第5話
これまで通りの呼び方に、座礼も平伏も弘紀は望んでいないと察して、だがその前に既に足は弘紀の側へと進んでいる。姿勢よく座る弘紀をただ身近に感じたくて、片膝ついてその肩に伸ばした手の先、弘紀がふと表情を変えた。
「そうじゃなくて」
弘紀のその言葉に修之輔が手を止めると、弘紀は少し慌てた様子になった。
「そうじゃなくて、は、私自身への言葉です。いえ、貴方にも言いたいことが」
今度はどこか困った様子、かと思えば怒っているようにも見えて、見る間にころころと表情が変わる。修之輔は伸ばした手を退いて弘紀の傍らに腰を下ろし、弘紀の次の言葉を待ってみた。
「そう、私は怒っていたのです」
その言葉に、そうだろうな、と返すと、分かっていたのならどうして、今度はふてくされる。怒っているのは、やはり羽代藩に来たあの日、弘紀に何も言わずにいなくなったことについてだった。
「あの時、突然いなくなるから」
「田崎様から仔細は聞いたのだろう」
「聞きましたが、せめてしばしの別れを惜しむ時間があっても良かったのではないですか」
「惜しめば惜しむほど別れがたくなるかと思ったのだが」
「……それはそうですね。せめて今夜ひと晩、と言いたくなったでしょうし、その一晩も、どうせだったら城へ、と誘ったでしょうし」
自分の事ですが、と真面目な顔で云うので、ほら、そうなるだろう、と、伸ばした手の先、今度は退かない弘紀の頬を指の背で軽く撫でた。
「その田崎の言い分も仕方ないとはわかっていても、それでもやはり気持ちの持って行き場がありませんでしたから。それに田崎の言うことを素直にきく貴方にも腹が立ったのです」
その時の気持ちを思い出したらしく、弘紀は怒りの色が浮かんだ目でこちらを見てくる。悪かった、と口に出すその言葉に嘘はないけれど、先程から素直に感情を表に出す弘紀の様子が可愛らしくて、どうしても口元が緩んでしまう。修之輔のその様子に、ほんとうに私は怒っていたのです、と、繰り返す口調は先ほどより強くなく、こころなしか頬が紅いように見えた。
「それで、今までどのように過ごされていたのですか。虎道場には何回か使いをやりましたが。貴方が体調を崩されたと聞いて、それも随分心配だったのです」
とりあえずは、自分が怒っていた、ということが修之輔に伝わったと、それで満足したらしく、平静の口調に戻った弘紀が話題を変えた。
弘紀の方は、何回か田崎の目を盗んで、修之輔に会いに行くため城下に出ようとしたけれど全て見つかり連れ戻され、一度は松風に騎乗して強引に脱出しようとしたらひどく怒られたという。松風ごと腕っぷしの強い数人に抑えられて、面倒に巻き込まれた体の松風はその後数日、不機嫌だったらしい。乗せてくれなかった、というからそれはそれで田崎の思い通りだろう。
「藩主になってから、全然自由に動けなくて嫌になります」
そう云った後、先ほどの問い掛けに対する修之輔の答えを待たずに弘紀は立ち上がり、よいしょ、と修之輔の胡坐を組んだ足の上、背中をこちらに預けて座り込んだ。弘紀の小柄な体はこうするとすっぽり修之輔の胸の中に納まって、修之輔の顔を見上げてそこから答えを促してくる。
寄りかかってくる温かな重みが心地良い。二人以外誰もいない静かな夜。弘紀の躰を後ろから軽く抱いて、その髪に頬を触れさせながら耳元近くで言葉を紡ぐ。
暑気あたりの養生のために寅丸の座敷近くの部屋を借りることになったのだが、それを切っ掛けに寅丸の座敷を度々訪れることになったこと。
私室と書斎、そして書庫も兼ねているその座敷には普通の書物以外にも舶来の本がたくさんあって、稽古の後に見せてもらったこと。
寅丸は、うちの道場の奴等は本を読まないから通じる話ができるのが楽しいと、夜遅くまで多くのことを話し合ったこと。
寅丸の蔵書の内には珍しい人体の解剖の本があってこれが修之輔にはとても興味深く思えたこと。
今までしたことの無い鍛錬をしたこと。
これまでのひと月、虎道場でのことを話す間、弘紀は、時折指を修之輔の着物の袖に遊ばせながら、おとなしく聞いていた。
だが、修之輔の話がひと段落ついても弘紀は無言で、寝ているのかと顔を覗き込もうとすると、眠気の微塵もない瞳が、今は不満そうな色を湛えてこちらを見つめてきた。
「なんだかとても楽しそうですね」
弘紀は、今度は拗ねている。
「私はずっと気が気じゃなかったのに。貴方が黒河に帰ってしまったらどうしようと、そうでなくても仕官の話を忘れてしまっていたらどうしようと」
笑ったり怒ったり拗ねたり、弘紀の感情は忙しい。
「弘紀の下に仕官することは決まっていることだと思っていたから、任官の知らせを待つのは苦ではなかったし、むしろ待つ間の時間は楽しみだった」
うーん、とどこか不満な弘紀が修之輔の首筋に頬を摺り寄せてきたので、その身体を腕で抱えるようにしてより近くに引き寄せた。弘紀の体は柔らかくて温かい。
「貴方を黒河藩で待たせていた時、私はやることがたくさんあって、今思えば貴方のことを気にかける余裕がなかった。でも分かりました。貴方はこういう気持ちだったんですね」
言葉の途中、弘紀の唇が首筋に時折触れて、肌にかかる吐息の温かさも感じる。
「過ぎたことは気にしないが、弘紀はこの一か月、そんなに心配だったのか」
