(18)閃光の彼方へ

「──抜き身の真剣の如き鋭さ。よくぞここまで、磨きをかけられたものだ」


 落ち着いた口調で、対局者は俺の指し手を評価して来る。詰む寸前だというのに、負の感情を一切感じない。何という潔さ。諦観? いや違う。この男は、勝負を諦めた訳じゃない。

 自身が犯した過ちを、敗北をもって清算しようとしているのだ。


 今となっては、俺とのこの一局が彼の全てだ。勝てば桂花の夢を、負ければりんの夢を叶えるのだとしても。そこに、彼自身の夢は無い。いずれにしても、彼はここで終わるのだ、と理解した。棋士が生きた証、棋譜を遺して。

 早く楽にしてやりたい気持ちと、もっと長く対話を続けたい気持ちがせめぎ合う。

 なんてことだ。彼を理解するにつれ、心に迷いが生じるとは。こんなことでは、とても『霹靂』には成れない。指先の痺れが取れていく。雷が、消える──。


「迷うな、修司」


 その時、声が聞こえた。目の前に居る男の口を借りて、誰かが俺を叱咤する。

 そうだ。感情の揺らぎなど、将棋には必要無い。迷いを捨てろ。


 ぱちん。最後まで諦めない、鋼鉄の意思が指し手に現れる。俺の攻めを真正面から受け止めるだけでなく、弾き返そうとして来る。強い。せいぜい2級程度と侮っていた自分を恥じる。相手は人生の全てを懸けているのだ。弱いはずが無い。

 殺意の純度を上げろ。心まで雷に。荷電粒子よ、今こそ閃光と成れ。

 思い浮かべるのは、俺の身体を構成する素粒子全てが帯電するイメージ。互いに反発し、加速し、やがては光の領域にまで到達する。

 イメージは脳から腕を伝い、指先を通じて駒へと繋がる。迷いを光の彼方へと置き去りにして、想いのままに一手を打ち込む。

 ぱち──ぃぃいん。駒音は、指した後で遅れて聴こえて来た。


 小気味の良い、澄んだ音が室内に響く。それで我に返った。素粒子にまで分解されたのは錯覚だった。が、貴重な経験だった。俺の全てを、指し手に込めることができたのだから。


