(22)決別と再会

 その名は、elmo(エルモ)囲い。コンピュータ将棋ソフトの『elmo』が好んで使ったことから、この呼び名が定着した。

 対振り飛車に特化した戦型で、急戦にもかかわらず横からの攻めに強く、防御力は振り飛車の美濃囲いに匹敵する。


 しかも。ただのelmo囲いではなかったと、彼は付け加えて来る。


「竜ヶ崎は、石田流封じの『棒金』と組み合わせて来たんだ」


 棒金(ぼうきん)。銀将を飛車の前に繰り出して攻める『棒銀』に対し、棒金は守備の要の金将を攻めに使う、異色の戦法だ。その分防御力は落ちるが、横にも利きがある金将の特性を活かし、相手の大駒を抑え込む。

 飛車の可動域が狭い石田流には特に有効で、何も対策しなければ、飛車が詰まされてしまう。そうなれば一巻の終わりだ。


「正確には、通常の棒金と見せかけてからelmo囲いに組んで来た。さすがの大森さんも焦ったと思うよ」


 棒金だけならまだ良い。それに未知の囲いが加わったことで、振り飛車側は指し手に悩まされることとなった。

 相手は定跡外の手を平然と指して来る。対する大森さんは、一手一手の意味を考えながら、慎重に指し続けなければならない。手を緩めれば敗着となりうる。精神力は刻一刻と削られ、疲労が徐々に増していく。


 俺はこれまで、竜ヶ崎のことを頭のいかれた連中だと思っていた。だが実際は違った。

 一見ランダムな指し手には、可能性が秘められている。

 四十禍津日というスパコンにも匹敵するツールを使い、常に新戦法を開発し続けるその姿勢は、真理の探究者と呼ぶに相応しいだろう。

 ──もちろん、対局相手をコケにする意味もあるのだろうが。

 認識を改めなければなるまい。敵は、想定していた以上に強大だった。


「それでも、大森さんは諦めなかった」


 年齢を感じさせない、鋭く力強い打ち込み。軽快な駒音からは、未知の戦法に焦る気持ちをも楽しもうとする気概を感じたという。

 ああ。大森さんは、心底将棋が好きなんだ。だからどんなに不利な局面でも決して挫けず、戦い続けることができる。負けることさえ、楽しめるから。

 そんな人は、本当の意味で強い。


 何しろ、将棋道場を立ち上げたくらいだもんな。生半可な想いじゃない。骨の髄まで将棋が浸透している。生活の一部になっている。好きとかいう次元を、とうに超えてしまっている。

 今さら実感する。俺の目指す先に、大森さんは居るのだと。棋力だけではない。生き方そのものに、強い憧れを感じずには居られない。


 未来の戦法で『初見殺し』を仕掛けて来る竜ヶ崎。古き時代より伝わる石田流を駆使し、それを堂々と迎え撃つ大森さん。ベクトルは違えど、どちらも素直に凄いと思った。俺がその場に居合わせたなら、きっと両方を応援したに違いない。


 俺が今居るこの場所で。そんな名勝負が繰り広げられていたなんて。


「それで。どちらが勝ったんですか?」


 急かすつもりは無かったが、ついそんな言葉が口から漏れ出た。想像しただけで胸が高鳴る。興奮を抑えられない。


「どっちだと思う?」


 俺の反応がおかしかったのか。『先生』はクスリと笑みを零し、そう訊き返して来た。

 以前の俺なら、「大森さん」と即答していたことだろうが。


「棋力が互角なら、の話ですが。序盤で作戦勝ちしていた竜ヶ崎に分があると思います」

「客観的に判断できているな。その通り。中盤まで竜ヶ崎が明らかに優勢で、俺も大森さんの敗北を覚悟した」


 ところが、と彼は続ける。ある局面を迎えた時に、竜ヶ崎の指し手に変調が見られたという。


「熱暴走だ」


 ねつぼうそう? 彼が漏らした聞き慣れない単語に、俺は首を傾げる。

 彼は繰り返す。四十禍津日はAIと同等の存在だ、と。


「負荷をかけ続けたパソコンが熱を持ち、やがて誤動作を引き起こすように。四十禍津日もまた限界を迎えたのだ。

 ──いや。正確には、CPUの役割を果たす、竜ヶ崎の脳みそが、だが」


 大森さんの驚異的な粘りが奇跡を起こしたのだと、彼は告げて来る。苦境に立たされても決して折れなかった心が、最終的に竜ヶ崎に打ち勝ったのだ、と。

 なるほど。『明鏡止水』の時間制限のようなものか。何とか大森さんにトドメを刺そうと、竜ヶ崎は自らの脳に無理をさせ続け。最後には、自滅を招く結果となった。


 負けました。

 抑揚の無い声が、静かな本殿内に響いた。直後、竜ヶ崎当主の身体は事切れたように崩れ落ちる。すぐさま狐面を着けた男達がなだれ込み、彼を担架に乗せて運び去った。深い闇の中へと。

