(24)繋がるココロ

 対局開始の挨拶は無く、振り駒もしなかった。先手は鬼籠野りんだと、その場の誰もが理解していた。

 ばちん! りんは囲おうともせず、一直線に攻め込んで来る。原始棒銀。シンプル故に最速の攻め。

 ぱちん。桂花はそれを、真っ向から受け止める。柔らかく、穏やかに、包み込むように。丁寧に、受け潰していく。


「鬼籠野は居玉のまま、殴り合いを仕掛けて来た。腕力に任せた強引極まりない攻めだったが、桂花の陣地に風穴を開けるには十分過ぎる威力を持っていた。

 それがわかっていたから、桂花は無理に反発しなかった。あえて自陣深くまで入り込ませた上で、完全に包囲し、じわじわと圧(お)し潰したんだ」


 受け切った。攻めが切れた。

 今なら反撃できると、桂花は判断し。

 その判断が誤りだったと、数手後に後悔することになる。


「完全に潰したつもりが、実際には”芯”が残っていた。それでも、到底”芽”が出るような代物ではなかった。普通なら、攻めを切らして勝てたはずだ──相手が、普通の棋士ならば」


 鬼は『発芽』ではなく『着火』を選んだ。自駒もろとも、相手駒を焼き尽くす。そのための種火を、芯に見せかけて残したのだった。

 桂花が気づいた時には、既に延焼が始まっていた。慌てて消火を試みるも一手遅く、火の手は自玉に向かって徐々に広がっていった。


「予想以上だった。まさか、鬼の力がここまでとは」


 怒りに我を忘れ、暴走状態ではあっても。研ぎ澄まされた殺気は、的確に桂花陣の弱点を突いて来る。

 燐とはまた異なる指し回し。一の矢が外れた時には、既に二の矢が用意されている。りんらしいと言えば、らしいが。


 桂花が万全の状態であれば、対抗できたかもしれないが。心身共に、限界だった。

 追い詰められた彼女の瞳が、紅く輝き始める。睡狐の力を借り、何とか持ち堪(こた)えようとする。

 それでも形勢を覆すまでには至らない。燃え上がる炎は、彼女の玉の間際まで迫って来ていた。

 最後の切り札を、使うしか無かった。


「繋いだ手は、じっとりと汗ばんでいた。覚悟を決めるのに、数瞬の刻を要した」


『ごめんね、りょーちゃん』


 桂花は一言そう告げて。彼から手を離し、代わりに一巻きの書物を握り締めた。それは、以前『賞品』として受け取っていた、四十禍津日の写本だった。

 手にした瞬間、彼女の棋力が爆発的に膨れ上がる。限界を超えて。全身から『棋気』が、まるで間欠泉のように噴き出す。底をつきかけていた彼女の棋力が瞬く間に満たされ、それでも収まりきらない分が体外へと放出されていた。

 苦悶の表情を浮かべる桂花の口から、一筋の鮮血が垂れ落ちる。

 それを見て彼は気づいた。棋力の代償は、彼女自身の生命なのだと。


「俺は彼女の手から四十禍津日を奪い取ったが。手遅れだった」


 奪い、すぐさま近くに在った燭台へと投げ入れた。たちまち炎に包まれる四十禍津日。それでも、棋気の放出は止まらない。


「桂花が望んでいるからだと気づいた。このまま生き永らえた所で、夢破れ、竜ヶ崎に利用され続けるだけの人生。それならばいっそ、誰かのために命を懸けたい。生きた証を遺したいと」


 蝋燭の炎が消える寸前に、一層激しく燃え上がるように。己の死を悟った桂花もまた、かつてない棋力をその身に宿していた。

 ぱちん。静かに打ち込まれた一手が、形勢を揺るがせる。一発逆転とはいかないまでも、鬼の攻めを確実に遅らせた。

 指し手が止まる。勢いのままに指して来た鬼が、長考に沈んだ。


 りんの表情が変わる。生じた迷いが、怒りを消した。

 そうだ。目の前の相手は、冷静さを失って勝てる程生易しくはない。


「桂花の想いが、盤を通して鬼籠野に届き始めた。俺は確かに見たんだ。人と鬼が、心を通わせる瞬間を」


 りんは私怨を捨て、一局に集中することを選んだ。対話する、勝つために。


 ぱちん、ぱちん。駒音が調和し、美しい旋律を奏で始める。バラバラだった心が、一つになろうとしていた。りんは桂花を見つめる。桂花もまた見つめ返す。

 盤上には純粋な、一局に懸ける想いだけが在った。二人だけの世界。そこには、他の誰もが介入できない。竜ヶ崎も、二人を見守る『先生』でさえも。


「俺達は何年も一緒に過ごして来たが、果たしてあそこまで心を繋げることができただろうか。正直、羨ましかったよ」


 棋は対話なり、とは言うが。その実現は、容易ではない。初級者同士の対局では、自分の指し手を考えるのに精一杯で、相手の考えを慮(おもんばか)る所まではなかなか至らないものだ。棋力差が大きい場合もまた、難しい。

 ある一定レベル以上の棋力が必要で、高ければ高い程に対話の精度は増していく。


 桂花とりん。限界を超え、至高の領域へと近づいた彼女達はその時初めて、互いのことを真に理解することができたのだ。心は完全に繋がり、切っても切り離せない関係へと至った。


