(14)断ち切れた糸
これが根源? なんておぞましいんだ。私が人間のままで居たなら、発狂したかもしれない。
だけど今の私は。ソレを見ても、動揺一つすること無く。手を伸ばしていた。ただ一途に求めていた。修司さんを倒すための、力を。
──駄目!
その時、声が聞こえた。強い制止の叫びに、思わず手が止まる。
何故、誰が止める? ここには私の他に誰も居ないはずなのに。今さら誰が、私の身を案じてくれるというのだろう? すでに私は、ヒトではなくなっているというのに。
聞こえたのは女の声だった。聞き覚えはあるけど、思い出せない。
気を取り直し、再び伸ばしかけた手をつかまれる。闇の中に、白い手が生えていた。
触れた部分が焼けるように熱い。とっさに振りほどこうとするも、万力のような力で握り締められ、びくとも動かない。何なんだ、これ? どうして邪魔をする?
『鬼め。根源への到達を阻むか』
ヨガッピがうなる。鬼? 鬼だって? おとぎ話じゃあるまいし、そんなモノが現実に居る訳がない。まやかしだ。妄想の産物に過ぎない。
だけど、それじゃあ。今私の腕をつかんで離さないのは、一体誰の手だと言うんだ?
──思い出したのは、紅蓮に燃え盛る炎。猛り狂い、全てを焼き尽くす紅炎の中で、その少女は不敵に笑っていた。
何者も、彼女を侵すことはできない。唯一無二の孤高の存在。あれが鬼だというなら、なんて気高く美しいのだろう。
かつて私は、あの人に憧れた。彼女のようになりたいと、心から願った。棋力だけではない。彼女の生き様そのものに、強く惹かれたのだ。
ところが、現在の私はどうだ? 求める棋力は、手を伸ばせば届く所に在る。けれども、今の姿は……美しさからかけ離れた、おぞましい、醜悪な化け物じゃないか。
私をつかんで離さないこの手は、きっとあの人のものだ。四十禍津日のただ中であってさえ、何の影響も受けずに居られるなんて。本当に、すごい人だ。
私を止めるために。こんな姿に成り果てた私を、助けるために。彼女は、来てくれたんだ。
『どうする? 貴様が望むなら、その腕を引き千切ってやるが?』
ヨガッピの物騒な提案に、かぶりを振って応える。どうするもこうするも無い。彼女の嫌がることはしたくない。たとえそれで対局に敗れても仕方ない。潔く受け入れる。だって私は、あの人のことを、一番──。
ざくり。
そこまで考えた所で、ふっと私の腕をつかむ手の力が抜けた。ぽとりと、彼女の手首が落ちる。
あっと、声を上げそうになった。無くしたはずの感情が、あふれ出そうになる。
彼女の手が、何かで切断された。一瞬の早業で、見えなかったけど。
落ちた手首が、炎に包まれて消えていく。その様を、私は呆然と見つめていた。
「惜しかったネ」
くすりと、闇の中で誰かが笑う。私の背後に、誰か居る。
あの人の手を切り飛ばしたのはこいつか? でも誰だ? 特徴的なイントネーションの女性の声。確かに聞き覚えはあるのに、思い出せない。
ただ明確に理解できたことが一つだけある。私の後ろに居る誰かは、私達の敵だ。
「ご苦労さン。キミの役目は、もう終わりダ。安心して寝てて良いヨ? 永久に、ネ」
「──っ──!」
振り向きざまに、視界一杯に爆炎を放つ。ここは私の心の世界だ。想いはチカラになる。私にできないことは無いし、殺せないモノも無い。死ねと思った瞬間に終わり、のはずだった。
「……本当は、ここまでやるつもりは無かったんだけド」
炎の中を、ゆらゆらと歩いて来る人影が在った。
「本当なラ。キミは”根源”に触れて発狂し、自我を失うはずだったのニ。余計な邪魔が入ったせいで、殺さなくちゃならなくなっタ」
声の主は、予想通り若い女性だった。私と同じ学校の制服を着た少女は、血のように赤い瞳をぎらりと輝かせる。その手には、身の丈程もある巨大な一振りの”鎌”が握られていた。
まるで死神の持つ鎌のよう。凶悪なフォルムは、犠牲者の命を刈り取るのに適していた。刃が煌めき、私の姿を鮮明に映し出す。
──殺される、と直感する。
そんなの、おかしい。現実世界ならともかく、ここでは私は無敵のはずだ。それなのに殺せず、殺されるだなんて。
