第2章 秋天の風

第1話

 羽代藩は南に海を持ち、北に山地を控えていて、藩主居城である羽代城は藩の南端、海に面して築城されている。三方を海で囲まれた小さな半島の上に築かれた城で、北が内海、南が外海、西の尖端が内海の入り口に、東側が陸続きになっている。海に囲まれたこの地勢から、戦国の頃の羽代城は難攻不落の城として名を馳せた。

 羽代城が建つ半島の大部分は岩礁が隆起して陸よりも小高く、城の天守があったころは、その灯りが海を行く船の灯台替わりになったこともあるという。

 洋上の城ともいうべき羽代城は、波音常に絶え間ない海城うみじろである。


 その羽代城の天守跡に建てられた観月楼で修之輔が目を覚ましたのは、弘紀と一夜過ごした寝室の外、襖の向こうに人の気配を感じたからだった。

 寝具の上で上体を起こすと、その微かな衣擦れの音が聞こえたのか、朝の膳をお持ちしました、とだけ声がして、気配は消えた。傍らで寝息を立てる弘紀はまだ起きる気配がない。弘紀が隣にいる朝は久しぶりで、修之輔は一度起き上がりはしたものの再び弘紀の横に身を横たえてみた。

 寝室の障子から射してくる朝の光。穏やかな波の音。黒河とは違う空気の匂い。弘紀の肌。睫毛。

「弘紀」

 名を呼ぶと、寝ぼけたような仕草で弘紀が修之輔の胸に身を寄せてきた。

「起きているだろう」

「いつ気付きましたか」

「朝の膳、という声に鼻が動いていた」

 そうでしたか、と弘紀は眠気の欠片もない目を開く。その頬を指で撫でてから改めて起き上がると、弘紀もつられたように起きてきた。

 修之輔は身じまいを整えたが弘紀は単衣の上に一枚羽織っただけ、穏やかな青い海が眼前に広がる観月の間で二人、用意された朝食を取った。膳には三つ葉の香りも爽やかなつみれの吸物に漬物、米は白米ではなく玄米が混じったもので、これは弘紀の好みでそうしているのだと本人からの説明があった。

 食べ終ってから縁台まで出て、朝の海を眺めながら茶を飲んだ。これまでも何度も思ったことだが、羽代の茶葉で淹れる煎茶は薫り高く味が良い。弘紀が云う。

「貴方の任務の配置がどういうことになったのか、実は良く分からないのです。奥勤めにしようとしたら田崎に止められました」

 それはそうだろう。本当に弘紀は田崎にそう言ったのだろうか。弘紀の表情を窺い見るが、別段変わらぬいつもの様子でそのまま話を続ける。

「最初のうちは三の丸で城の様子に慣れてもらう、ということになっています。それからなるべく早く二の丸に入ってもらうつもりです」

 羽代城の二の丸には御殿があって、そこは藩主公邸の機能がある。昨夜、夜目に見た大きく堅固な平屋の建屋がそうで、内部には弘紀が執務を行う部屋、家臣と協議する部屋、そして寝起きする私室があり、藩政の中枢と言っていい建物だ。その二の丸の護衛に修之輔に入ってもらうのが弘紀の希望であり、田崎の意向でもある。

 ただ執政の場の近くに突然、見覚えのないよそ者を登用すれば無駄な軋轢が生じるだろうというのは以前にも懸念したところで、まずは周りに馴染むべきだというのは修之輔も理解できる話だった。


 そろそろその仕官の初日の挨拶をしに指定された然るべきところに行かなくては、と思い始めた丁度その時、鐘の音が聞こえた。小さな鐘らしく音は響かず、直ぐに波音に紛れて消えた。

「あれがこの城内の時を告げる鐘です」

 そろそろ今日の執務が始まります、という弘紀の顔はどこか元気がない。どうした、とその頬に触れようと腕を伸ばすと、その伸ばした腕の中、弘紀が寄りかかってきた。

「毎日、ずっと一緒にいられればいいのに」

「同じ城の中にいるのだから」

「そうなんですけど」

 弘紀は腕を伸ばして修之輔に抱き着いて、腹のあたりに頭を押し付けてきた。

「弘紀」

 名を呼んでもそのままの体勢で返事をしようとしない。仕方なく両脇の下に手を差し入れて持ち上げ、自分の体から弘紀の体を離した。猫の様な扱いをされた弘紀は不服そうな顔をしている。その耳元で、ここでまた抱いたら二人とも遅刻だろう、というと、少し赤くなった頬で、そうですね、と頷いて弘紀は立ち上がった。


