(21)異次元の将棋
「久方ぶりに訪れた本殿内の空気は冷たく、重く、静寂の闇に包まれていた。知らず異界に迷い込んでしまったのかと錯覚し、身震いしたのを覚えている。不安と、恐怖に」
気が狂いそうになる程の高濃度の瘴気が、彼ら三人を覆い尽くす。そんな中を、悠然と歩いて来る者達が居た。
「先頭は竜ヶ崎の現当主。その後ろに雫と、もう一人。見知らぬ子供の姿が在った」
白髪と、血のように紅い瞳が特徴のその少年は、無表情に伏竜将棋道場チームの面々を見上げていたという。
「まさか、その子供って」
「ああ。レンだ」
竜ヶ崎漣。彼について、俺はほとんど何も知らない。雫さんの弟で、睡狐の化身という少年。りんを竜ヶ崎に招き入れた張本人らしいが。
先程会った感じでは、俺達に対して悪意を持っているようには見えなかった。つかみ所の無い、不思議な雰囲気をまとってはいたが。
燐が一方的に攻撃を始めたせいで、彼とはロクに話せていない。
だが、香織が「ちょっと生意気だけど、悪いコじゃないよ」と言っていたから、その言葉を信じたいと思う。
「レンについて、当主は俺達にこう説明した。彼こそが、竜ヶ崎と木綿麻山の血を掛け合わせた、真なる睡狐の『御子(みこ)』であると」
血を、掛け合わせた……?
首をひねる俺に、彼はさらに続ける。
「雫の弟であると同時に、桂花の弟でもあるということだ。桂花の依代としての能力を知った当主は、意図的に『交配』させたのだ」
そこまで言って、ため息をつく。それ以上は言いたくないのだろう。
なるほど、つまり……そういうこと、か。
桂花の両親は亡くなったものと思っていたが、実際には多額の借金を抱え、彼女を捨てて逃亡していたらしい。
しかし狐の嗅覚からは逃れられず、捕えられ、借金の全額返済を条件に竜ヶ崎の要求を呑んだ、とのことだ。
レンが産まれた後、彼らの行方は杳(よう)として知れない。
嫌な想像が一瞬、頭をよぎった。
「それを聞いて、桂花は落胆していたよ。あたしには会いに来てくれなかっタ、と。全く、酷い親も居たものだ。
だが、もっと酷いのは彼らを利用するだけして捨てた竜ヶ崎だ。したり顔で説明する当主の顔をぶん殴ってやりたかったが。そんな俺を、桂花が止めてくれた。
将棋で勝ツ。そのために来タ、と」
決勝戦の相手が決まる。
桂花はレンと、大森さんは竜ヶ崎の当主と。そして彼は、雫さんと対局することになった。
「俺が正面に座ったのを見て、雫は鼻を鳴らした。貴方ごときが私の相手を務められる訳が無い。さっさと投了しろと言われたよ」
棋力の差は歴然としていた。やる前から勝負はついていた。
けれど、彼は勝負を投げなかった。ばちんと、力強く駒を打ち込む。
勝てるかどうかは関係無い。何か一つでも、桂花のために頑張りたかった。たとえ彼女の心が、彼から離れてしまっているとしても。
小手先の技が通用する相手じゃない。一直線に攻め込んでいく。苛立ちをあらわに、それを受け止める雫さん。
「奇跡的に攻めが通った。防戦一方の雫の陣地に、勢いのままに駒をなだれ込ませ。後一歩の所まで追い詰めた」
そこまで言って、彼はかぶりを振る。そう勘違いさせられた、と言い直して。
『良い夢見れた?』
静かな口調で、雫は告げ。
信じられない手順で、あっという間に彼の玉は詰まされた。
「何故負けたのか、すら理解できなかった。魔法にかけられた気分だったよ」
そうか。彼はまともに竜ヶ崎の将棋の洗礼を浴びてしまったんだ。序中盤で攻めが刺さって、勝てると確信して攻め込んで。術中にはまってしまった。
だが、仕方ないと思う。いかんせん、彼は実戦経験が少な過ぎた。
気持ちだけでは勝てない。いや、勝ちたい気持ちさえも、竜ヶ崎は狡猾に利用して来る。彼らに勝つには、冷徹に、機械のように指すか──あるいは。
「感想戦を行う気力すら湧かず、俺は席を立った。桂花とレンの対局を観に行くと、こちらは良い勝負をしていた。紅く輝く眼を透き通らせ、桂花は敵陣へと斬り込んでいく」
睡狐の力を借り、明鏡止水を発動させ。就学前の児童相手に、桂花は本気で勝つつもりだった。それでなお、形勢は互角。
レンの顔からは感情が読めない。焦りの色を浮かべる桂花とは対照的に、平然と駒を打ち返して来る。
「形勢は互角でも、両者の精神状態には明確な差があった。桂花は、動揺していた」
レンの予想外の強さに、あるいは死んだと思っていた両親の末路を知ってか。彼女の心はかき乱され、結果、攻め急いでしまった。
均衡が崩れ、形勢が傾き始める。攻めている桂花の方が、徐々に不利になっていく。今さら無理攻めと気づいた所で、もう流れは止まらない。
レンの反撃が来る。痛烈な一打。
将棋に大切なのは、平常心を保つこと。余計な感情は指し手を鈍らせる。
竜ヶ崎がそこまで考えて桂花を動揺させたのかどうかはわからないが。
棋力にそれ程の差が無いにもかかわらず、彼女は一方的に追い詰められていった。
「桂花は必死に粘ったが、一度傾いた形勢は覆せず。詰みは時間の問題だった」
もはやレンが攻めを間違えるのを期待するしかなかった。そんなことはありえないとわかってはいても。