 一方の大森さんもまた、満身創痍だった。棋力のほとんどを消耗し、立ち上がれる状態ではなかったという。


「そこへ雫がやって来て、大森さんに巻物を渡した。優勝景品だと言ってな」


 それが何なのか、俺にも察しがついた。

 巻物を手にした瞬間、大森さんの全身がびくりと震え。全身から『棋気』が放出され始めたという。


「四十禍津日、ですね?」

「ああ。正確には写本だが。それでも恐るべき効力だった」


 呪われた棋書。AIと同等の情報処理能力。そして、人一人の棋力を瞬時に回復させる異能。底知れない闇。

 四十禍津日は、人間の手に負える代物ではないのかもしれない。


 こうして。伏竜将棋道場チームは勝利を手にし、神社を後にした。

 だが三人の表情は暗く、優勝の喜びを口に出す者は居なかった。

 中でも桂花は、思いつめた顔で視線を落としていたという。話しかけても、上の空の返事しか返って来なかった。


「その時の俺は、彼女をそっとしておくしか無いと思った──今にして思えば、致命的な判断ミスだった訳だが。

 誰よりも強くなりたい。誰にも負けない力を手に入れたいと、桂花は強く願った」


 彼女が奨励会に行きたいと言い出したのは、それから数日後のことだった。

 誰よりも強くなるため、プロ棋士の養成機関に入ることを決意した。それはすなわち、道場との決別を意味していた。


 相談を受け、大森さんは思い留まるよう説得した。奨励会は修羅が集う場所。将棋が楽しめなくなると。

 だが桂花は聞く耳を持たなかった。そればかりか、大森さんに向かってこう言い放ったのだった。


『誰のせいでこうなったノ?』


 大会への出場を決意したのは桂花自身だが、誘ったのは大森さんだ。その事実を突き付けられれば、それ以上は何も言えず。

 うなだれる大森さんを残して、桂花は道場から立ち去った。


 彼女が道場に来なくなって、何年もの月日が流れた。

 『先生』もまた、受験勉強に追われていたこともあり、将棋を指すのをやめてしまった。 桂花の安否は、時折送られて来るメールで確認していた。


「彼女は奨励会員になり、俺は教員免許を取得した。それぞれが新しい道を歩き始めた。別々の道を」


 当時はそれで良いと思っていた。夢に向かって頑張ることは、素晴らしいことだと。

 だが。夢は必ずしも叶うものではなかったのだ。


「桂花と再会したのは、鬼籠野の担任になってすぐのことだ。ある日町中で偶然、ばったりと。睡狐に『呼ばれた』と彼女は言っていたが、真偽の程はわからない」


 久方ぶりに会った彼女は、少し背が縮んでいた。元々低めの身長だったが、童顔ということも相まって幼く見えた。


「その時。彼女は何故か、俺が勤める中学校の制服を着ていた」


 学校には通っていなかったはずなのに、と彼は零す。

 何故なのか、あえて詮索はしなかった。きっと答えてくれないだろうと思った。

 他にも気になる点はあった。例えば左手首に巻かれた包帯のこと。嫌な想像が頭をよぎった。

 だから誘った。せっかく再会したのだから、どこかでゆっくり話さないか、と。彼女が今までどこで何をしていたのか、知りたかった。

 桂花はこくりと頷き、こう答えたという。


『あなたの学校に行きたイ』


 彼は迷った。学校に部外者を上げるなど、本来あってはならないこと。断るべきだった。

 だが。桂花の表情は暗く思いつめていて、断れば何をするかわからなかった。迷った挙げ句に、彼は彼女の意思を尊重することにした。


 休日の中学校は人気が無く、静まり返っていた。普段では考えられない程に。

 部活に励む生徒も、休日出勤する教員も、誰一人として居らず。まるで似て非なる別世界に来たような違和感を覚えながら、彼は桂花を教室まで連れて行った。彼が担任を務める、鬼籠野りんのクラスへと。


「着席した彼女を見た時、俺は思ったよ。もしかしたら、こんな平穏な生き方もあったんじゃないかって」


 睡狐の依代などではなく、普通の少女として生まれていれば。竜ヶ崎に軟禁されることもなく、平和な学園生活を送れていたのではないか。

 そう思うと、彼女が何故ここに来たかったのか、理解できた気がした。


「奨励会を辞めたと、その時になって初めて聞いた。淡々とした、抑揚の無い口調だった」

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