(2)超応援する
しばしの長考の後。白魚のような細い手が駒を摘まむ。陽炎のように一瞬、空気が揺らめいた気がした。
ぱちん。甲高い駒音が辺りに響く。修司さんの顔色が変わる。あゆむは今、どんな顔をしているんだろう。こちらからは見えない。
戦局を傾ける、攻防一体の妙手。わずかに、修司さんの優勢が揺らいだ。
それで勝負が決した訳じゃないけど。少なくとも一方的になぶり殺される展開ではなくなった。定跡外の一手だから、安心はできないけど。それは修司さんだって同じことだ。
私が対局者なら、どちらを持ちたいだろう。より手堅いのは修司さんの陣形だけど、指して面白そうなのはあゆむの方──かな?
「やァ、注目の一戦だネ」
そこまで思考を巡らせた所で、不意に声を掛けられた。耳障りな、独特のイントネーションだった。
いつの間にか、知らない女が私の隣に立っている。背が低く、小学生くらいにしか見えないが、白髪だ。くりんとした紅い瞳に好奇の色を浮かべ、彼女は私の顔を見上げて来た。
何だ、こいつ?
髪と瞳の色から連想したのはレンだけど。あいつとはキャラが違い過ぎる。
「あんた、誰?」
「鬼籠野燐。目上の者に向かってタメ口は無いんじゃなイ?」
くすくすと笑って、彼女はそう切り返して来た。視線が盤上へと向けられる。
「ね、どっちが勝つと思ウ?」
「……は?」
「当てたら教えてあげル」
試すような言い方だった。どちらが勝つかなんて、そんなのわかりきっているのに。実際に観た訳じゃないけど、大森さんから既に聞いている。
こいつは、私が知らないと思っているのか?
「あゆ──いや、りんが勝つ」
「フフ。それじゃア、あたしは園瀬修司に賭けようかナ。あたし好みの美男子だしネ」
ぱちん。などとくだらないやり取りをしている間にも、対局は進んでいく。何とか自分のペースに持ち込もうとする修司さん、懸命にそれに抗うあゆむ。現局面の形勢だけを見れば、依然として修司さんがやや優勢。
だけど将棋は最後までわからない。終盤で逆転することだってザラだ。
頑張れ、私が付いてる。
大丈夫。徐々にだけど、差は縮まってきてる。さっき指した手が良い感じに効いてる。勝てるよ、あゆむ。
「園瀬修司が勝ったら何してもらおうかナ? ──あ、そうダ」
あたしのケンゾクになってくれなイ?
その時。少女は確かに、そんなことを口にした。口角を吊り上げて。
ケンゾク? 何のことだ?
「イヤ」
わからないながらも即答する。どうせロクでもないことに違いない、断るに限る。
少女は「ザンネン」と肩をすくませた。さして気にする風もなく。
「鬼の力をさらに強化できるんだけどナ」
「要らない。私は自分の力で強くなってみせる」
「クク。それじゃレンには勝てないヨ」
「ぬかせ」
フンと鼻を鳴らして、視線を盤上へと戻す。
修司さんの矢倉は、準決勝で観た時と比べればまだ不完全だ。付け入る隙はある。問題は、あゆむがその隙に気づけるかどうかだけど。
ああ、じれったいなあ。私なら、とっくに仕掛けているのに。いつまで我慢するの……? 今でしょ、そこでしょ、踏み込もうよ!
「二人とも手堅い手を指すよネェ。キミにはつまらないかナ?」
「……ふん」
私の心を読み取ったか、横から声を掛けてくる得体の知れない少女。
つまらないどころか、ハラハラドキドキの連続だ。あゆむが勝つと知ってはいても、この調子じゃ気が休まらない。
まさか、負けたりしないよね? 頼むから、勝機を逃さないで。
「──本来なら、キミがこの対局を観ることは無かっタ。鬼籠野燐。この意味がわかるかナ?」
「何が、言いたい?」
「キミがここに居る時点で、未来は変わってしまったということだヨ」
善きにしろ悪きにしろ。蝶の羽ばたきが、世界の運命を変えるように。ささいな変化が、未来を不安定にするのだ、と。
妖しい少女は、そんな怪しげな言葉を口にした。
ええと。それは、つまり。
「あゆむが負けるかもしれない、ってこと?」
「そウ。これから起こる未来は不確定。始めから結果のわかってる勝負なんてつまらないでショ?」
私の質問に、彼女はうなずきをもって答える。
確かに、局面は修司さんが優勢だけど。
だから、何だと言うんだ? ここであゆむが修司さんに負けたって、所詮は過去の回想。過去が変わる訳でもなく、現実には何の影響も無い。
「そウ。キミ以外は、ネ」
またしても私の心を読み取ったのか、紅い瞳の少女は思考に割込んで来る。
「キミは平然として居られるかナ? 目の前で愛する弟が負けてモ」
「な──」
「将棋において最も重要なのは、平常心を保つコト。まともな精神状態でなければレンには勝てないヨ。絶対にネ」
それが、狙いか。少女の言葉に愕然とする。
たとえ、現実ではなかったとしても。あゆむが負けて、打ちひしがれている様子を見せられた後で、平然と対局に臨むだなんて。
私には、無理だ。
警戒していたのに、まんまと罠にかかってしまった。まさかそんな企みだったとは。何て姑息なんだ。
「さあどうすル? 観るのをやめるなら、今の内だけド」
「……冗談でしょ」
それこそ、尻尾を巻いて逃げ出すのと同じだ。勝負を始める前から敗北している。
腹をくくる。こうなったら、できることは一つしかない。
「超応援する」
「はァ?」
私の返答に、少女は目を丸くする。
そうだ、応援。今の私にできる唯一のこと。この対局をあゆむと一緒に、最後まで戦い抜くんだ。逃げず臆さず、何があろうと弟を鼓舞し続ける。それが姉の役目というものだ。
「ま。声には出せないけどね」
「何そレ……変なノ」
彼女はあっけに取られた様子でつぶやく。元より理解してもらうつもりは無い。今のは彼女に対してというよりは、自分自身に向けての言葉だった。
対局中はお静かに。声には出せないけど、心は届けるよ。
あゆむ。自信を持ちなさい。あんたは強くなった。その攻めは必ず通る。私が保証する。
だから、超ガンバッテ!
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