(23)傍に居てくれるだけで
奨励会は修羅が集う。皆が文字通り命を懸けてプロを目指している。プロになれるのはほんの一握り。大半は己の実力不足を悟って退会するか、年齢制限によって足切りされる。
そんな中にあって、桂花も必死にもがき続けた。
だが、どうしても勝ちきれなかった。まるで、呪いを掛けられているかのように。
「彼女の人生には将棋しかなかった。だが、将棋が彼女を苦しめた。言い訳にしかならないけどと前置きを入れて、彼女はこう続けた。
心に楔(くさび)を打ち込まれている。勝ちたくても、あの決勝戦を思い出して、戦意を喪失してしまうのだと」
竜ヶ崎が刻み込んだ爪痕は、ずっと桂花の中に残っていた。何年経とうとも。
勝てる勝負に勝てない。自分には将棋しか無いのに。深い絶望に包まれた彼女が選んだ道は、奨励会の退会と──己の人生に、自ら幕を下ろすことだった。
「ぎりぎりで一命は取り留めたが。死にきれなかったことが、より彼女を絶望させた。
まさに生き地獄。何をなすべきかわからなくなり、さまよい歩いた」
世界から色が消えた。
目標を失い、空虚な日々を過ごしていたある日。彼女の前に、一匹の若い狐が姿を現した。
眉毛に見える目の上の白線が特徴的なその狐は、桂花の顔をじっと見上げたまま、ゆっくりと近づいて来る。そこに警戒心は無く、誰かに飼育されていることは明らかだった。
誰かって。決まっている。
竜ヶ崎の遣いだと気づき、桂花は後ずさった。狐の嗅覚は鋭く、逃げ切れないとわかっていても。
白眉の子狐は桂花の怯えを察したのか、少し離れた所でぴたりと立ち止まった。ぽとりと、口に咥えていたものを落とし。
彼女を一瞥した後、足早に去って行った。
狐が落としたものは、一通の手紙だった。
「差出人は竜ヶ崎雫。『招待状』と題し、繊細な文体で綴られていた内容は……帰還命令だった」
「帰還? どうして今さら」
「プロに届かなかったとはいえ、奨励会で戦ってきた桂花の棋力は折り紙付き。しかも睡狐の依代でもある。竜ヶ崎にとっては、喉から手が出る程に欲しい逸材だった訳だ」
なんて勝手な話だ。かつては邪魔者扱いしたくせに。
手紙を拾い上げた桂花は戸惑い、何日も悩んだ。竜ヶ崎の元に戻りたくはない。が、他に生きる道があるのか、と。それに、誘いを断れば何をされるかわからない。自分だけなら、まだしも。
「彼女は、俺の身を案じた」
彼は言葉を絞り出す。苦しげに顔を歪めて。
タイムリミットは近いのだと悟る。
──帰ろウ、と誰かが囁いた。桂花が迷う時、いつも後押ししてくれた声だった。睡狐と呼称される何者か。物心ついた頃から、ずっと一緒だった。正体はわからなくとも。彼女は、その声を信じ続けて来た。
迷いを振り切り、彼女は帰郷を決意する。
「心身共に衰弱しきった状態で、最後に俺に会いに来てくれた」
一度は道を違えた二人は再会し、互いを想い合った。
彼らの他には誰も居ない教室で、束の間の逢瀬を心から楽しんだ。
桂花は彼の授業を受けることを望んだ。普通の学生のように。
彼は最初渋ったが、結局は引き受けた。下手で良ければと前置きを入れて。
彼女の笑顔を見たのは、何年ぶりだろうか。
別れを惜しむように、互いの指を絡ませ合う。もう二度と、彼女を離したくはなかった。
桂花は嬉しそうに微笑んだ後、彼から離れた。吹っ切れたような笑顔だった。
『あたし、もう行かなくちゃ。バイバイ、りょーちゃん』
最後の一言はあっさりしていたが、引き留めようとする彼を拒絶する意思を感じた。
とっさに伸ばした手が、空を掴む。走り去る彼女の背中を、彼は呆然と見守ることしかできなかった。
「制止の言葉は彼女を苦しめるだけ。そう思って、何も言えなかった──その時引き止めていれば、あるいは結果は変わっていたかもしれない」
それから数ヶ月が過ぎた。
桂花は一度も、彼の前に姿を見せなかった。
その間に、彼はりんに将棋を教え始めた。桂花への想いを振り切るように、目の前の生徒と真摯に向き合った。りんに付きまとう影に気づき、何とか救えないかと真剣に考えた。
俺は思う。彼もまた、りんとの対局を通して救われたのだと。
将棋は人と人との心を結び付ける。互いを思いやるきっかけとなる。
彼らの間にはいつしか、目には見えない絆が生まれていた。
そんな彼らの前に、桂花は姿を現した。睡狐の導きによって。
「雨雲は狐と相性が良いのか、単に睡狐が陽光を嫌うだけか。あいにくの天候の中、彼女は俺達の教室を訪れた。前回と同じく、中学の制服を身に着けて。
俺ではなく、鬼籠野に会うために」
その後のことは、りんからも聞かされている。桂花に諭され、鬼籠野あゆむは鬼籠野りんに『成った』のだ。