「はい。でも今、こうしていられるのなら、確かに過ぎたこととして忘れてしまってもいいのかもしれません」
それで寅丸の蔵書で貴方が興味を持ったという解剖の本はどんな本だったのですか、と、ふいに弘紀が修之輔から体を離した。遠のいた体温を残念に思ったが、書物を好む弘紀は、その本への関心を抑えきれなかったようだ。
「脳髄や眼球などの細かな構造や臓腑の配置などは特に興味はなかったのだが」
修之輔の興味をひいたのは本の最後の数頁、皮膚を剥いだその下の筋肉の図だった。
「腕を動かす筋肉、肩を回す筋肉、足を運ぶ筋肉、どれもが連携し組み合わせって人の動作を生み出していると、それを知れてとても面白かった」
「というと」
軽く首を傾げてこちらを見てくる弘紀の上腕を手に取って持ち上げてみる。
「刀を振るう力は腕だけでなく、この背中から。背中の力は腰のあたりから。すべての筋を滑らかに動かせば効果的に強い力を出せる」
解剖図を見て思い立ち、暑気あたりが回復してから寅丸の道場で何人かを相手に筋肉の成り立ちを意識した動きを実践してみた。そうして実感されたのは、自分の体にはまだ力を生み出すための筋肉が足りなくて、だが虎道場に通う者達の中で、重いものをわざわざ持ち上げたりして体を鍛えている者はそういった筋肉の連携も良く出来ているという感想だった。
「俺はいきなり彼らのように米俵を担ぐようなことはできなかったが、見様見真似でしばらく鍛錬を続けたら確かに打ち込みの力が増したようだ」
へえ、とこれについては弘紀も興味を持ったらしく、自分の腕を触ってみている。
「この頃私は筆より重い物を持っていません。ふうん、鍛錬ですか。私もやってみようかな」
「そうだな。あまりに座ったままだと、刀どころか竹刀も持てなくなるぞ」
「それは困ります」
真顔でそう言いながら、弘紀は自分の腕を触っていた手を修之輔の腕に伸ばして触れてきた。
「そういえば前より硬い」
そっちよりもこちらの方が、と修之輔は弘紀の手を取って肩の近くを触らせた。触れてくる弘紀の指は、最初の内こそ修之輔の肩の硬さを確かめるようにそっと何回か押してきたが、そのうちゆっくりと柔らかく修之輔の首筋を撫で始め、やがて両腕が修之輔の首回りに回された。修之輔はその手の動きに応えるように弘紀の腰に腕を回して体を引きよせ、その体に指を触れながら先ほどの説明をなぞり始めた。
「腕の力は背中のこのあたりから。背中の力は腰のあたりから」
“背長筋は膠骨と腸骨、脊椎骨毎に連なり、膠筋は膠骨と腰椎、脊椎に、椎骨半筋は膠骨と腰椎に連なって、背を反らせる”
弘紀の腰から脇腹、背と、手の平でゆっくりと撫で上げていくと、首筋に触れる弘紀の唇の柔らかで濡れた感触に、熱い息が混じり始める。弘紀の腰は記憶と変わらずしなやかに反って、その弾力が腕に伝わってくる。この腕に感じる弘紀の存在、その肉体。
もっと触れたい、もっと欲しい。
弘紀の頬に手を添えて鼻が触れる近さに顔を合わせ、弘紀が目を軽く伏せるのを待ってその唇に自分の唇を合わせた。そして自分がどれほどこの感触に飢えていたのかを思い知る。ひと月、離れていた間の空白を埋めて、いつもの手順を確かめるように、早急に求める気持ちを懸命に抑えて、ただ深くゆっくりと舌を絡めているうちに二人の唾液が混じって弘紀の口の端から溢れた。舐めとって掬い上げたその舌を弘紀の口腔深くに差し入れると、弘紀は素直に二人分の唾液を飲み込んだ。
着物の生地越しには熱を帯びた互いの中心の固さが触れ合う。股立から袴の中に手を入れて探り、下帯の上から弘紀のものを握ると、手に直に伝わる熱がいっそう欲情を煽る。
「弘紀」
名を呼ぶと、それが返事のように修之輔の腕を掴む弘紀の指に力が入った。修之輔にその先の指の動きをねだるその仕草。修之輔は空いた手で弘紀の襟を強く引いて広げ、露になった肌に顔を寄せ、微かに覗いた胸の突起を吸った。
「んう……っ」
弘紀の体が大きく震える。
修之輔の舌がそれを転がすように刺激する度、弘紀の口からは抑えきれない声が途切れ途切れに零れ始める。弘紀の脚の付け根のそれを擦っていた指は、次第に濡れ湿った感触を伝えてきた。
加える手指の動きに素直に返ってくる弘紀の反応が限りなく愛おしいと思う。次第に行為にのめり込む修之輔は、弘紀の身体を畳の上に押し倒そうとした。だが、
「修之輔、……さま、待って……、ください」
喘ぐ息の合間、弘紀に動作を止められた。
「次の間に床を用意してありますから、そちらで」
弘紀の黒曜の瞳は発情の涙に滲み、声は欲情に濡れている。立ち上がって縺れるように腕も舌も絡めたまま寝間に入ると、そこには二組の寝具が並べて置かれていた。
有明灯明の灯りに一度体を離し、寝具の脇に向き合って立つ。
互いに目を合わせたまま、荒れる呼吸も濡れる唇も相手の視線の前に晒しながら、すでに乱れている着物を脱いだ。
帯を解き、袴も小袖も脱ぎ去った単衣一枚になった弘紀の手首を掴んで引き寄せ、掛布をめくる手間も惜しんでそのまま二人して身を投げ出すように横たわり、欲求のままに互いの体を求め合った。
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