第十二章・紅星より愛を込めて──The Roots──

(1)絶対に観たい

 気がつくと、見慣れた道場に居た。

 畳敷きの広間には、いくつもの将棋盤が整然と並べられている。

 いつも通り、まばらに座っている常連さん達。その中にあの白髪の少年、レンの姿は無い。ありふれた日常の光景に、かえって違和感を抱いた。

 舌打ちする。違う。ここは本物の道場じゃない。


 私はさっきまで神社の中に居た。大会に出場し、決勝まで勝ち進んだ。香織さん達と一緒に、力を合わせて。

 それなのに。ここはどこだ? 狐の妖術にまんまと引っかかってしまったのか?


 戻らなくては。今は決勝戦の真っ最中。みんな戦っている。私だって。あのスカしたレンをぶっ倒し、あゆむを取り返すんだ。

 踵(きびす)を返す。道場の入り口へと向かう。まずはここから出る。元居た場所に戻れるかどうかはわからないけど、今は賭けるしかない。

 引き戸に、手を掛ける──。


「どうしました、燐ちゃん?」


 ガラガラと音を立てて、引き戸が開いた。私が手に力を込める前に。

 向こう側から、見知った老人が顔を覗かせた。


 どうして、と言葉が口をついて出そうになる。

 伏竜将棋道場の席主は、普段と変わらない柔和な笑みを浮かべたまま、私の行く手をさえぎっていた。


「もうすぐ対局が始まりますよ?」

「……対局?」

「ええ」


 りんちゃんと、修司さんの対局が。

 彼は確かに、そんな言葉を口にした。


「観ないのですか?」


 そう尋ねて、大森さんは広間の奥を指差す。反射的に振り返りそうになり、懸命に自制した。駄目だ。これは現実じゃない。

 私が為すべきことは、今すぐここを出ることだ。一刻も早く。


「そこをどいて。大森さん」

「りんちゃん、強くなりましたよ?」

「私の弟をそんな呼び方しないで!」

「これは失礼」


 貴女も同じ名前でしたね、と彼は口を押さえて微笑む。

 そうだ、私が鬼籠野燐だ。唯一無二、他には居ない。弟のあゆむは私の真似をしているだけ。決してあの子は、私にはなれない。

 だから。観戦したって、無意味だ。


「……そう。貴女はそう言って、あの日も誘いを断りましたよね。一度も振り返ることなく」


 級位者との対局など、観るに値しないと言い捨てて。顧みること無く、道場を去って行ったと大森さんは続けた。

 そこまで言われて、ようやく私は思い当たる。

 そうか、あの日。あゆむが『りん』として修司さんと指した──あの時のことを言っているのか。


「彼女は、貴女に観て欲しかったのに。貴女は」


 彼女とはあゆむのことか。対局を観て欲しかった? 私に? 何故?

 戸惑う私の顔をじっと見つめて来る大森さん。透き通る瞳に呑まれそうになる。


「嘘。だってそんな素振り」

「彼女は言い出せなかった。貴女に一蹴されるのが怖くて。

 本当は、強くなった自分を認めて欲しかったんですよ」

「……そんな」


 そんなこと、考えもしなかった。あゆむが私の真似をして女装を始めた頃から、心が離れていくのを感じていたから。奇妙な話だ、彼は私に近づこうとしていたのに。

 今になって自覚する。級位者がどうのこうのは関係無い。彼が変わってしまうのを、認めたくない私が居たのだ。

 なんて身勝手なんだ、私は。


「観ていきませんか?」


 大森さんは同じ言葉を繰り返す。彼の口を借りて、何者かが問いかけて来る。

 まさか。私にやり直すチャンスを与えてくれようとしている、のか?

 信じられない。そんなことをして、何のメリットがあるというんだ? 罠? 振り返れば取り返しのつかないことになる? でも……それでも。

 認めたくない理性と、見届けたい感情がせめぎ合う。一体何が最善手なのか、迷いに迷った。


 ──ぱちん。


 その時だった。背後から駒音が聞こえてきたのは。

 あっ、と声を上げそうになる。これ、あゆむだ。振り返らなくたってわかる。

 一切の迷いの無い、清らかな音色。彼には見えているのだ、最善手が。


 観たい。ゾクゾクする。弟が指している。今この場で。このまま歩き去る? 何を愚かな。

 無価値なものか。姉にとって、弟の対局以上に価値あるものは存在しない。たとえ姿は変わってしまっても、中身は変わらない。

 しかも相手はあの修司さんだ。矢倉道を邁進(まいしん)し続けるその姿勢は、尊敬に値する。

 絶対に観たい!


「燐ちゃん?」

「観てやるよ」

「おお……!」

「あんたの思い通りになるのはちょっと、しゃくに障るけどね」


 私の返答に、大森さんは目を丸くするも。すぐに顔をほころばせた。

 その表情からは悪意は感じない。罠の可能性も残ってはいるけど。

 構うものか。私は私のやりたいようにやる。意を決して振り返る。


 清涼な風が頬を撫でる。盤上から飛び込んで来た光に、目がくらみそうになった。

 盤を挟んで。私の中学の時の制服を着た、髪の長い小柄な少女と。一際背の高い、美青年が向かい合っていた。

 修司さんと、弟が。

 変わり果てた弟の姿は二回戦の時に既に目にしている。けど、対局するのを観るのは初めてだ。


 ごくりと唾を飲む。まだ序盤の駒組段階みたいだけど、ピリピリとした緊張感が、離れたこちらにまで伝わってきた。

 一歩を踏み出す。もっと近くで観たい。あゆむの気持ちを感じたい。

 背後に気配は無い。大森さんの姿をした誰かはついて来ていないようだ。

 そっと、気づかれないように弟の後ろに回る。

 修司さんの側からは私の姿は見えるけど、彼の視線は盤上を注視していて動かない。よほど集中しているのか。もっとも、この時点では私達に面識は無いから、見られても特に問題無いのだが。


 陣形は、予想通り相矢倉。練度で言えば、修司さんの方がやはり上か。私なら定跡に構わず乱戦に持ち込む所だけど。


 ──可愛いんだから。


 思わず笑みがこぼれた。あゆむは根が真面目だからか、形にこだわる。修司さんに合わせて、綺麗な陣形の構築を意識しているようだ。

 本当に可愛い、将棋を覚えたての小学生みたい。だけどそれじゃ、大人には勝てないぞ?

 お姉ちゃんが観てるんだから、魅せてよね? あんたの将棋を。


 ぱちん。対する修司さんの指し手には勢いがある。自信に満ちている。きっと沢山研究を重ねてきたんだろうな。傍目から観ていてもわかる。絶対にこの一局に勝つという意気込みを感じた。

 さあ、どうするあゆむ? このまま修司さんのペースに乗せられてちゃ逆転の目は無い。そろそろ手を作らないと。

 勝ちたいのなら、はっきり意思表示をしないと。これから先どう指して、どう勝ちきってみせるつもりなのか、方針を相手に突き付けてやるんだ。流れを自分の方に持って来なきゃ、勝負には勝てない。

 あゆむ。真似したのは姿形だけじゃないというのなら、私に見せて。今までのあんたの努力の成果を。

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