(3)人の気も知らないで
ぱちん。駒音が変わった。迷いを振り切ったような、よく響く、澄んだ音色だった。修司さんの陣地へと、一直線に切り込んでいく。
ぱちん。園瀬流の要は二枚の銀将。中央から軽快に攻め込んで来るけど、裏を返せばその分守りが手薄になる。使いこなせば強力だけど、修司さんはその域まで達していない。
ぱちん。だから、やれる。やれると信じて見守り続ける。終盤力の勝負なら、あゆむの方が上だ。だって──あいつにも、私と同じ血が流れているのだから。
「おかしイ。指し手が変わっタ。ナゼ?」
「未来が変わるのなら、さ。より良い方に転がることもあると思わない?」
とまどう少女に、笑って答える。
ぱちん。少しずつ、盛り返していく。力強い指し回しから、確信を感じ取った。どうやらあゆむも理解したらしい。この攻めは、通ると。
ぱちん。やがて訪れる互角の形勢。ここだ、勝負時。修司さんがこのまま黙ってやられるはずが無い。必ずや、勝負手を放って来る。
ぱちん。問題は、それを跳ね返せるかどうかだ。
前傾姿勢になり、盤上を凝視する修司さん。獲物を狙う鷹のような鋭い眼光が、あゆむの玉を直射する。
決して油断はできない。対応を誤れば、再び形勢は修司さんの方へと傾くだろう。ピリピリとした緊張感が、観ている側にまで伝わってくる。
だというのに、あゆむは──のんきにお茶を飲んでいた。
盤上の緊張などつゆ知らぬという風に。悠然と、湯呑みの中身を飲み干す。
何なんだ、その余裕は? さっきまで修司さんの矢倉に翻弄されていたくせに。まさか、この先の展開を読み切っている、とでも?
最後まで油断するなと警告したい。でも駄目だ。対局中に第三者が発言するのはマナー違反だ。
「あいつ。人の気も知らないで」
「クク。姉の心弟知らずだねェ。さて、そろそろ局面が大きく動くヨ」
にやりと笑って、少女は修司さんを指差す。いや、正確には彼の後ろを。
一人の女性が、大森さんと一緒に立っていた。不安げな様子で、盤面を見つめている。
──ああ、そっか。香織さんも観てたんだ。
大きく動く、か。確かに。香織さんの応援が、修司さんにとってこの上ないチカラとなる。普段の棋力を十とするなら、百にも千にも跳ね上がるだろう。
「って! まずいじゃん、それ!」
「これで先が読めなくなっタ。面白くなってきたねェ」
初段と1級の棋力差なんて、簡単に埋まってしまう。ヤバい。
認めたくないけど、私の応援にはそこまでのバフ効果は無い。せいぜい二倍か三倍といった所だろう。
ミスター穴熊との一局を思い出すに、修司さんの潜在棋力は高段者に匹敵する。あゆむじゃまず勝てない。どうする?
「香織さんをぶん殴ってご退場願う? いやそれはさすがに」
「いちいち発想が物騒だよネ、キミ」
香織さんは大森さんと何やら小声で話している。こっちまでは聞こえて来ないけど、もしかしたら修司さんの耳には届いているかも。一瞬、肩がビクッと震えたのを見たし。
何よりまずいのは、修司さんの棋力の変動にあゆむが気づいていないっぽいことだ。すまし顔で手番を待っている場合じゃないよこのヤロウ。
「……まァ、大丈夫じゃなイ?」
内心焦る私に向かって、少女は口を開く。視線は盤上に向けたままで。
「今でこそ事あるごとにイチャついてる二人だけド。この時点では園瀬修司の心は香織から離れていて、絆ブーストは使えないはずだヨ」
なんと、そうなのか。とても意外だ。てか絆ブーストって何だよ。
「ふむ。修司さん、浮気でもしてたの?」
「将棋にネ」
「は?」
目を丸くする私。冗談を言っているのかと思ったけど、彼女は真顔だった。
「彼もまたアテられちゃったのサ。将棋の魔力ってヤツにネ」
つまり。将棋に夢中になりすぎて香織さんを放ったらかしにしてたってこと? んなアホな。ありえない。
私も将棋の魅力は知っているつもりだけど、だからってあゆむを放置したりはしない。
前からちょっとヤバいなと思ってはいたけど、修司さん……よもやそこまでだったとは。
「ともかくサ。園瀬香織の援護は心配しなくて良いヨ。香織の登場で、園瀬修司の精神状態はまともじゃなくなってるだろうけどネ」
そりゃあそうだろう。言ってみれば浮気現場を目撃されちゃったようなもんでしょ? 今すぐにでもこの場を立ち去りたい気分に違いない。
待てよ。ってことはチャンスだ。冷静さを失って勝てる将棋は無い。ピンチどころか、勝利の女神様だよ香織さんは!
