(20)旧・伏竜将棋道場チーム

「大丈夫。りんの『棋』は、大きく育ちましたよ」


 俺には将棋のことしかわからない。りんとの対局を通して感じ取ったのは、将棋へのひたむきな情熱だった。

 彼女がまっすぐ育ったのは貴方のおかげだ。俺が告げると、彼は謙遜するように首を横に振った。


「俺はきっかけを与えたに過ぎない。鬼籠野自身の、努力の賜物さ」

「きっかけが無ければ、人はなかなか変われませんよ。貴方がりんに与えた影響は、貴方が思っている以上に大きなものだ」


 ぱちん。そう言って俺が指した一手に、彼は息を呑んだ。

 攻めの起点を作る。きっかけを作る一手に。


「人生も将棋も、川の流れのように。始まりが、終わりまで繋がっています」

「……だったら俺は、二人の人生を変えてしまったことになるな」


 ぱちん。打ち込むその指先に力は無く。駒音は、彼の呟きよりも小さいものだった。


「二人とは。りんと……桂花さん、ですか?」


 俺の問いかけに、彼は頷きを返し。天井を見上げた。

 そのまま、じっと動かなくなる。長考するかのように。


 静かに時が流れていく。手番は俺だったが、急いで指す気にはならなかった。もっと彼の話を聴きたかった。

 時折隣から聞こえて来る駒音に耳を傾け、じっと待つ。

 ──香織は苦戦を強いられている。だが、まだ心は折れちゃいない。あの雫さん相手に、よく持ちこたえている。頑張れと、心の中で声援を送った。


「俺は、教師になりたかった」


 やがて、彼は重い口を開いた。

 成績が中の下だった少年は、猛勉強に明け暮れた。自らの夢を叶えるために。未だ見ぬ明日へと羽ばたくために。

 桂花と将棋を指す時間は減ってしまったが、そのことを気にかける余裕は、当時の彼には無かった。だんだんと、彼女との会話も減っていった。


「桂花の気持ちを考えると心が痛む。俺は、何よりも大切だったはずの彼女との約束を破ってしまったんだ」


 彼の言葉は、俺の胸にも突き刺さって来る。俺だって同じだ。将棋に夢中で、愛する妻をないがしろにしてしまった。俺には、彼を非難する資格が無い。

 独り取り残された桂花は、何を想っていたのだろう。


 香織や穴熊さんの妻は、将棋を始めることで夫を振り向かせようとした。だが、桂花の場合は違う。

 彼女は一体、どうしたのか。


「桂花は、将棋を選んだよ」


 ぽつりと、彼は告げた。


「俺に見切りをつけ、神社から居なくなり。対局者を求め、さまよい歩いた。将棋を指してくれるなら、誰でも良かった」


 出会い頭に、見知らぬ若い女から対局を申し込まれる。ぼさぼさの髪をかきむしり、血走った眼でにらまれる。断れば将棋盤を片手に、どこまでも追いかけて来るという。そんな奇妙な噂が流れ始めた。

 彼は噂を頼りに、桂花の行方を追った。


「彼女を見つけたのは、伏竜将棋道場。幸いなことに、席主が保護してくれていた」

「……え?」


 意外な所で見知った名前を出され、俺は驚きの声を上げた。

 まさか、大森さんが彼らと知り合いだったとは。

 俺の反応を見て、りんの姿をした彼は薄く笑みを浮かべる。


「君達が道場に通い始めるより何年も前の話だ。知らなくとも無理は無い」

「いや、しかし。不思議な縁を感じます」


 素直な感想を漏らす。かつての伏竜将棋道場を知る彼と、道場を代表して大会に出場した俺が、今ここで将棋を指している。穴熊さんじゃないが、運命の巡り合わせを感じずには居られない。本当に。


「縁、か。あるとすれば、俺ではなく桂花だ。彼女は熱心に大森さんの指導を受けていた。俺はただ、そばで観ていただけさ」


 元々あった棋力の差は、その頃には天と地程のものになっていた。彼は将棋を指すのをやめ、受験勉強に専念した。

 一方の桂花は、さらなる強さを求め、大会にも出場するようになった。対局相手から貪欲に棋力を吸収し、彼女はめきめきと腕を上げていく。

 その様子を、彼は遠巻きに見守ることしかできなかった。


 彼女を案じる気持ちに変わりはない。けれども、彼女の成長について行けず、他にやるべきこともある。

 放っておけば何をするかわからない危うさを感じながらも。彼は傍観者の立場を選んだ。


「いくつかの大会に優勝した頃、大森さんが提案してきた。

 伏竜稲荷神社が主催する将棋大会に出てみないか、と」

「え? それって」


 今日俺達が参加した、この大会のこと? 目を丸くする俺に、彼は肯定の頷きを返して来た。


「竜ヶ崎の養女である桂花が、竜ヶ崎傘下の大会に出場する。それも、敵対チームの一員として。

 この町の将棋界を、竜ヶ崎の支配から解放したい。そのために協力してくれないかと頼まれた」

「それは……危険過ぎませんか?」

「ああ、あまりにも危険だ。俺は猛反対したよ。大森さんには恩義を感じるが、今の桂花を竜ヶ崎と接触させたら、連中に何をされるかわからない。特にこの本殿内は、無法地帯だからな」


