第6話

 枕元の有明灯明、その三日月の窓から洩れる光が深夜の部屋の底だけを照らして滲ませる。


 上がった息がようやく整い始めれば、閉め切りの狭い寝室の中の空気は暑苦しくて、座敷とのあいだの襖をあけると風より先に月の光が差し込んできた。灯明よりもむしろこちらの方が明るい。

 座敷は海に面した一面が開け放たれたままで、畳の上に落ちた松の枝葉の影が作る複雑なまだら模様が風の音に少し遅れて揺らいでいる。岩礁を洗う波の音が耳に心地良く響いて、ここに来るまで浸かっていた町の喧騒が夢のように遠く感じた。

 水差しと汲み出し茶碗が座敷にあったのを思い出して、持って来ようと修之輔が床を立つと、寝室に戻る前、弘紀も座敷に移ってきた。体は大丈夫かと聞いてみると、平気だという。水を飲んでしばらく、夜風の入る観月の座敷に二人で座って月を見た。


「弘紀、先ほど俺はどうやらからすと言う者の手引でここまで来たようだが、烏とはいったい何だ」

 ただ久しぶりの会話を交わしたいだけ、何の気なしの思い付きを問うてみると、思った以上にはっきりとした声音で答えが返ってきた。

「田崎の配下です。貴方をここまで導いたのは、その烏の一人、加ヶ里だったかと」

 弘紀の答えは簡潔で、その口調には、この件に関して修之輔に隠す事は何もないという弘紀の意思が汲み取れた。

「忍び、というよりもっと、なんていうんでしょうね、場合によっては表に出てきて敵と直接交戦もできます。軍勢というほど数はいない筈ですが、私兵になるので本来は幕府の掟に背くものなのです」

「弘紀が把握しているわけではないのか」

「はい。あくまで田崎の配下です。もともと田崎は母上の護衛を務めていました。実は私の母は羽代に嫁いで来る前、もう少し西の方の国に一度、嫁いでいるのです。母が私の父の後妻として羽代に来ることを黒河藩主が承諾したのは、母もまた再婚だったという事情があったのです」

 環姫が羽代に嫁いできた時、既に二十歳を越えていたと言い、家柄を考えに入れれば確かにこの頃の武家の女性の初婚としては遅すぎる。

「その母の初婚の相手が、母の護衛に付けたのが田崎でした。けれど母が嫁いで一年しないうちに相手の方が急逝し、母は黒河に一度戻りました。田崎はその道中の護衛も務めたそうです。それから田崎は自分の生国に帰ることなく、母を自分の主として仕え、母が羽代に嫁ぐときも護衛として従ってきました」

 弘紀の母は黒河藩主の妹姫であったので、黒河にいたとき、修之輔も度々その身辺の話は耳にすることがあったのだが、今、弘紀が語っている環姫の初婚の話は初めて聞くものだった。

「烏は田崎がその西国で所属していた組織を模して、羽代で自ら編成したものと聞いています」

 今まで西に傾く満月を見ながら話していた弘紀が、こちらを見る。

「良い機会ですので、修之輔様にお願いしておきます」

「藩主様のお願いならば断われるはずがない」

「真面目な話なのです」

 真面目に答えたつもりだったのだが。身を乗り出すようにして話す弘紀に、顔だけでなく、体も向け直す。

「もし田崎が貴方を烏に入れようとしたら、断ってください」

「弘紀の護衛をする者達なのではないか」

「先ほどから言っているように、私の配下ではなく、田崎の配下なのです。少し良くないことも耳に入ることがあります。貴方は私のもの。他の誰のものでもありません」

 黒曜の瞳に宿る強い光。思わず見入ってしまうその輝きに、柔らかな真綿の手綱が首に巻きつく心持ちがした。それは不快なものでは決してなく、むしろ体の内、微かだが淫靡な高揚を呼び起こす。修之輔はどこか熱に浮かされるように弘紀に答えを返していた。

「分かった。俺は弘紀のもの。他の誰のものでもない。田崎様からそのような誘いがあっても断ろう」

 そう答えると弘紀は満足そうに笑みを浮かべて立ち上がり、修之輔に近付いて、首筋に鼻先をつけてきた。

「修之輔様、あちらの部屋に戻りましょう」

 眠いのか、と聞いたら首筋を噛まれた。

「ひと月、貴方に触れられなかったのです。一回だけでは足りません」

 甘い声音でそう囁かれて答える間もなく、噛んだところを弘紀が今度は舌で舐めてくる。痛みも快楽も、すべてが弘紀から与えられるものと、そう思うだけで体が熱を帯びてくる。

「あと一回で足りるのか」

「あと一回で満足できるように」

「俺に努力しろと」

「はい、鍛えて下さい」

 楽しそうに、嬉しそうに、弘紀が甘えを含んだ小さな笑い声を漏らす。その笑い声の余韻を残したまま、弘紀は立ち上がってこちらに手を差し伸べてきた。

 月の光を背にして弘紀の瞳の光が修之輔を誘う色に変わる。濡れ濡れと光るその瞳。その手を取ってあの閉じられた寝室に。これから先、弘紀と離れることなくずっと傍にいることができる、その幸福が身の内を満たし溢れていく。


 その満月のように満ちる心にきざす影。

 烏を操るという田崎の献身は、未だ弘紀の母、環姫の上にある。弘紀は田崎が自分の意図とは異なる行動をしかねないことを危惧しているようだ。烏についての弘紀との約束を心に刻み、そうして思い出す。


 この城は弘紀の母が殺された、まさにその場所なのだということを。

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