「窮鼠(きゅうそ)猫を噛むということわざもあるけどねェ」
そう思った矢先に水を差される。何なんだよもう、こいつは。
「あんた一体誰の味方よ?」
「あたしはただ可能性の話をしているだけさネ。強いて言うならレンの味方だけド」
ぱちん。話してる間にも対局は進む。互角だった形勢は、あゆむに傾き始めている。
お茶を飲んだ効果か、落ち着いた指し手だ。
ぱちん。んー、まあ。手堅いというか、攻めに対して少し消極的ではあるけどさ。もっと積極的に攻め込んでも良いのに。いや、別に悪い手じゃないんだけど。
ぱちん。駒得して、今やはっきり優勢だと思うし、このまま指し続けても勝てるとは思う。だけど──ちょっと、落ち着きすぎてない?
ぱちん。……あ。
「今の、緩手なんじゃなイ?」
少女の問いかけに、私は無言でうなずいた。
放たれた一手は、自陣を整備するもので。今このタイミングで指すのは、いささか手ぬるいと言わざるをえなかった。
緩手も緩手。下手したらこれ、悪手レベルなんじゃ……?
言わんこっちゃない。余裕ぶっこき過ぎだよ、あゆむ。
駒をつかんだ修司さんの手が、空中で止まる。いや、正確にはブルブルと細かく震えている。極度の緊張からか、それとも。武者震い、というヤツか。
その手に、体中のオーラが収束されていく。次の一手に、全てを懸けるために。
マズいと直感する。この瞬間に勝負に出て来られたら、タダじゃ済まない。
「金将狙いの叩きの歩、それも三連打。凌ぎ切るのは容易じゃないだろーねェ」
そうだ、まともに刺されば大逆転を許してしまう。唯一残った守備駒である金将を守ろうと、下手に相手したら最後。じわじわと追い詰められた挙げ句に、取られた金で玉を仕留められてしまうことだろう。
ここは受けちゃ駄目だ。リスクはあるけど、放置して攻め込まないと。
──ぱちん。未来を揺るがす一打が、ついに炸裂する。鬼気迫る表情で盤を凝視する修司さん。あゆむの一挙手一投足をも見逃すまいとする、凄まじい執念を感じた。
ゴクリと唾を呑む。
何なんだ、この人? どうして試合でも何でもない練習対局に、ここまでの殺気を込められる? 彼にとって、特別な意味があるとでも……?
そこまで考えた所でハッと気づく。視線を上げると、不安げな様子の香織さんが目に入った。
そっか。愛する奥さんに観られているからだ。そりゃあ、気合も入るよね。絶対に勝ちたいよね。
あゆむに欠けているものはそれだ。何が何でも勝ちたいという気迫が、決定的に足りていない。だから何の気なしに緩手を指してしまう。
これまで弟は修司さんの攻めに対し、懇切丁寧に応じ続けて来た。もちろん手抜かないのも大事だけど、そのせいで自分の攻めが遅くなってしまっては本末転倒だ。
気づいてる? 次のあんたの応手に勝敗が懸かってるってこと。
間違ってもその歩は取っちゃいけない。金は取られて『と金』も作られるけど、この際構うな。勝機を失うよりはマシだ。
「あの歩、反射的に取りたくなるよネ。金を取られるのも、と金を作られるのも痛すぎるもン。さア、どうするのかナ?」
ぎらりと紅い瞳を輝かせて、少女は笑みを浮かべる。
あゆむを信じてやりたい。けど、このままじゃ歩を取りそうな気がする。私だって、何も考えなきゃ取るよ。
そうだ。じっくり考えさせなければ。
伝えたい。けど、対局中は第三者の介入はご法度だ。声に出す訳にはいかない。なら、どうすれば良い?
香織さんが愛で応援なら、私は。私にできる応援の仕方は──。
「……そうだ」
思い出す。言葉に出さずとも気持ちを伝える方法を、私は知っている。
悩むなんて、私らしくなかった。簡単だったのに。
拳を握り締める。鬼の力を、開放する。紅炎が宿り、轟々と猛る。
「ちょ、ちょっト!? 何する気なノ!?」
私のやろうとしていることに気づいたか、あわてて声を上げる少女を黙殺する。今はこいつに構っている場合じゃない。一刻も早く、あゆむに理解させないと。
生命(じぎょく)の危機って奴を。
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