(19)ささやかな願い

 少女はあまりに無知だったが。最後の「負けましタ」だけは、はっきりと聞き取れた。どこか晴れ晴れとした、やり遂げたような表情だったという。

 なるほど、つまり。彼女は自分が負けて初めて対局が終了すると思っていたのか。いや、正確には負けたとさえ思っていない。終わらせるための儀式だったのだ。

 ありえない。そのような暴挙、絶対にあってはならない。将棋のルールを、ねじ曲げるなどと。

 だが、何故竜ヶ崎はそんな嘘を……?


「彼女の存在は、竜ヶ崎にとって邪魔でしかなかった。彼女は部外者で、巫女ですらないにもかかわらず、唯一睡狐の声を聞くことができた。彼らの威信を脅かす存在だったのだ」


 睡狐が自ら選んだ『依代』が雫さんではなくみすぼらしい孤児だったことに、竜ヶ崎の当主、つまり雫さんの親父さんは相当腹を立てたらしい。

 雫さんを激しく叱責する一方で、桂花を養女として迎え入れ、開かずの間に軟禁した。一族以外の、誰の目にも触れさせないように。彼女を、飼い殺しにするつもりだった。


 嘘のルールを教えたのは、どうやらその辺りが原因のようだ。竜ヶ崎より優れた将棋指しが、この世に存在してはならない。万が一にも、雫さんと対局して勝たれたりしては困る。だから、絶対に負けないよう、嘘を教えたのだと。


「無茶苦茶だ」

「当時の俺は、そこまで詳しいことは知らなかったが。それでも憤りを感じたよ」


 思わず俺が漏らした呟きに、彼は苦笑混じりに答える。

 怒りは、少年を衝き動かした。彼はもう一度、少女に対局を申し込んだという。不思議そうな顔をしながらも、彼女はそれに応じてくれた。

 二回目にしてわかった、少女の強さ。知識は無くとも、類稀なるセンスで、彼女は少年の玉を的確に追い詰めていった。

 懸命に抗おうとするも、どうにもならない。圧倒的な力で押さえ付けられ、身動き一つ取れなくなる。そうして、ぶちぶちと手足をもがれる。根元から、丁寧に。解体されていく。

 またしても、裸玉一枚だけが残った。後一手で詰む、その瞬間にまた彼女は、自玉へと手を伸ばし──。

 そうはさせない。彼はとっさに、その手を掴んでいた。


 驚きの表情を浮かべる彼女に、彼は伝える。

 本当の将棋を。真面目に勉強したことの無い少年でもわかる基本的なルールを、棋力に勝る少女に教えた。少々気恥ずかしかったが、百聞は一見に如かずと、実際に指してみせた。

 彼女は呆気に取られた様子で、彼の指し手を見つめていたが。やがては、こくんと頷いた。


「初めて勝った時の彼女の表情は、今でも忘れられないよ。

 呆然と盤面をしばらく見つめ、顔を上げた時には、戸惑いと喜びの入り混じった複雑な顔をしていた。

 負けました、と俺が告げると、驚いたような声を上げたのを覚えている。

 泣きそうな顔で、彼女は礼を言ってきた。ありがとうございましタ、と」


 二人はその後、数局指した。結果は、桂花の全勝。勝利の喜びを知った彼女の指し手はさらに磨きがかかっていて、当時の彼ではとても歯が立たなかったという。

 それでも楽しかったと、彼は当時を振り返る。束の間の逢瀬ではあったけれど、対局という濃密な時間を過ごす内、彼らは互いのことを深く知ることができた。

 最初は聞き取りにくかった彼女の声も、だんだんと大きくはっきりと、リズミカルに聴こえるようになっていた。彼女はまるで、歌を口ずさむように言葉を紡ぎ出す。心地よいメロディーが、少年の耳を潤した。


「竜ヶ崎の連中は、彼女の独特な発音を、人に非ざる忌むべき物と蔑んでいたらしいが。とんでもない」


 彼の話を聞いて、俺はりんが話した内容を思い出した。りんが遭遇した睡狐と桂花は、全く同じ喋り方をしていた。

 もしかしたら桂花は、睡狐を真似たのかもしれない。彼と出会う前の彼女は、両親に先立たれ、孤独な人生を送っていたという。話し相手は、時折憑依して来る睡狐くらいしか居なかったのではないだろうか。


