(13)落ちて来るソラ
「おお、さすがだな。今のを咎(とが)められるとは」
涼しい顔で、修司さんは感心したようにそう言って来る。
この人、ただ棋力を上げただけじゃない。独自の戦法を確立させている。今の一手は、恐ろしい切れ味だった。背中を冷たい汗が流れる。
定跡は、最善手の積み重ねだ。形勢はほぼ互角のまま進行する。
だから定跡に沿った手を指し続ける限りは、級位者でも高段者と対等に戦うことができる。
でもそれは、いつまで経っても差が付かない、ということでもある。互角の形勢のまま終盤までもつれ込めば、結局は棋力の差で決着がついてしまう。
対して我流の戦法は、開発者が序中盤から優勢を築き易い。
姉さんのように、定跡を知らない人が適当に指すのはさほど怖くないが。定跡を知った上で、さらなる派生形を生み出されるのが厄介なのだ。
この勝負。数字に表れない所で、既に大差を付けられているとみて良い。
「名付けて園瀬流・弐式。お気に召してもらえたかい?」
「はい。正直、何を指すべきか悩みます」
修司さんは、中盤で大きく形勢差を広げておいて、終盤での逆転の余地を無くしてしまうつもりだ。終盤力の不足を、研究で補っている。
こういう人と指すのは、本当に苦手だ。何を指しても知識量の差で、的確に咎められてしまう。これならまだ、姉さんのような終盤特化型の方が相手し易いかもしれない。終盤で大優勢の局面から逆転されるリスクはあるけど、少なくとも勝負にはなる。でも修司さんは、それすらさせてくれそうにない。このままじゃ、完封される。
どうすれば良い? どうすれば。
『お困りのようだな』
その時。頭の奥に、声が響いた。地の底から伝わって来たような、低い男性の声が。聞き覚えは無い。
『貴様は儂(わし)を知っている。全身に描かれた紋様を見よ。その一つ一つ、全てが儂を成すものだ』
まさか──四十禍津日、なのか?
そんな。棋書が意思を持つだなんて、ありえない。非科学的だ。
『信じられないのなら、このまま敗北を受け入れるしかないが。どうだ? 儂の力を使ってみないか?』
男の声は耳からではなく、直接脳を揺さぶって響く。にわかには信じられないけど、本当に四十禍津日なのか。
墨入れの儀を経て、私達は一体化したのだと彼は告げて来る。
「……勝てるの?」
『無論だ。儂は森羅万象に精通している。あの男、園瀬修司が何を指そうが無駄なこと。必ずや貴様を勝利へと導いてやろう』
体が熱い。ゾクゾクする。四十禍津日が疼(うず)いている。早く棋力を開放しろ、と。
とてつもないことが起こると直感する。取り返しのつかないことが。
「わかった。でも少しだけ待って欲しい」
断りを入れて、私は顔を上げた。修司さんと目が合う。異変を感じ取ったのか、彼は不思議そうな顔をしている。
「修司さん。私は貴方のことが好きです。貴方だけじゃない、香織さんのことも──それから、多分、姉さんのことも」
「りん、お前」
「でも、私は貴方達を裏切りました。竜ヶ崎の手先として、今ここに居ます。そのことを、まず謝ります」
ごめんなさい。頭を下げる。
それで、覚悟が決まった。
「今から私は、さらに貴方を裏切る行為をします。軽蔑されても仕方が無い、将棋指しとして最低の行為を。ごめんなさい。それでも、どうしても勝ちたいんです」
「……そうか」
私の言葉に、修司さんは何かを察したようだった。うなずきを返して来る。
「遠慮は無用だ。やれよ。俺が全部、受け止めてやる」
そう答えて、彼はふっと笑う。そこへ先生の笑顔が重なった。
ああ、この人も同じなんだ。私のやろうとすることを決して否定せず、束縛せず。ただ、全てを受け入れてくれる。
私も、彼らみたいな大人になりたいな。
「ありがとう、ございます」
涙を堪(こら)えて、私はやっとそれだけを口に出した。
『もういいか?』
「……うん」
頭の中に響く声に、うなずきをもって答える。もういい。もう十分だ。
四十禍津日の力を、開放する。
『くく。腕が鳴るぜ。だが全力はお前さんの身がもたねぇな。少しは加減しねぇと──』
「ううん。全開で、お願い」
声をさえぎり、私は告げる。中途半端じゃ勝てない。
私の全部を受け止めると、修司さんは言ってくれた。その気持ちに応えたい。たとえこの身がどうなろうと構わない。最高の棋譜を、彼と一緒に創造するんだ。