「そう。近づき過ぎてしまったんだ」


 彼女達は越えてはならない一線を越えてしまったのだと、彼は続ける。

 ぱちん、ぱちん。淀みのない規則的な駒音が、終局に向かって曲を紡いでいく。鎮魂曲(レクイエム)を。想いは唯一つ、最高の棋譜(うた)を遺すこと。

 どちらが勝つかなど、もはや意味を為さなかった。完結させることにこそ意味があった。


「無理矢理にでもやめさせるべきだったのかもしれない。桂花の決意を踏みにじってでも、俺は。あいつに、生きていて欲しかった」


 将棋指しが、一度受けた対局を中断することなどありえない。恐らく彼が妨害した所で、結果は変わらなかっただろう。

 それでも。彼の気持ちは理解できる。俺だって。


 対局の終焉は、最愛の人の死。

 それがわかっていて、何もせずに観続けることがどれ程辛いか。俺にだって、痛い程理解できる。準決勝の後、もし香織が目覚めていなかったら──考えただけで、胸が締め付けられる。


 生きていて欲しかった。

 だが。桂花自身は、生存を望んではいなかった。自らの破滅へと、ひた走る。


 りんの猛烈な攻めを、紙一重で見切り。敵陣深くに、反撃の一手を打ち込む桂花。中盤を越え、形勢はほぼ互角。当初短手数で決着がつくと予想していた戦いは、実に180手を超える熱戦となっていた。

 ──対局が長引けば、それだけ桂花の苦しみも続く。荒い息を吐きながらも、彼女は決して指し手を緩めない。


「早く終わってくれと思った。彼女が全生命力を使い切らない内に対局が終われば、もしかしたら一命は取り留めるかもしれないと。その時になっても俺は、まだそんなことを考えていた。一縷の望みを。

 しかし。運命は、無情だった」


 迎えた終盤戦。

 それまで美しい駒音を奏でていた桂花の指し手が、ぴたりと止まった。


 駒を持つ手が、空中で動かなくなる。時が止まったのかと思った。呼吸音が、聞こえて来ない。

 盤に視線を向けたまま、今まさに次の一手を着手しようとした、その瞬間に。

 前触れもなく、唐突に。彼女の幕が、下りた。


「彼女は、盤上で命を散らした。生涯現役。将棋指しにとって、これ以上の死に方は無いだろう」


 淡々とした口調ながらも、語尾がわずかに震えていた。

 俺も、盤上で死んだ男を一人知っている。彼が負った傷の深さは、理解できる気がした。

確かにこの上ない。残された者の痛みもまた。


「到底信じられなかったよ。今にも動き出すんじゃないかと思った。死んだと言われても、生きている時と変わらなかったし。何も」


 そうだ。外見上は何も変わらない。

 ……ただ。将棋が指せなくなった、だけ。もう、二度と。


 彼女の身体が崩れるのを見て、ようやく彼は動くことができた。支え、抱き締める。まだ彼女の体温を感じる。だが、それもじきに無くなる。小柄で華奢な身体は、力が抜けて想像以上に重たく感じた。

 ああ。終わってしまった──。


 声にならない叫びが聞こえて来たのは、その時だった。

 残された者は自分だけではなかったと、彼は知った。


「一局を通して、鬼籠野は桂花と完全に同調していた。そんな中で、急に桂花が居なくなったら? 筆舌に尽くし難い喪失感が、鬼籠野を襲ったことだろう。まるで、己の半身を失ったような、深い絶望が」


 ぽろぽろと両眼から大粒の涙を零し、りんは半狂乱で叫び続ける。何を言っているのかは聞き取れない。元より鬼の状態で、理性を失っていたが。

 救い出すどころではない。このままでは、りんの精神は壊れてしまう。だが、どうすれば。部外者の自分に、一体何ができる?

 混乱する彼に、悪魔が囁いた。


 成れ、と。


「燃え尽きた灰を一掴みし、その男はこう言って来た。鬼籠野あゆむを助けたければ。貴様が桂花に『成る』のだ、と」


 その灰は、四十禍津日の燃えカス。

 桂花が使用し、りんの心と繋がるきっかけとなり。彼が燃やした、暗黒の棋書の成れの果てだった。


 ──これを飲めば、貴様は桂花と同質のモノとなる。


 代償は、己の寿命。摂取すれば四十禍津日の呪いが全身に回り、やがて死に至る。助かる手段は、無い。

 彼は迷った。彼には、教師として生きる道が在る。生徒達を導く役割が在る。死ぬ訳にはいかない。


 ──鬼籠野あゆむもまた、貴様の生徒ではないのか?


 そんな彼に向かって、悪魔はなおも囁きかける。見殺しにして良いのか、と。


「俺が死ぬ寸前に、俺の魂を鬼籠野の中に移植させる。桂花として、鬼籠野の半身を俺が支える。それが唯一救う方法だと、あの男は言った」


 悩む時間は無かった。桂花の顔が頭をよぎった。

 彼女が救いたいと願った少年を、彼もまた助けたいと思った。命を捨ててでも。


「思っていた程、苦味は無かったよ」


 それは、縁を結ぶ儀式。

 吐血し、倒れ伏す彼を見下ろし、男は告げて来た。

 おめでとう、と。

 薄れゆく意識の中で、彼は確かにそんな言葉を耳にした。

 機械のような、酷く無機質な声だった。


 ──おめでとう。

 儀式は無事に成功した。


 こうして。取り返しのつかない過ちを経て、彼はりんの体内に宿った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る