 一度行動を始めれば弘紀はきびきびと動いて、昨夜の小袖袴をそのまま身につけると城中に不案内な修之輔を先導して歩いて行く。

「そのお仕着せの着物を着ていれば大丈夫です。後を付いてきてください」

 着物、見立て通りに似合って良かった、と弘紀が華やかに笑うが、その弘紀自身の着物の袖、金糸銀糸が夏の朝陽に煌めく。広くはなくても瀟洒に手入れの行き届いた天守跡の庭園を、軽やかに歩いて行くその背を見ながら、この場所こそ弘紀のいるべき所だったのかと思う。それは自分が知らない弘紀の過去を突きつけられたようでもあって、どこか寂しさを伴う実感だった。


 本丸と二の丸の間の門に着いて、弘紀はそこの門番に修之輔を引き渡した。あとはこの者が案内しますから、というので、その門番に持参していた任官の書面を渡すと、門番は中を改めて頷いた。

 特にこちらを見ようともせず、弘紀に対しても無表情に対応するその様子はどこか人形のような無機質さがあって、昨夜の闇の中で微かに感じた違和感が朝陽の中ではより強く感じられた。だが気にしていない弘紀の様子を見ると、これはそういう役割の者のようだ。

「申し訳ないのですが、私は先に行かせてもらいます」

 それでは、と軽く頭を下げた弘紀が二の丸御殿に速足で向かい、どうやら裏口らしい狭い玄関から建物の中に入って行くのを見送ってから、修之輔は門番と三の丸の方へと向かった。

 弘紀の行動は先程の感慨に追い打ちを掛けるようだった。自分と弘紀は連れ立って歩けない身上の違いがあることは確かで、それを今後も端々に思い知らされるのだろうと、覚悟していたはずの事実をもう一度、胸の内で確認した。


 昨夜も通った二の丸御殿の脇の道を通って三の丸に向かう。三の丸の門の手前、修之輔を先導してきた門番が、後はご自分で、と言い残して踵を返し、来た道を戻っていった。

 自分一人で大丈夫なのか、と疑念を持ちながら門に近づいたが、特にそこの門番に呼び止められるということは無かった。城の内側から外側へ向かう移動は見咎められることがないようで、なによりお仕着せのこの着物が身分を証明しているのだろう。

 門を潜った先、三の丸は、厳然とした二の丸とは違い、雑然とした雰囲気がある。すでに土埃を上げながら立ち働いている者がそこかしこに見えるからかもしれない。任命状に添えられていた端書には大手門の門番に声を掛けろと書いてあって、結局、羽代城の最奥の天守から入口まで横断した形になり、そこそこ時間が掛かってしまった。

 指示通りに今度は大手門の門番に声を掛けると、門番は城の内側から来た修之輔にちょっと怪訝そうな顔をした後、書状の中を改めると別段何の事もなく一つの建屋を指し示した。

「あそこの建物の中に入ってすぐの座敷で待っているように、とのことだ。今日から仕官の者が数名、そこにいるから」

 そう云って修之輔の顔を見て、なんだか随分と綺麗な顔だな、という。唐突に寄越された個人的な感想だったが、これまで自分の容貌について他人に言われた時に感じていた生理的な嫌悪感は覚えなかった。思ったままを口に出しただけの単純さが感じられて、どこか弘紀の気質に似通う部分があったからかもしれない。

 案内の礼を言って教えられた建物の座敷に入ると、自分と同じく、与えられたばかりの新しいお仕着せの着物を着た数人が所在無さ気に座っていた。修之輔が空いた場所を探して座り、後からもう二、三人がやってきた後、どたどたと廊下を走る音がして襖が雑に開いた。

 そこにいた者全員が平伏したものの、そんなんじゃない、そんなんじゃないから、などと焦った声が頭上から聞こえてきた。頭を上げると同じお仕着せの着物を着た者がいて、何か紙片をめくっている。年は修之輔より年上のようで、二十五、六か。恰幅が良いと言えば聞こえがいいが小太り気味で、額から流れる汗を手拭でせわしなく拭いながら、あ、俺は山崎だ、これから同輩になるからよろしく頼む、と適当に自己紹介をしてそのまま説明を始めた。