一瞬、息を呑む音が聞こえた気がした。でもそれは、すぐに喚声(かんせい)へと変わる。
『面白ぇ! ならばお望み通り、最大出力をお見舞いしてやろう!』
「ありがとう。ええと……四十禍津日?」
『言いにくそうだな。儂のことは、ヨガッピとでも呼んでくれぃ』
ヨガッピとはまた、ずいぶんとフランクなあだ名だ。でも言い易いから良いか。
ヨガッピ。宜しくお願いします。
『心得た! ではいくぞ! 今こそ御身に、儂を降ろす!』
どくん。心臓が跳ねる。
「あ──!」
頭の中に、まるで洪水のような濁流が流れ込んで来た。真っ黒に渦巻くそれは、もちろん水などではない。溺れることが無い代わりに、脳内が侵されていく。瞬く間に、抗う間も無く。
膨大な量の情報が、私のナカに詰め込まれていく。風船みたいに膨れ上がった私が、破裂しそうになる。耐えきれない。
例えるなら、スーパーの詰め放題だ。容赦無く、無尽蔵に、ビニール袋が引き裂けるまでぎゅうぎゅう詰めにされる。あれを人体がやられたらどうなるかは、想像に難くないだろう。
袋と違って、人間の中身は空じゃない。骨は砕け、臓器は潰れ、筋肉は挽肉になる。最後には膨張で表皮が裂け、木っ端微塵だ。
「ぐっ……あっ……!」
何てことだ。ヨガッピが有する情報量は、私の想像をはるかに超えていた。鬼籠野あゆむというちっぽけな器には、到底収まり切らない。情報に、殺される。
『どうした、もう限界か? まだほんの”先っちょ”しか入っておらんというのに』
失望混じりの声にも、反論する余裕は無かった。
脳がスイカみたいにバックリと割れる。激痛が血飛沫のように噴き出し、全身へと伝播していく。死ぬ。私という存在が、死ぬ。思考がミキサーに掛けられ、乱暴にシェイクされる。ああ。私が私でなくなっていく。
先に謝っておいて良かった。伝えられて良かった。こうなる前に。手遅れになる前に。
ドロドロのグシャグシャ。もはや原形を留めない、かつて鬼籠野あゆむだったモノ。姉に憧れ、外道に堕ちた、哀れな少年の末路だ。
──そんな終わり方でも。あのまま変わらないよりは、幾分かマシだったのかもしれない。
『すまんな。もう、儂にも止められん。じきに”根源”へと到達する。その様子では、小僧。貴様は死ぬだろうな』
根源て何? やっぱり死ぬのか。私が死んだら、どうなるのかな? 誰か一人でも、悲しんでくれる人が居るのかな? それとも、何事も無かったように日常が進んで行くのかな、私抜きで。
視界は真っ暗。虚無ではない、濃密な瘴気に包まれている。さっき私のナカに流れ込んで来たモノが、今は私を満たしている。
失った分、補充されている。だけどそれは、私がこの先生きていくためじゃない。修司さんとの一局に打ち勝つためのチカラだ。取り返しは、もうつかない。
『どうやら、苦痛すら感じなくなったようだな。それで良い。将棋を指すのに必要な最低限の感覚以外は捨てろ。捨てることで、新たな情報を埋める”窪(くぼ)み”が生じる』
意識がぼんやりとして来る。何も考えられない。これが、捨てるということなのか。
──思い出した。赤眼の鬼の正体は、姉さんではなく私だ。あれは鏡に映った私自身。忘れていた。怖くて、気が狂ってしまいそうだったから。記憶の片隅へと追いやり、厳重に施錠したんだ。
恐怖という感情を捨てた、今は怖くない。だから思い出せた。
血溜まりの中、二人がこちらを見上げている。生気の無い、虚ろな灰色の瞳で。口を三日月の形に歪めて。
最後の最後で、こんなものを見せられるとは。私の人生って、何だったんだろう。
もう、何の感情も湧かない。
『時間が無い。一気に押し入るぞ』
メリメリと、何かが裂ける音がした。私が裂ける。
──ご苦労さン。
誰かのささやきが聞こえた気がした。
──許さない。
何度も聞いたその言葉は、果たして誰に向けられたものだったのか。
──君が羽ばたく姿を見たい。
こんな姿で良ければ、どうぞ。
『おお……! ついに“棋の根源”へと至れり!』
瘴気に満ちた、渦巻く漆黒の闇。
そこには、広大な宇宙が在った。
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