後数手もすれば詰む。見ていられず、彼は目をそらした。
その時だった。信じられないことが起きたのは。
『──どうしテ』
桂花の呟きに、彼が視線を盤上へと戻すと。
レンの玉が、詰んでいた。
「詰んでいた? 桂花が、勝ったってことですか?」
「ああ。詰むはずのものが詰まず、詰まないはずのものが詰んでいた。狐につままれた気分だったよ」
土壇場で、レンは致命的な悪手を指した。誰でもわかる簡単な詰将棋を間違え、更には自玉を敵駒の前にさらけ出したのだ。詰ませてくれと、言わんばかりに。
「負けました、と言ってレンは頭を下げた。勝った桂花は、うつむいて何も答えなかったよ。
ふと、桂花と初めて指した時のことを思い出した。必敗の俺に対して、彼女は自玉を差し出して来た。あの時と同じことを、今度は彼女自身がやられたんだ」
「しかし、何故そんなことを? レンは竜ヶ崎の人間。する必要が無い」
俺の質問に、彼は「これは推測だが」と前置きを入れる。
「恐らくは意趣返し。桂花にとって一番堪(こた)える方法で決着をつけたんじゃないかな。竜ヶ崎は、勝利よりも相手の心を折ることを優先する時があるから」
なるほど。単に勝つだけなら、一時的に凹みこそすれ、桂花はすぐに立ち直る。それよりも、彼女をより苦しめる手を選んだという訳か。
効果は抜群だった。
竜ヶ崎の所有物だった過去が、現在にまで繋がっていることを痛感し。桂花は、完全に戦意を喪失してしまった。
掛ける言葉が見つからず、彼はすごすごとその場を後にする。
残るは竜ヶ崎当主と大森さんの一戦。ピリピリと張り詰めた空気の先に、彼らは居た。一歩近づく度に、足が重くなっていく。
やがて、何とか盤上を視認できる距離まで近づいた所で。彼の足は、完全に止まった。目には見えない結界のようなものに阻まれ、それ以上近づくことができなくなる。
並の棋力の者では、立ち入ることすら許されない。そこは、異次元だった。
「生まれて初めて『死』を予感し、全身に震えが走ったよ」
初めて目にする本気の大森さん。いつもの好々爺ぶりは鳴りを潜め、盤を見つめる表情は鬼気迫るものがあったという。そこに居たのは、一人の棋士だった。
ばちん! 竜ヶ崎の当主相手に臆すること無く、力強い一手を打ち込む。
「数ある戦型の中から大森さんが選んだのは──『石田流三間飛車(いしだりゅう・さんけんびしゃ)』だった」
飛車を3筋に振る三間飛車の中で、石田流は独特の形をしている。浮き飛車に構え、その真下に桂馬を跳ね、端角にして敵陣を狙う。特に『本組(ほんぐみ)』と呼ばれる理想形は、極めて攻撃力が高く、受け切るのは容易ではない。
三間飛車党にとっては、最後の切り札と言える戦法だ。
しかし、それにしても。大森さんが、振り飛車を指すとは。
道場で指導対局してもらっていた時は、常に居飛車だった。飛車を振られたことは、ただの一度も無い。そうだ──指導対局の範疇では。
そこまで考えた所で、ハッとする。まさか。
「本来は振り飛車党だった? 指導する立場として、わざと居飛車を指していた……? 俺達に合わせて、棋力をセーブするために?」
振り飛車を指せば、どうしても本気になってしまう。あふれ出る棋力を、押さえ付けられなくなる。そうなれば指導どころではない。一方的な殺戮が始まってしまうことだろう。
それを悟って。大森さんは自ら、居飛車の足枷を嵌(は)めていたのか。
宿敵と相対する、その瞬間まで。
足枷を外したということは、すなわち。
竜ヶ崎の当主は、大森さんが本気を出すに相応しい猛者だという事実を意味している。
「対する竜ヶ崎は、今まで一度も見たことの無い陣形で石田流を迎撃しようとしていた。少なくとも、当時の俺は知らなかった。あの囲いが、未来に存在していたことを」
意味深な言い方をする『先生』。
当時は無く、未来に存在する囲い……?
「竜ヶ崎の持つ四十禍津日とは、言ってしまえばAIのようなものだ。莫大な情報量の中から、局面に合った最適解を見つけ出す。時としてそれは定跡から外れ、人智を超えた結果を導くこともある。
驚いたよ。今になって、あの時の囲いに再会するなんて、な」
AI、すなわち人工知能。そこから真っ先に連想したのは、コンピュータ将棋ソフトだった。開発が進み、今やプロ棋士に匹敵する程の棋力を得たという『彼ら』と、四十禍津日が本質的に同じものだとすれば。
竜ヶ崎の当主が採用したという囲いは、まさか。対振り飛車用の……?
ごくりと唾を飲み込む。もし俺の想像通りなら、時代を先取りしたにも程がある。
「将棋の戦法は、プロの棋士が考案したものがほとんどだ。ごく一部の例外を除いては」
中には、高段位のアマチュアが考え、プロが採用した戦法も存在する。
だが、竜ヶ崎の場合は違う。プロでもアマでもなく、人間ですらなく。かつて四十禍津日が思いつき、今になってAIが導き出した囲いを使っていたのだ。
「世間一般的には『elmo囲い』と呼称するのだろうがな。当時は、名前も無かったよ」
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