睡狐の狙いはりんを眷属(けんぞく)として迎え入れることだった。だが、桂花には別の考えがあったように思える。
「自分と同じく竜ヶ崎に目を付けられ、利用されようとしているりんを助けたかった。違いますか?」
俺の問いかけに、彼は「ああ」と頷く。やはり、そうか。
ようやく合点がいった。
眷属にするなら、むしろ心は弱いままの方が都合が良いはず。逆に励まし、高めようとするその姿勢は、指導者のそれだった。
「桂花は純粋に、ともすれば闇に飲まれそうになる鬼籠野を救おうとしていたよ。竜ヶ崎の意に反していても」
りんから聞いた桂花の人物像と随分かけ離れているが、全ては竜ヶ崎をあざむくための演技と考えれば納得できる。
彼ら三人の時間は、密やかに過ぎて行った。桂花はりんを導き、彼は彼女を支えた。りんの棋力は見る間に上昇していき、それに伴って精神面の脆さも改善できたように思えた。
──そのはずだった、が。
「鬼籠野にまとわり付いていた影が、俺達を排除するために動き始めた」
彼はぽつりと漏らす。鬼籠野りんが心を強く持つ程に、鬼籠野あゆむとの距離は離れて行った、と。
置き去りにされた『あゆむ』は、りんを取り戻すため、原因となった二人の、排除を決意した。
そこに付け込んだのが、竜ヶ崎だった。
「しかし、桂花は竜ヶ崎にとって、喉から手が出る程に欲しい人材だったはずでは?」
「棋力は申し分無かったが、気力が伴わなかった。外観のみを整えた、抜け殻のような将棋。真剣勝負で勝てる訳もなく、棋士としては使い物にならなかったんだ」
だから切り捨てることにした。りんを覚醒させるための、生贄として。
桂花に課せられたのは、竜ヶ崎家全員との何日にも及ぶ『練習対局』だった。
最低限の食事と睡眠時間以外は全て対局で埋められ、外出もできなくなった。
一方で、りんには二人が愛し合う様を見せ付けた。それは幻に過ぎなかったが、何度も繰り返し見せ続けることで、りんの精神を徐々に削っていった。
「その間、俺は何も知らずに、充実した教師生活を送っていた。俺だけが、幸せを噛み締めていた。
ある日竜ヶ崎から呼び出され、全てを知らされるまで。本当に、何も知らなかったんだ」
知った時には手遅れだった、と。
彼は、苦しげに呟きを漏らす。
薄暗い本殿内には、竜ヶ崎の当主と疲弊し切った桂花、そしてりんの姿が在った。両眼を毒々しい血の色に染めて。
怒りに歪んだ顔。ただならない雰囲気、剥き出しの憎悪と殺意。りんは、明らかに正気を失っていた。彼はとっさに桂花の前に立ち、彼女を護ろうとしたが。
その行為が、りんの神経を逆撫でする結果を招いた。
「今にも襲い掛かって来そうな鬼籠野に、竜ヶ崎は歩の駒を一枚手渡した。将棋指しならば、盤上で殺せと告げて」
桂花とりんの間には、将棋盤が一台置かれていた。今、俺と『先生』との間にあるものと同じ、使い古された脚付き盤だった。
この期に及んで、将棋で決着をつけるよう促して来た竜ヶ崎。りんの鬼としての覚醒を目論んでいるのは明白だった。
「俺は止めようとした。だが、桂花は──戦いを望んだ」
竜ヶ崎の企みを知りながらも。自身は限界まで疲労させられていながらも。それでも桂花は逃げず、盤の前に座った。異様な殺気を放つりんに臆すること無く。堂々と、受けて立ったのだ。
りんもまた着席する。手にした歩の駒を、力任せに打ち付けた。
ばぢん! 盤がへし折れそうな程の衝撃が、床を伝って来た。
彼は予感した。恐らくこれが、桂花にとって人生最後の一局になると。
それなのに、自分は彼女のために何もしてやれない。ただ見守ることしかできない。いや、観戦した所で、自分程度の棋力では形勢を判断することすらできない。何もできない、何も。
無力感に苛(さいな)まれる彼に向かって、桂花は柔らかに微笑んだ。
『大丈夫。あなたは傍に居てくれるだけで良イ』
伸ばされた手を取る。ほっそりとした白魚のような指先は、微かに震えていた。
彼は桂花の隣に腰を下ろした。自分にできることが唯一あるとすれば、それは──最後まで、彼女と一緒に居ることだと悟った。最後まで見届ける。どのような結末が待っていようとも。
「鬼籠野は対話のできる状態ではなかった。彼を正気に戻すには、盤上をおいて他に無いと桂花は判断したのだ」
「一か八かの賭け、ですね」
「ああ。鬼の力は未知数で、勝算がある訳ではなかった。だが、それでも彼女は救いたかったんだ」
りんのため、だけではなく。恐らくは、桂花自身のために。
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