「俺との出逢いが、彼女を変えた」


 変えてしまった、と彼は自嘲気味に続ける。


「勝利の美酒は、一度味わったら二度と忘れられない。知恵の実を食べたアダムとイブのように。俺は、桂花にとっての蛇だったんだ」


 彼女は自ら、竜ヶ崎から教えられたルールを破った。

 出逢いから、わずか数日後のことだった。


「信じられるか? あの勝気な雫が、人目を憚(はばか)らずに泣いていたんだ。完膚なきまでに叩きのめされ、自分の将棋を真っ向から否定されて。わんわんと、まるで赤ん坊のように、みっともなく泣きじゃくっていた」


 そんな雫さんに構うこと無く。桂花は黙々と、一人で感想戦をしていたのだという。勝利の余韻に浸りながら。

 彼がその場に居合わせたのは、全くの偶然だった。一際甲高い駒音が本殿中に響き渡り、続いて聞こえて来た悲鳴に、慌てて駆け付けたのだ。

 呆気に取られた彼に、彼女は柔らかな微笑みを向けて来た。勝ったよ、と。褒めて、と。どこか誇らしげなその表情からは、少女の無垢な気持ちが読み取れた。


「血の気が引いたよ。練習対局とはいえ、睡狐の巫女が敗れるなど、絶対にあってはならないことだったから。

 竜ヶ崎の当主を間近で見たのは、あの時が初めてだ。桂花共々、俺もその場で捕らえられ、尋問された。俺達がどんな『過ち』を犯したのか、丁寧に『解説』された。たっぷりと、時間をかけて」


 日が沈んでもなお続く尋問を終わらせるためには、真実を話すしかなかった。彼は過ちを認め、罰として、ある『枷(かせ)』を嵌(は)められた。

 ──それが、桂花との婚姻。竜ヶ崎の養女である彼女と結ばれ、彼もまた竜ヶ崎の一員となることだった。


「俺達は、形だけの夫婦になった。そう。形だけのフリをし、奴らを欺(あざむ)くことにしたんだ」


 本当は、互いに惹かれ合っていた。形だけではなく、本当に結ばれたならどれ程幸せか。だが。その気持ちを表に出せば、また竜ヶ崎に利用されてしまうことだろう。

 だから彼は提案した。普段はできるだけ仲が良くないように振舞おう、と。強制され、仕方なく夫婦のフリをしているように思わせよう、と。

 彼女は不思議そうな顔をしたが、結局は了承した。条件を一つだけ付けて。


「二人きりの時は、将棋を思う存分楽しませて。桂花のささやかな願いを、俺はもちろん快諾したよ」

「そんなの条件にもならない。当たり前のことじゃないですか、それは」

「そう。当たり前のことが、ここでは異端だったんだ」


 懐かしそうに、彼は本殿内を眺める。

 彼らが青春時代を過ごした場所。檻の中を。


 ごっこ遊びの延長のような夫婦生活は、周囲の大人達にとっては大きな意味を持っていた。

 ──竜ヶ崎が、伏竜稲荷神社の跡取り息子を手中に収めた。

 噂はあっという間に近隣中に広がり、竜ヶ崎家はますます強い影響力を持つようになった。信仰の拠り所は伏竜から睡狐へと変わり。逆らう者には容赦なく神罰が下ると、皆が畏れ敬った。


「誰も睡狐の声を聞かず、竜ヶ崎の告げた嘘を信じた。しまいには、当主は現人神と奉られるようになる始末。あまりの馬鹿馬鹿しさに、俺達は呆れ果てたよ」


 やがて思春期を迎えた頃には、彼はここから出て行くことを考えるようになった。

 決め手となったのは、中学の時。担任から伝えられたある一言だった。


「殻を破ってみないか? 君の羽ばたく姿が見たい、って熱心に説得されてさ。今思えば、当時流行っていた熱血学園ドラマの受け売りだったのだろうが。不覚にも、心が揺れ動いたんだ」

「それって」


 彼が、りんに伝えた言葉と同じだ。驚く俺に、彼は笑って答える。


「ああ。俺も、その人の受け売りだった」


 所詮凡人に、他人の心を動かせる言葉は思いつかなかったよ。彼は自嘲気味にそう続けた。


「でも、貴方が居たから、貴方の言葉だから、りんは将棋を始めることができた。俺はそう思います」

「……そうだと嬉しいね」


 大切なのは言葉じゃない、心だと思う。

 彼は心からりんを救いたいと思ったはずだ。闇の底から。

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