昨夜はビール
昨夜はビール1杯しか飲まなかったのになんだか頭が重くて、ベッドから起き上がったのはもう正午に近い時間だった。
部屋を見渡してみるけれど、朝比は見当たらない。重たい腰を上げて洗面所へ向かい、顔を洗った。
それから台所に行き、冷蔵庫を開け牛乳を取り出す。そのまま扉を閉めようとしたところで、するりと手が滑った。
牛乳パックが床に落ちる。衝撃で壁や服にも牛乳が飛んだ。
倒れた牛乳パックからさらに中身がこぼれだしていく様子を立ったまま見下ろして、なんだかなあ、と思う。
ため息が出た。白く広がっていく液体を見つめながらその場に座りこむ。服にしみ込んだ牛乳が冷たく肌に当たった。
うまくいかないとすぐに全部を放り投げたくなるのは、昔からの悪い癖だ。わかっているけれど、体は重くて動かない。
うずくまっているうちに、関係のない仕事のことや将来のこと、普段心の奥に眠っているいろいろな不安や焦燥までもが次から次へと押し寄せてきて、なんだか唐突に泣きたくなった。
「なにしてんの」
と、そのとき、急に朝比の声が聞こえた。
顔を上げると私の顔をのぞきこむようにして腰を折る朝比の姿がある。
「牛乳、こぼした」
「派手にやったなー、服まで濡れてんじゃん」
朝比の姿と声に、安堵する自分に気づく。
「……どこ行ってたの?」
「むこうの公園。小学生が俺の知らない遊びしてた。着替えれば?」
「うん……めんどくさい」
「先にここ拭くか?」
「……それもめんどくさい」
「なんだよ、今日は駄々っ子だな」
その場からぴくりとも動かない私を見て朝比はけらけらと笑い出す。……なんだかなあ。そう思いながら、その顔をぼんやりと眺めた。
朝比はよく、楽しそうに笑う、と思う。
こんなふうに明るい朝比が、自ら命を絶った理由はなんだろう。朝比はどんなふうに、生きてきたんだろうか。
牛乳をそっちのけにして、頭の中にはぽつぽつと疑問が浮かぶ。
「朝比はさ……どうして、死のうと思ったの?」
それがそのまま口から滑り落ちた。朝比は「んー」とつぶやきながら、私と同じ目線の高さに座る。
「俺、後悔することが多くてさ」
表情を変えないまま、彼は続ける。
「たくさん人を傷つけたし、傷つけられもした。人生やり直してーなーってずっと思ってて、その延長上で、死にたいと思ってた」
朝比の横顔から目が離せずにいた。その口から淡々と語られる言葉は、私の体の中にじわじわと沁みこんでいく。
「そんなときに唯一の家族だった弟が事故で死んでさ」
その目がゆっくりと伏せられる。
「支えてる人も支えられてる人に支えられてる、ってのはほんとだった」
「……支え、て……?」
「つまり支えるっていう行為に、俺は支えられてたんだ。支えるものがなくなったら生きられなくなっちまった」
朝比の目が私を向いた。澄んだ瞳も、明るい髪も、薄暗い部屋の中でも変わらずに光って見えた。
「……今の朝比の姿は、生きてた時の姿?」
「そうだよ」
じゃあ朝比は今の私と同じくらいの年に、死ぬことを決めたんだね。
服を着替えて、台所を拭いて、かろうじてパックに残っていた牛乳をコップに移して温めた。冷凍庫から食パンを一枚取り出してトースターで焼き、ジャムを塗って牛乳と一緒に食べる。
空になったコップと皿を台所に持っていき、いつもはつい置きっぱなしにするそれらを朝比に促されるままスポンジに洗剤をつけて洗い、洗い終えるとまた促されるままにまな板と包丁を取り出して、玉ねぎと豚ヒレ肉を薄切りにした。
夕食になる予定の味噌漬けの下準備だ。
切った玉ねぎと豚肉をチャック付きの袋に入れ、味噌、酒、みりん―――はなかったから砂糖―――を加え、もみこんで冷蔵庫で寝かせた。日が暮れたころ、弱めの火で焼き上げた豚肉と玉ねぎは、思った以上に美味しかった。
おいしい、と言いながら箸と口を動かす私を朝比は横から眺めている。「朝比ってお腹すかないの?」と訊いてみると「そういうふうにできてんの」とのことだった。
「香名、明日の予定は?」
「特にない」
「じゃあどっか行こうぜ」
「どっか?」
「行きたいとこないの」
「えー……ない」
どちらかと言わなくても私はインドア派だった。基本的に用事がないと外には出ない。
「そんなこと言わずによく考えろって」
「朝比は行きたいところないの」
「香名の行きたいところ」
「なにそれ」
「ほら考えて」
「えー」
行きたいところ、なんて、あっただろうか。
「……じゃあ……海」
「海?」
「うん、海に行きたいかも」
子どものころによく遊んだ地元の海が脳裏をかすめた。海なら人目をあまり気にせず、朝比とも話せるだろう。
「海きらいじゃない?」
「きらいじゃないよ」
将来のことを考えると憂鬱になるけれど、明日の予定を考えるのはわくわくする。単純だ。
「この時期ならすいてるんじゃねーの」
「うん」
楽しみだね、と言うと、朝比は笑った。
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