(25)手向け花

「目を覚ました時。俺は血塗れで倒れる男女と、赤眼の鬼を見た。どれもが見覚えのある顔だった」


 誰かの悲鳴が聞こえた。それも知っている声だった。覚醒したばかりでまた気を失うのかと、彼は胸中で嘆いた。


「その後のことは覚えていない。気づいた時には俺は桂花で、君と将棋を指していた」


 全てを語り終えて、彼はふう、と息を吐き出した。


 彼が聞いたという悲鳴の主は、恐らくりんだろう。正気に戻った直後に二人の死体を目撃し、鏡に映った自らの変わり果てた姿を目にして。彼らを殺害してしまったと誤解し、恐慌状態に陥って──精神を保つために、記憶から抹消した。りんの中で『彼』が長い眠りに就いたのは、そのせいだろうと推測する。

 鬼の力も、その時に自ら封じたものと思われる。


 りんが伏竜将棋道場を訪れるようになったのはその後。対局相手を求めてか、一体化した『彼』の記憶が無意識に作用したのか。あるいは、大森さんが招き入れたかは、りんに訊いてみないとわからないが。

 ともかく。俺達はりんと巡り会えた。彼らのおかげで。


 ぱちん、ぱちん。彼は駒を並び替えていく。先程までの感想戦とは全く違う局面が現れる。その様子を、俺はじっと見つめていた。一手一手丁寧に、寸分の狂い無く整然と並べられた駒達。そこには、並々ならぬ想いが込められていた。


「俺にもっと力があれば」


 こんなことにはならなかったかもしれないと、彼は呟きを漏らす。


「せめて、終わらせてやりたかった。だが、俺には無理だった。桂花の代わりに、最後まで指してやることさえできなかったんだ」


 桂花が力尽きた後、盤上には未完成の棋譜が残された。誰も、続きを指すことは無かった。今、ここに至るまで。

 りんの頬を、一筋の煌めきが零れ落ちる。


「ごめんなあ。桂花」


 何を為すべきか、理解できた気がした。

 将棋指しがここに二人居る意味。考えるまでもない。


「続きを指しましょう。俺達で」


 俺の言葉に、彼は驚きの視線を向けて来る。


「だが、俺では」

「貴方にしかできないことだ。彼女の代わりは、貴方にしか務められない。貴方は彼女に『成った』のでしょう?」

「……修司君。意地悪な言い方をするね、君は」


 そう言われたら、受けない訳にはいかないじゃないか。彼は口角を吊り上げる。瞳に光が灯る。全身から『棋気』が放出され始める。

 死者とはとても思えない力強さを感じる。先程指した時とは、比べ物にならない。

 参ったな。これじゃあ、勝てないかもしれない。


 ぞくぞくする。そうだ、将棋はこうでなくては。勝てるかどうかわからない、極限のせめぎ合い。実力が拮抗している相手と指すのが、一番楽しい。


「宜しくお願いします」


 ぱちん! 軽やかな駒音が響く。陰惨とした空気を吹き飛ばす、清々しい一手だった。これが本当の『桂花』の将棋か──お見事!

 小さい頃から、ずっと傍で観て来た彼だからこそ、彼女の真実を盤上に再現できた。他の誰にも、決して真似はできないだろう。

 胸を張って良い。貴方は、確かに成れたんだ。


 ぱちん! ならばこちらは『りん』でいく。いつもよりも強気で攻める。鬼の力よ、俺にも宿れ。終盤力を、俺にも──渾身の力で打ち込む。

 残念ながら炎は出なかった。だが、自分でも良い手が指せたと思う。時には、思い切って飛び込んでみるのも良いものだ。攻め合いなら、十分勝機はある。


「……不思議だ。君には負けたくないと思っている。今まで、星の数程負けて来たのに」

「何度負けても悔しいものですよ。特にこの一局は、俺も勝ちたいです」


 勝敗に意味が無いことはわかっている。対局の途中から、代理で指しているだけだ。

 だが。勝つつもりで指さなければ、上質の棋譜は生まれない。

 勝つ。そして完成させる。桂花のため、りんのため、彼のため。ひいては、俺自身のために。


 他人の将棋から学ぶことは多い。俺はきっと、もっと強くなれる。


 りん。悔しかったよな。一生懸命指して、せっかく相手とわかり合うことができたのに。良い所で、勝負が流れてしまった。

 一局に懸けた情熱、俺が引き継ぐよ。


 桂花さん。貴女と会ったことは無いが、盤面から伝わって来るよ。将棋への深い愛情。そして、対局相手を想う気持ちが。ありがとう。

 俺と彼とで、今終わらせる。安心して観ていてくれ。きっと、最高の棋譜に仕上げてみせるから。


 ぱちん! 攻め切る。寄せ切る。紛れは許さない。

 ぱちん! 彼も同じだ。攻めが加速する。またたく間に敵駒が俺の玉へと迫って来る。

 双方受けが効かない状態。どちらが、より早く相手玉を詰ませられるか。勝負だ。


「ありがとう、修司君。付き合ってくれて」

「俺も観たいんです。この一局の行き着く果てを」


 もしかしたら、桂花とりんが描くはずだった終局図とは異なる結果が待っているのかもしれない。それでも良かった。どんな形であれ、決着がつくのならば。

 もちろん、負けるつもりはないが。


 一際高い駒音が響く。


「これは」


 指した瞬間にわかった。駒の重みが違う。ずしりと、盤にめり込むんじゃないかと思う程に。

 俺の指し手を見て、彼は息を呑む。


「詰んでいる、のか?」


 一見、まだまだ逃げられそうにも見えるが。今の手応えは、間違いない。後何手かかるかわからないが、確かに詰んだ。りんが、詰ませた。

 彼はしばらく盤面を見つめた後、頭(こうべ)を垂れた。負けました、の言葉を添えて。


「ありがとう、修司君。これで、思い残すことは無い」


 完成した終局図には、四人の想いが込められている。心は繋がった。

 盤上に花が咲いた。手向けの花が。


「今なら、君の声は届くだろう。さあ、鬼籠野を呼び戻すんだ」


 そう言って、彼は穏やかに微笑む。別れの時は来た。彼はあの世へと旅立つ。しかし悲しみは感じない。向こうでは、最愛の女性が待っているから。

 さようなら。どうか、善き旅を。


「りん。続きを指そう」


 一枚の駒を手に取る。歩の駒を。


「最高のお前を、俺に見せてくれ」


 ぱちん。並べ直す。元通りに。

 対局はまだ終わっていない。今度こそ、決着をつける。

 ぱちん、ぱちん。局面は頭の中に刻み込んでいる。寸分違わず再現してみせる。だから戻って来い──りん。


 風が吹き始める。

 秋風のように清涼で、突風のように力強い。

 実際に吹いている訳じゃない。本殿内は静まり返っている。

 棋力の奔流だった。


 りんの身体から、とめどなく棋気があふれ出していた。内に収められずに外に漏れ出た分ですら、本殿内に立ち込めていた瘴気を吹き飛ばすには十分過ぎる程。体内には一体どれ程の棋力が備わっているのか、想像もできない。


 ひょっとして、俺はとんでもないものを呼び起こしてしまったのかもしれない。


「……お待たせしました。修司さん」

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