 彼は無言で、盤面を見つめている。手の意味を咀嚼し、理解し、次に何を為すべきか考えている。

 やがて彼は、深い息を吐いた。


「負けました」


 短くそう呟いた声は、俺にというより、彼自身に向けたもののようで。人生最後の対局を締め括るものとしては、あまりに簡素で無味な一言だった。


「ありがとうございました」


 頭を下げる。実感が無いのは、俺も同じだ。勝利の喜びよりも、対局が終わった寂しさの方が勝るとは。

 ああ、終わってしまった。彼とは、もう二度と指せない。もうじき、居なくなってしまうのだから。

 そう。敗者は跡を濁さず、ただ立ち去るのみ。


「感想戦をしませんか?」


 そうわかっていても、提案せずには居られなかった。すまない、りん。わがままを言う。しばしの時間を、俺達にくれ。

 彼は少し考えた後で、黙って頷いてくれた。駒を元の位置へと戻していく。彼がりんの中に現れた局面へと。正確には、その時彼は桂花だったが。


「あの時、貴方は俺に言った。自分に興味を持ってくれと。あれは、桂花のことを記憶に残しておいて欲しかったから、ではありませんか?」

「……わからない」


 俺の質問に、彼はぼんやりとした目で答える。思考を『桂花』に明け渡していたから、何も覚えてないのだという。

 だが俺は信じたい。この人は、他人のために自分を犠牲にできる人なのだと。


 ぱちんと、駒を打つ。


「聞かせて下さい。貴方にとって、桂花とはどんな存在なのですか?」

「俺の、全てだ」


 今度は即答だった。ぱちんと打ち返される。なるほど、この変化は有力かもしれない。読めていなかった。


 彼は、伏竜稲荷神社の宮司の息子として生まれ育った。幼い頃から神主となる教育を施され、資本家の竜ヶ崎と、睡狐に忠誠を誓わされて来た。

 ──りんが、姉の所有物として生きる道を強いられたように。


 とりわけ竜ヶ崎のお嬢様からの仕打ちは苛烈だったと、隣を眺めながら彼は語る。当然のように絶対服従を強要され。命令に従わなければ罵倒され、頬を叩かれた。

 父親に相談すると、全てお前が悪いと叱られた。竜ヶ崎には逆らうなと。


 あのお淑やかな雫さんがそんなことを? にわかには信じ難いが。


「当時は訳がわからなかったが、今なら少しわかる。竜ヶ崎雫もまた、睡狐の巫女として束縛された人生を送って来た。俺は彼女の、ストレスのはけ口にされていたんだよ」


 彼はそう付け加えて、薄く笑った。

 弱者が、より弱い立場の者を虐げる。よくある構図ではあるが、虚しさを感じずには居られない。


「雫を恨んではいない。だって、そのおかげで彼女と──桂花と、巡り合うことができたのだから」


 伏竜稲荷神社には本殿の更に奥に、開かずの間が在った。

 雫さんに執拗に追い回されている内、彼はとっさにそこに逃げ込んだのだという。

 薄暗い室内には、少女が一人、静かに正座していた。深緑の瞳が、彼をじっと見上げて来る。

 この世のものではない、不思議な雰囲気をまとった少女だった。

 彼は慌てて、視線をそらした。ちっぽけな自分の存在など、丸ごと見透かされてしまう気がして。

 そんな彼に構うこと無く、彼女は視線を落とす。その瞳に映っているのは、古ぼけた将棋盤だった。

 白魚のような繊細な指先が、駒を摘み上げる。

 追われているのも忘れ、少年は見入っていた。そっと、音を立てずに駒が置かれる。丁寧な、まるで壊れ物を扱うように慎重な仕草だった。

 彼女は続けて、相手陣の駒を拾い上げ、別の場所に置き直す。彼女は、たった一人で対局していた。見えない相手と──恐らくは、自分自身と。淡々と、無表情で。

 こんな将棋があるのか。彼は驚きと共に、その様子を眺めていた。一手指す度に、徐々に少女は追い詰められていく。終局に向かって、自分自身の首を絞めていく。表情一つ変えること無く、ただ機械的に指し続ける。

 楽しいのだろうか? 疑問を感じた時には、彼は既に動いていた。

 彼女の向かいの席に、正座する。


「僕も混ぜてもらって良い?」


 少年が尋ねると、深緑の瞳がまた見つめて来た。その瞳の奥には、どこまでも続く森が広がっていた。森の中へと吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚え、少年は身震いする。

 それでも何とか勇気を振り絞り、彼は彼女を見つめ返した。

 対局中の第三者の介入は本来ご法度。断られる可能性は十分あった。


 しばしの沈黙の後、少女は口を開く。表情一つ変えることなく、唇を上下に動かした。

 何を言っているのか、声が小さ過ぎて聞き取れなかったが。嫌な印象は受けなかった。

 彼は駒を手に取る。抗議の声は上がらなかった。直感で、これと思う手を指す。

 ぱちん。すると、駒音が響いた。少女が、応じた。

 無言のまま、交互に駒を打っていく。小気味の良い駒音が、リズムを奏でる。その時になって彼は気づいた。あれ程静かに指していた少女が、今や彼に負けないくらいに強く駒音を響かせていることに。

 駒を気遣って音を立てないようにしていたのではなく。誰かに聞かれたくなかったからだと、ようやく察した。


 誰か。恐らくは竜ヶ崎家の誰か、あるいは関係者全員。彼女がこんな奥まった場所に独りで居ることと関係があるに違いないと、少年は考えた。

 ぱちん。理由はわからない。彼女の事情も知らない。それでも、彼女の力になりたいと思った。将棋なんて、まともに勉強したことも無かったけれど。彼女のためなら。

 ぱちん。最初は様子見する手を指していた少女も、積極的に攻め込む手を指し始めていた。そうなると、少年の陣地は駒がバラバラで。あっという間に飛車先を突破されてしまった。

 ぱちん。必死で受ける。だが受けきれない。徐々に玉が追い込まれていく。丁寧に、守備駒一枚一枚が剥がされて。後には、裸玉だけが残る。


「どっちが勝ったと思う?」


 そこまで語り終えた所で。彼はふと、そんなことを尋ねてきた。

 普通に考えたら、少女側の圧勝だが……まさか。


「貴方が、勝ったんですか?」

「──ああ。後一手で詰む所まで追い詰められてな」


 頭金の代わりに彼女は、自玉を彼の飛車の前に差し出したのだという。いわゆる自殺手という奴だ。


「反則じゃないですか、それ……! 彼女は何のためにそんなことを?」

「簡単な話だ。それが彼女の知る『将棋』だったのさ」


 思わず声を荒げる俺に、彼は寂しげな笑みを浮かべて答える。

 今の君の反応は、あの時の俺にそっくりだという言葉を添えて。


「竜ヶ崎は彼女に嘘を教えた。最後には自ら死を選べ、と」

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