「これからそれぞれが配置される部屋の名前を読み上げるから、各自その部屋に行き、今後の指示を仰ぐように。ええっと」

 その前にまず全部の部屋の名前を言ったほうがいいのかな、と呟いている様子から、何か段取りが準備されていたわけではなさそうだ。

「うん、まず住み込みの者たちの部屋は五つある。それぞれの部屋に独自の役割と、日替わりで担当する役割がある。詳細は部屋の者に聞いてほしい。部屋にはそれぞれ名前があって、鶴、亀、松、梅、菊だ」

 覚えやすいような、雑に決められたような、その五つの名を頭の中で反唱していると山崎が紙片から目を上げて云う。

「亀の部屋の者達の中には、名前が嫌だと、勝手に玄武と名乗っている者もいるが、亀は亀だ」

 どっちを覚えればいいのだろうか、いやそれとも自分が亀部屋だったらどちらを名乗るべきなのか。動揺が新人たちの間を走る。確かに亀部屋という響きはあまりいただけない。

 ざわつく座敷の様子を気にも留めずに、山崎は、では部屋と名前を読み上げる、と話を進めていく。

 最初の鶴部屋に修之輔は呼ばれず、亀部屋に呼ばれたものが、亀か、と呟いた。山崎が俺も亀部屋だよろしく頼む、と云う。玄武反対派のようだ。松に二人、梅に一人名前が読み上げられて、そうなると残るのは一つだけだった。

「菊部屋、秋生修之輔」

 呼ばれて返事を返し、頭を下げた。

「じゃ、これからそれぞれの部屋まで連れて行く」

 そう言いながら入ってきた時と同じように、小太りの体を揺らす速足で山崎が部屋の外に出て、慌てて他の者はその後を追った。山崎の物言いは終始軽くて城詰のものとは思えないが、これは羽代の気風なのかもしれない。そういえば寅丸にも人をあまり警戒しない人懐っこさがある。そんなことを思いながらこれから同輩となる者達と山崎の後を追って歩いた。


 新人が集められていたのは大手門から城内に入ってすぐ、大手門側に開いたコの字の形に建てられた建物だった。二階建ての上階部分に矢口がいくつも開けられているが、戦国の時代の名残というより、ただの意匠のように見えた。櫓門の構造をしたその建物は一階部分の真中を大きな扉で開け閉めできるようになっている。そこは今は開け放たれて、大手門から城内へ向かう人が途切れなく続いていた。

 その人の流れを縫って、新人を引き連れた山崎は櫓門を背に、さらに城の内側へと入っていく。修之輔にとっては先ほど来た道を戻ることになった。三の丸敷地内の幅の狭い階段をいくつか上ると石垣の上に視界が広がった。平らな土地に、奥行きのある平屋が二列、連なっている。

「ここが住み込みの者の部屋だ」

 山崎はそう云って平屋の一つの玄間に皆を集めた。

「こちらの平屋には鶴、亀、松の部屋がある。これらの部屋に配属されたもの、前に出て来い」

 該当する新人が列から出ると、山崎の声が聞こえたのか、平屋の中から二、三人が玄関まで出てきた。

「新人を連れてきたぞ。後を頼む」

「案内すればいいのか」

「あとは役目の説明もしてほしい」

 打ち合わせがあったようには思えないやり取りのあと、鶴亀松の新人はそれぞれの部屋の先輩に引き渡された。


「梅と菊はこちらだ」

 もう一つの平屋に田崎は修之輔を入れて残り二人の新人を連れてくると、今度は玄関を上がって中に入った。真っ直ぐな廊下が伸びて、その向かって左側に襖が並ぶ。いくつかの部屋が並んでいるようだ。玄関寄りの襖をあけて、梅の部屋、新入りだぞ、と中に声を掛ける。

「ああ、そうか、梅の連中は今仕事か。仕方ないな、奴らのとこに連れて行くから玄関で待っていろ」

 言われた新人が分かりました、と玄関に向かう。梅の部屋の先、それで、と、山崎が最後に残った修之輔を振り返った。


「ここが菊の部屋だ」

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