(12)進化する矢倉

「先生は、転勤しました。桂花さんがどうしているかは知りません」


 とっさに嘘をついた、訳じゃない。

 だって、現在の担任の先生は『彼』じゃないから。抜け落ちた記憶の中で、転勤したのだろうと推測する。

 一方、桂花さんのことは本当に知らない。また、興味も無かった。恩人だけど、苦手なタイプだったから。

 そう、だから。嘘をついてはいない。きっと、多分。


「そうか」


 納得している風ではなかったけど、修司さんはそれ以上訊いては来なかった。


「それでは次の質問だ。……あ、指してもらって構わないぞ? 大丈夫か? 顔色が優れないようだが」


 言われて、着手しかけでそのままだったことを思い出した。慌てて指そうとするも、駒を持つ手が細かく震えて、上手く指せない。

 しっかりしろ、私。何を焦っているんだ。定跡外の局面に誘導して、少しでも勝率を上げるんじゃなかったのか。

 先生と桂花さんの行方なんて、勝負には関係無い。今は対局に集中し──。


 その時。頭に浮かんだのは、一面赤い光景だった。

 血の海に倒れた男女。

 彼らを見下し、赤眼の鬼は独り哄笑していた。


「ああっ……そんな……!?」


 悲鳴に近い叫びを上げる。

 何だ今のは? 私は一体、何を見た?

 私は、何を忘れていル?


 頭の中が真っ白になる。何も考えられない。そんな、今は対局中なのに。


「どうした?」


 けげんそうに訊いて来る修司さんに、かぶりを振って答える。言葉が出ない。吐き気がする。

 ああ……そうだ。次の一手を、指さなければ。負けたくないのなら、勝ちたいのなら。どんな状況下でも、指さなきゃならない。将棋に『パス』は無いのだから。思考が停止状態だろうと、最悪の精神状態だろうと。とにかく、指せ──。

