すいてるどころか


「すいてるどころか誰もいねーじゃん!」

「秋だねー!」

「テンション上がってんねー」

「久しぶりに来たから、海。なんか楽しいよ」

 電車に乗って20分、そこから歩いて10分弱。頭上は時折晴れ間がのぞく、薄い曇り空。ゆるやかに吹きぬける潮風が‬体全体を覆った。

 小さな砂浜を一通り歩いて、それから堤防に腰かける。

「海入らねーの?」

「うん。見たかっただけだから」

「ふうん」

 ‬青に少し灰色が混ざったような海の色は、観光地の海みたいな綺麗な色ではないけれど、私の心を落ち着かせた。

「朝比」

「んー?」

「ありがとうね、今日」

 揺れる海に目を向けたまま、隣の朝比に声をかける。

「来てよかった?」

「うん」

「そ」

 朝比も笑みを浮かべているのが視界の隅と気配とでわかる。

 目の前には大きな海と遠い空が広がって、ゆっくりと流れる時間と髪をなでていく風が心地いい。

「ねえ、朝比は、死んでよかったって思ってる?」

 ずっと訊いてみたかったことを、口にした。

「さあ……どうだろうな」

 小さな声だったけれど、朝比はそれを拾ってくれた。自分でも考えるみたいに、いつもの軽い声が返ってくる。

「後悔してないってのも、してるってのも、本当」‬‬‬

 ふたりだけの浜辺に波が静かに寄せては返していく。繰り返し、繰り返し。

「後悔、とはちがうかもな。友だちも、職場の人も、自分に良くしてくれた人たちの好意をみんな捨てたから、そんな自分を薄情だと思った」

 私はそこで初めて朝比に顔を向けた。その横顔は、遠くを見つめていた。

「まあでも他人に対しては、生きたいなら生きればいいし、死にたいなら死ねばいいって思ってるよ。生きるのも死ぬのも、本人の選択だから」

 責めるようでも、許すようでもなく、淡々と朝比は言う。

「でも生きる選択をしたあとに死ぬ選択はできるけど、死ぬ選択をした後に生きる選択はできない。だから、生きときゃいいと思うよ」

 朝比は海に向けていた顔を私に向けて、目を合うとほほえんだ。なんだか泣きたくなった。

「おまえはおまえなりに幸せになればいいから」

 いつもへらりと笑う男が、まっすぐな目をして言った。その髪は風に揺れない。こみあげてくる何かをこらえるようになにも言えない私のかわりみたいに、「綺麗事だろ?」朝比が小さく首を傾げて、からかうように言った。

 そして直後に伏せられた、そのまぶたを見て唐突に悟る。

 私は、朝比に死なないでほしかった。もっと生きてほしかった。

 苦しみの多い人生を、自分は早く終わらせたいと願いながら、他人に生きてほしいと願うのはなぜなんだろう。

 それはその先に幸せがあることを信じているからだ。幸せになってほしいと、思っているからだ。‬

「香名」

 朝比のやわらかい声が私を呼ぶ。

「今日で、最後だ」

「……なにが?」

「おまえに俺が見えるのが」

 それは広くてゆるやかなこの空間に溶け込むような、穏やかな声だったけれど、私の頭は急に冴える。

「なんで?」

「7日間って決まってんだ」

 タイムリミットがあったらしい。初めて会ったのは月曜日だったから、今日で7日、だ。

「でも、待って、月曜日の夜に会ったんだから、7日間っていうと明日の夜じゃないの?」

「そこがちょっとワケありでさ」

 朝比が口元にゆるく笑みを浮かべた。それは楽しんでいるようにも、諦めが混じっているようにも見える。

「ぴったり7日間になる直前の、夜中に消える。だから実質今日まで」

 そして、ゆっくりと視線を海に移した。この見慣れてきた横顔も、今日で最後、らしい。

「寝てる間にいなくなる。夢か現実かわからなくなるように」

 朝比が海を見つめたままつぶやいた。

「……なんで」

「信じたいほうを信じれるように」

 信じたいほうを―――それは、寂しいことだ。でもきっと、救うんだ、私たちを。

「じゃあ私、最初に会ったのが夜だったからすごく損してるじゃん」

 そこでなぜか朝比がふきだした。

「なんで笑うの?」

「だっておまえ、俺と長くいられたほうが得なの?」

「だって……そう、でしょ?」

 はは、と朝比がまた笑った。

 だからだんだん恥ずかしくなってきて、なんなの、もう、と思ったけど、笑う朝比の顔が少しだけ嬉しそうで、その顔を見ていたらなんだか私も笑えてきた。

 じゃあ寝ないで起きてる―――とは、言えなかった。朝比がそれを望んでいないことを知ってしまったから。

『夜更かしすんなよ』

 ちゃんと寝て、おいしく食べて、狭い世界に閉じこもらないで―――朝比が、私が幸せでいるために手を引いてくれていたことを、ようやく理解する。

 雲間からのぞき始めた光が、淡く海を照らした。波の表面がきらきらと光って、海の上、はるか空高くには、いつのまにか1羽の鳥が大きく旋回している。

 そして無色から橙色に、橙色から藍色に、徐々に変わっていく空と街を眺めながら、私たちは家に帰った。‬


 その日の夜、朝比は私が眠りにつくまでベッドのそばにいた。

 月が明るい夜だった。部屋の電気を消した後も、カーテンを通り抜ける月明かりと街の明かりとで朝比の顔がよく見えた。

「いつか、また会える?」

「会えるよ。おまえが死んだらね」

「……私、信じるからね」

「いいよ」

 朝比はいつものように笑う。

「ねえ」

「ん?」

「私、運がよかったよ」

 最初に朝比が言った。

『幸運か悪運かは知らねーけどな』

 幸運だよ、とは、なんだか照れくさくて言えない。そんな私をきっと見透かして笑うと思っていた朝比は、「俺も運がよかったよ」と静かな声で言った。

 とても意味のある、7日間だったと思う。もう死ぬまで会えないのかと思ったら、寂しさがこみあげてくる。

 そのとき、朝比が私に手を伸ばした。そうして私の頭を、なでた、のだと思う。

「元気でやれよ。そんで、土産話たくさん持ってこい」

 涙が少しだけ視界を覆った。

「うん……朝比もね」

「うん」

 朝比の力強い声に、安心して目を閉じた。

『会えるよ』

 またいつか、会える。

 意識が遠のいていく中で、どうせなら、おばあちゃんになって朝比に会いたいと思った。

 しわしわの顔を見せてあげたい。おばあちゃんになった私と、若い姿のままの朝比。それでも今と同じように笑えると思った。

「たのしみだな」

 明け方、朝比が最後に置き去りにしていった言葉は、私の耳に届かなかった。

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