合いに、周りは歓声を上げた。
膝をついたままの修之輔の首筋に、様子を気遣うそぶりで弘紀が顔を寄せてきた。辺りの喧騒に紛れてその囁きが直接耳朶に吹き込まれる。
「ただでさえ貴方に自由に会えないのに、お預けにされるとどうしていいか分からなくなる。自分の身ながら持て余します」
濡れる黒曜の瞳に紅い唇、上がる呼吸に軽く開かれたその唇の端を、ちらりと覗いた舌がゆっくりと舐める。その濡れた舌の蠢きに魅入られて、一瞬身動きを止める修之輔の頬を弘紀の指が撫でて、いや掠った程度か、それでも触れたところ、そこだけがいつまでも熱かった。
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