(26)融和
内心戦慄する俺に向かって、柔らかに微笑むりん。先程相対した時とは、雰囲気が違う。以前のりんは、心にゆとりが無かった。常に焦燥感に囚われているように見えた。姉になれない焦り、受験勉強が上手くいかない焦り。諸々が積み重なって、追い詰められて見えた。
だが、今は違う。焦りが消え、心の迷いもまた消えた。今のりんには余裕を感じる。どっしりと成熟した、棋士としての余裕が。
参った。付け入る隙が無くなってしまった。
「全て、思い出したのか」
「はい。嬉しいことも、悲しいことも全部。胸の奥が温かい。思い出せて良かったです、本当に」
二人の死は、りんにとって辛い記憶であったはずだ。それでも思い出せて良かったという。
乗り越え、成長を遂げたのだと確信する。姿形は変わらなくとも、目の前に居るのは先程までとは別人だ。
「今の私が在るのは、先生や桂花さんのおかげです。どんなに感謝の言葉を並べても、足りません」
ただ思い出しただけじゃない。二人の本心を知り、真に理解できたことが、りんの成長を後押ししたのだろう。
全く。とんでもないことをしてくれたものだ。何もここまで強くしなくても。勝てる気が、まるでしない。
「それに、修司さんも。暗い闇の底で、貴方の声を聞きました。ありがとうございました」
そう言って頭を下げられると恐縮してしまう。俺はただ、将棋を指しただけなのだが。
「──眠っていた時。将棋盤の底で、私は一人の男の子と出会いました。小学校低学年くらいのその子は、自分のことを『あゆむ』と名乗りました。今まで私に付きまとって来た影の正体を、私はその時初めて知ったのです」
今までりんを苦しめ続けてきたモノ。憎んでも憎みきれないはずの存在は、想像していたよりもずっと幼くて、か弱く見えた。
「出会った時、あゆむはすすり泣いていました。声を押し殺して、必死に泣くのを我慢して、それでも堪(こら)えきれずに。彼は、独りでした」
姉の姿は無かった。誰も、彼の存在に気づかなかった。
「何故泣いているのと尋ねると、彼は失くしたと答えました。大切にしていた、熊の縫いぐるみを」
ずっと探しているのに、見つからない。あゆむにとって、唯一友達と呼べた存在。諦められずに、闇の中を探し続けていた。何年も、何年も。
その間にりんは小学校を卒業し、中学生になっていた。
変わらなかったあゆむと、変わってしまったりん。始めは同じだったものが、大きく乖離してしまった結果。独り取り残されたあゆむは、りんにまとわり付くようになった。置いていかないでと、必死で。
何のことは無い。子供が親にすがり付くのと何も変わらない。そこに悪意は無く、ただただ寂しかったのだ。
「彼と一緒に縫いぐるみを探すことにしました。見つからないかもしれないけど、少しでも彼のためになるならと。少しでも、彼の気が晴れるならと」
二人連れ立って歩き、様々なことを話した。初めて自分自身と向かい合った。姉が怖いとぼやくあゆむに、りんは「あんな泣き虫、全然怖くないよ」と笑った。
でも自分はお姉ちゃんのモノだと言い張る彼に、りんは「君は誰のものでもないよ」と返す。
友達できた? ──少しだけ。年の離れたお兄さんとお姉さん。
頭は良くなった? ──う。努力はしてる。帰って勉強しなくちゃ。
「なかなか見つからなくて、余計なことまで話しちゃいました」
「見つかったのか?」
いいえ、とりんは首を横に振る。
将棋盤の底をぐるぐる回ってみたけれど、縫いぐるみの欠片も落ちてはいなかった。
だけど不思議と、あゆむの表情は晴れやかで。りんの心もまた、軽くなっていた。
今なら。思いきって、りんは先生と桂花さんのことも話してみた。あゆむには辛い話になると、わかった上で。
「彼は今にも泣き出しそうな顔で話を聞いていました。最後まで、真剣に聞いてくれました」
年端もいかない子供には耐え難い話だったに違いない。間接的にとはいえ自分のせいで、二人の人間が命を落としたと聞かされて。
だが、彼らは向き合わなければならない。過去を越え、未来を生きるために。
「話し終わると、彼は私の胸に顔を埋めて泣き出しました。ごめんなさいと、何度も何度も繰り返して。
彼の頭を撫でながら、私も泣いていました。私がもっと早くあゆむと向き合えていたなら、先生達は死なずに済んだかもしれない。今も元気に、皆仲良く将棋を指せていたかもしれない、って思って」
それは違う。全ての元凶は竜ヶ崎。りん達は利用されただけだ。将棋の駒のように、使い捨てにされただけ。駒に敗局の責任を問えようか?
口を挟みたい気持ちをぐっと堪える。今は、りんの話を聞く時だ。
「二人で泣いている内に、心が満たされていくのを感じました。温かくて、懐かしい何かに」
その時、気づいたのだという。自分は、いや自分達は、先生達から多くのものをもらった。今度は自分達が、お返しをする番ではないかと。
生きることで。ただひたむきに、明日に向かってがむしゃらに生き続けることで。どんなに辛く苦しいことがあっても、乗り越えていくことで。
彼らの恩に報いようと。
「不思議な感覚でした。白い光に包まれて、私とあゆむが融けて交わって──やがて、一つになっていました。
そこに、貴方の声が届いたんです。そうだ、戻らなくちゃ。まだ対局中だった。思い出した時には、ここに座っていました」
語り終えると、りんはふぅ、と一息つく。なるほど。己の影と融和したのか。
現在のりんは、あゆむでもある。全ての憂いを飲み込み、昇華して、一つの人格として完成したのだ。
桂花の夢を、図らずもりんが叶えた。眼前に座するは恐らく、俺が今まで会った中で最強の棋士だ。心してかからなければ、瞬殺される。
「観ていて下さい。これが、生まれ変わった私の第一歩です」
再現した局面は、俺が優勢のはずだ。園瀬流矢倉・弐式は、俺にとっての理想形。園瀬修司の半生そのものを体現した戦型と言っても過言ではない。
対するりんは、通常の矢倉。あくまで定跡に則り、園瀬流の枠組みに嵌(は)まった。こちらは既知だが、向こうには未知の形だ。
そうだ。圧倒的に有利なはず、だった。
ぱちん。その認識は、わずか一手で覆されることとなった。
「そんな。飛車先の歩を、突き越した……!?」
呆然とうめく。このタイミングで、もう?
歩を突くということは、先手を取って仕掛けて来るということは。この先の指し手に、余程の自信があることを意味している。
こんなことができるのは、命知らずの馬鹿か。
あるいは、園瀬流の仕組みを見切ったかだが──信じられない、こんな短時間で?
「りん、お前は」
「ごめんなさい。実は香澄さんとの棋譜を観て、予習させてもらいました。
それでも、園瀬流は独特過ぎて、私には十分理解できていませんでしたが。『私達』ならば、可能です」
──そうか。敵は複数居たのだ。
りんとあゆむ。それに先生と桂花さん。四人の心が一つになって、俺を迎え撃って来る。
冗談じゃない。多勢に無勢にも程がある。
今の一手で見極めた。園瀬流は既に攻略されていると見て良い。戦法の優位性は失われてしまった。
ならば。後は俺自身の終盤力に懸けるしかない。何とも頼りないが、やってやる。
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