 だが。と彼は続ける。

 桂花は「あたし、参加すル」と短く言葉を返して来た。

 深緑の瞳に、強い光が宿っていた。反対しても無駄だと、その目が訴えかけて来た。


「彼女の身は命に代えても守ると、事情を知った大森さんも言って来た。そこまでしてご近所の将棋界を救う必要なんてあるのかと思ったが。

 結局は、俺は折れた」


 彼も参加することを条件に、彼は彼女の出場を認めたのだった。


「付け焼刃だとは思ったが。大会までの時間を、俺は将棋の勉強に当てた。大森さんに駒落ちで指導してもらいながら、桂花とも指した。彼女は昔よりはるかに強くなっていたが、根本は同じで、懐かしさを感じたのを覚えている」


 つかの間の、久方ぶりの二人の時間は。彼が、一方的に攻め潰される結果で終わった。


「弱イ。話にならなイ」


 懐かしいと思ったのは彼だけだったのか。つまらなそうにそう告げて、桂花は席を立ったという。

 それが、彼女との最後の対局となった。


 あっという間に時間は過ぎ、大会当日がやって来た。

 大森さん、桂花、そして彼。過去の伏竜将棋道場チームは、秋空の下に集った。


「大森さんは自ら先鋒を引き受け、矢面に立った。全盛期を過ぎているとはとても思えない鮮やかな指し回しで、確実に敵将の首を獲って来てくれたよ。

 続く桂花は、強敵達との戦いの中でさらに進化し。最後には、明鏡止水の境地へと至った。

 大将の俺だけが、何もせずに、ぽつんと観客席に座っていた」


 彼らは順調に勝ち進んだ。場違いの強さで対戦チームを蹴散らし、ついには決勝戦へと駒を進めることに成功する。

 その様子を、彼は呆然と眺めていた。あまりにも自分とは次元が違い過ぎた。


「決して相手が弱かった訳じゃない。こちらの二人の強さが異常だっただけだ。明らかにアマチュアの域を超えていた」


 彼の言葉に、俺達がもしその場に居合わせたら、と考える。彼らに勝てただろうか? 想像するだけで胸が高鳴る。

 ああ。戦ってみたかった。新旧伏竜将棋道場チーム戦。香織と桂花の明鏡止水対決も見たいし、燐と大森さんの師弟対決だって面白そう。叶わない夢だからこそ、願望はとめどなくあふれ出てくる。

 ぱちん。想いを乗せて一手を指す。少なくとも一戦は実現できた。巡り合わせてくれた将棋の神様に感謝せねばなるまい。


「残すは決勝戦のみとなった時、俺は思い切って提案した。俺に先鋒戦をやらせてくれないか、と。同じチームなのに、一人だけ何もしないまま終わるのは嫌だと、二人に訴えかけた」


 その時の二人の反応を、彼は振り返る。桂花は何も答えずに視線を落とし、大森さんは大きく頷きを返して来た。

 実際には今回と同様、決勝戦は先鋒・中堅・大将の区別無く、同時に行われたのだったが。一人の棋士と認めてもらえた気がして、彼は嬉しかった。


「それに。桂花だけに、辛い思いをさせたくなかった」


 決勝の相手は、あの竜ヶ崎だ。身内となれば、酷い嫌がらせをされる可能性もあった。


「俺達を本殿に招き入れてくれたのは、雫だ。何で戻って来たのよ、と舌打ち混じりに囁かれたのを覚えている。

 ……今思えば、彼女なりに俺達の身を案じてくれていたのかもしれない。あくまで想像に過ぎないが」


 隣では、香織達の対局が白熱している。最初は余裕を見せていた雫さんだが、香織の粘り強い指し手に、徐々に表情が変化していった。眉間にしわを寄せ、汗を浮かべ、何とか勝ちきろうと懸命に指している。睡狐の巫女としてではなく、一人の将棋指しとして。

 ひょっとして、思い違いしていたのか、俺は? 彼女のことを。

 俺などに好意を持っているというのは、とても信じられないが。もう少し、雫さんの言葉に耳を傾けるべきだったのかもしれない。

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