 ぱちん。震える手で、駒音を奏でる。良かった、何とか繋がった。


「そろそろ定跡を外して来る頃合いと思ったが。その意気や善し」

「……あ」


 修司さんの言葉に、ハッとして盤上へと目をやる。自分が今、何を指したのか。今頃気づき、胸中で嘆息する。

 そりゃそうか。何も考えずに指したのだから、奇抜な手であるはずがない。なじみのある局面が、そこには広がっていた。


 相矢倉。純文学と形容されるに相応しい、美しく、煌めきを放つ戦型。定跡さえ知っていれば、誰でも形にはできる。

 だけど。修司さんのそれは美しいだけじゃない。ビリビリと重圧を感じ、押し潰されそうになる。

 以前指した時とは、まるで違う。この人、矢倉を使いこなしている。

 嫌な予感が的中した。

 対する私の矢倉は、ただ彼に合わせて形にしただけ。初めて駒を並べた時と同じ、何ら変わらない。中身の無いハリボテだ。虚構の楼閣だ。

 形勢判断では互角でも。私と彼とでは、天と地程の開きがある。

 だから、こうなるのを避けたかったのに。思考がグチャグチャでまとまらない。


「それでは改めて、次の質問だ」


 ぱちん。指しながら修司さんは口を開く。指し手と同じく、よどみのない口調で尋ねて来る。


「お前の話に出てきた『姉さん』は、本当に鬼籠野燐なのか?」


 ──核心部へと、最短手数で切り込まれた気がした。


「は?」


 思わず声が出ていた。何を言ってるんだ、この人? 姉さんは姉さんだ。他には居ない。


「俺はお前の姉さんと今日初めて会った。素性も知らないし、指し合った訳でもない」


 だが、と修司さんは続ける。黒真珠の瞳がきらりと光る。


「背中を預けて、共に戦い、ここまで勝ち上がってきた。だからわかる。

 燐は、お前が思っているような奴じゃない」


 きっぱりと、彼はそう言い切ってみせた。

 その自信が一体どこから来るのか、私にはわからない。ただ、羨ましいと思った。


「……何なんですか、それ。質問になってないじゃないですか」


 苦笑混じりに答えると、修司さんは「む。すまん」と返して来た。


「だが、燐は弱者をいたぶったり、束縛するような奴じゃないぞ。馬鹿だし、自分勝手だけどな」


 そうだ、どうしようもない馬鹿だ。思い出すのは二回戦の水無月彩椰戦。私の気を引くためだけに、姉は自ら無様な醜態を演じてみせた。

 自分勝手なのは全面的に同意する。今まで散々ワガママに付き合わされて来た。

 それでも、私の持つ姉のイメージと実際の彼女は違うと、修司さんは告げた。悪い奴ではない、と。

 私の知らない姉の姿を、彼は知っているというのか。出会ってまだ、数時間しか経っていないのに。

 私は。何年も一緒に居るのに、未だに姉の気持ちがわからない。


『許さない』


 頭に響く、怨嗟(えんさ)の呟き。変わろうとする度に引き止められる内に、次第にうとましく感じるようになっていた。

 でも本当は、違うのか?


 ぱちん。考えてもわからないなら、考えるだけ無駄だ。だから今は将棋に集中する。とにかく指し続ける。相矢倉の定跡形に乗ってしまった以上、もう後戻りはできない。相手は矢倉の専門家だ。知識、経験、練度全てにおいて、はるかに私を上回っている。このままじゃ、確実に負ける。

 だけど、吐き気は収まった。頭痛も、少しだけ和らいだ。

 だったら、やれる。私にできる最善を尽くす。勝ちたいし、負けたくないから。修司さんにも──姉さんにも。

 ぱちん。駒音の間隔が、少しずつ長くなっていく。互いに読みを入れ始める。相手の腹の内を探り合う。

 ぱちん。この一局を通して、修司さんから多くを学び。

 ぱちん。もっともっと、強くなってやる。


 先生と桂花さんが今どこに居るのか? 赤眼の鬼(姉さん?)に■サレタのか?

 私の記憶の中で登場する鬼籠野燐は、本当に姉さんなのか?

 思考を乱すそれら全ての疑問を、ひとまずは噛み砕き、腹の底に飲み込んでおく。

 ぱちん。対局に必要な情報以外は、何も要らない。何を為すべきかだけを、考えろ。

 私の心情を察したのか、修司さんはそれ以上何も訊いて来なかった。冷静に盤を見つめ、最善に近い手を放って来る。やっぱりこの人、強くなってる。香澄翔やミスター穴熊との死闘を経て、有段者に匹敵する棋力を得たんだ。

 心臓の鼓動が速い。胸を押さえる。落ち着け、私。道場で指した時を思い出せ。


 あの時だって、序盤から中盤にかけては修司さんのペースだったじゃないか。そこから逆転できたのは、培(つちか)ってきた終盤力の賜物だ。

 確かに彼は強くなっている。でも、それは私だって同じだ。睡狐様の巫女となり、全身に四十禍津日の秘術を施され。加えて、今日この瞬間に至るまで、一日も欠かさず鍛錬を続けて来た。

 雫さん、それにレン君。二人から受けた指導対局は、竜ヶ崎流に基づくものだったけど。きっと相矢倉にだって応用できる。いや、してみせる。

 ぱちん! 前のめりに打ち付けた一手に、修司さんはのけぞった。効いている……!


「良い目つきになった。指し手にも迫力がある。どうやら、迷いを振り切ったようだな」


 ぱりっ。

 一瞬、盤上に稲妻が走った、気がした。静電気? 木製の盤駒なのに?


「だが、悪いな。ここからは、俺の矢倉だ」


 ぱちん。そう言って、彼が何気なく駒を置いた瞬間。


「な──!?」


 ばぢばぢっ! 白い電撃が、私の玉に向かって走って来た。ジグザグに、守備駒をかいくぐって。まずい、直撃する……!


「くっ……そ……!」


 ぱちん! とっさに駒を打つ。寸前で彼の進撃を止めた、けど。

 何なんだ、この局面は? 盤を見つめて愕然とする。知らない、こんなの。今彼が指した一手は、数ある定跡のどれにも該当していない。そして私が慌てて放った応手もまた。

 まずい、これはまずい。彼の矢倉に、取り込まれた。

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