「まァ、結果は同じだけどネェ」
鎌をぶんぶん振り回しながら、彼女はゆったりとした足取りで近づいて来る。その気になれば、一瞬で距離を詰められるだろうに。愉(たの)しんでいる。完全に油断している──その油断、後悔させてやる。
頭上に無数の”針”を打ち出し、少女目掛けて降下させる。今度こそ逃げられない。終わりだ、串刺しになれ。
「何をしようと無駄なコトだヨ。だって」
「なっ……!?」
当たらない。かすりすらしない。涼しい顔で、彼女は針の雨を抜けて来た。私に向かって、死神の鎌が振り上げられる。
「キミはもう、あたしのモノなんだかラ」
零距離。今ならかわせまい。私の身体を貫通させ、数多の針を彼女目掛けて射出する──。
ごとりと、首が落ちた。
呆然と見上げると、傷一つ無い少女と目が合った。私から生えた針は、彼女を刺し貫く寸前で止まっていた。
「だから、ネ? 大人しく死んでてヨ。キミの体は、あたしが大切に使ってあげるからサ」
口角を吊り上げ、彼女は諭すように言って来る。双眸に冷たい輝きを湛(たた)えて。
ああ、これで本当に終わりだ。体と首が分離して、生きていられる人間は居ない。たとえ肉体が無事でも、精神が殺されてしまった。
「オヤスミ。良い夢ヲ」
それだけを告げて、彼女は視線を“根源”の方へと向ける。
『ぬう。これは一体どういう了見だ? 貴様は所有者ではないな? 何故ここに居る?』
「お前が知る必要は無イ」
困惑するヨガッピにも構わず、少女は鎌を無造作に一振りした。
根源の渦が、真っ二つに斬り裂かれる。あっという間の出来事だった。回転を止められた渦は音も無く消え去り、後には塵一つ残らない。
これで良いと、彼女は笑う。
『貴様! 何てことを!』
「棋の真理など、無用の長物だヨ」
悲鳴に近い声を上げるヨガッピを冷たく突き放し。彼女は、次のように続けた。
「我は外道に堕ち、邪道をもって覇道を成す者。我が前に全ての正道、王道はただ平伏すのみ」
『何だと……? それでは、貴様は』
「四十禍津日よ。かつてお前が願い、叶わなかった夢を実現させてやろウ。我が軍門に下るが良イ」
有無を言わさぬ口調で、少女は宣言する。邪道による覇道? ヨガッピの夢? 何を言い出すんだ、この娘は?
私の預かり知らぬ水面下で、得体の知れない何かが動き出そうとしているのか。その何かに散々利用され、挙げ句の果てに棄てられたのが今の私、ということか……。
意識が薄れ始める。ああ、無念だ。
『貴様のモノになれと言うのか? だが儂は、竜ヶ崎の所有物だ』
「下らなイ。所詮奴らは井の中の蛙。己の力量も解らず、格下相手に驕(おご)り高ぶる屑共ダ。宝の持ち腐れとはまさにこのコト。でもあたしなら、キミを最大限に活かせられるヨ?」
『ぬう。しかし──』
なおも言い争う二人の声が、徐々に小さくなっていく。
私はもうじき消える。鬼籠野あゆむの肉体は、あの女のものになる。その後のことはわからない。ただ、私は信じている。
きっと。ううん、絶対に。修司さん達が、止めてくれると。
ごめんなさい、対局を途中で放り出してしまって。
後は、頼みます。
さようなら、修司さん。香織さん……姉さん。
──え? 私と将棋指したいって? 別にいいけど。私は強いよ? ボコボコにされて泣いても知らないんだから!
──へぇ、あんた思ってたよりやるじゃん。気が向いたらまた指したげる。それまでに少しは、腕を上げておいてよね?
どうして、今頃になって思い出すんだろう。
私の、将棋の原点は、姉さんだった。
ごめんね?
姉さんは、私と指したかったんだね。
姉さんに成りすました『りん』とじゃなくて、弟の『あゆむ』と。
まとわり付かれるのがわずらわしいからと、今までまともに相手もしなくて。本当に、ごめんなさい。
もしも、生まれ変わることができたなら。今度こそ、あなたと──。
……ぷつんと。糸が切れた音がした。
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