(11)涙の理由

「……鬼に、なったのか?」


 訊かれて我に返る。盤を挟んだ向こう側から、修司さんがこちらをじっと見つめていた。

 そんな。夢中で話し続けて、対局することを忘れていただなんて。

 将棋盤の上には駒達が乱れなく、整然と並んでいる。


「わかりません。幻覚だったのかも」


 かぶりを振ってそう答える。

 鬼なる存在については、準決勝を観て初めて知った。

 姉さんと、あのショウという男性──覚えていないが、私は幼い頃に彼と一緒に遊んだことがあるらしい──は、盤上で死闘を繰り広げた。鬼殺しの魔剣を装備した姉さんは、まさしく鬼神と呼ぶにふさわしい強さで。それを真っ向から受けるショウさんもまた、化け物だった。

 あんなモノに、私がなれたとは思えない。強くなったと言っても、所詮は初段に毛が生えた程度の棋力だ。

 そう思って首を振ったのだが、修司さんは何か考え込む素振りを見せた後、「ふむ」と声をもらした。


「お前の話には、いくつか不可解な部分がある。質問させてもらっても良いか? 鬼籠野あゆむ……いや、りん」


 わあ。今、言い直してくれた。私のこと、りんって認めてくれたんだ。嬉しい。

 内心の喜びを隠し、私は努めて冷静に「構いませんよ」と答える。


「指しながらで良いですか?」

「ああ、そうだな。指そう。振り駒を頼む」


 鷹のように鋭く、だけど優しい視線を向けられてドキッとする。頼まれちゃった。

 道場で認定された棋力は、一応私の方が上だけど。年上なんだし、そんなに気をつかわなくても良いのに。

 そう思いながらも、表の私は「わかりました」と沈着冷静、うなずいて駒を振る。でも緊張からか、手が少し震えていた。

 ぱらっ。五枚の歩が、盤上で躍った。


「大会の勝敗もこの一局で決するが。俺にとっては、雪辱戦でもある」


 振り駒の結果を見て、ぽつりと修司さんはつぶやきをもらす。

 覚えているか? 彼は問いかけて来る。


「あの時も、先手番は俺だった」


 あの時。そう言われてハッとする。前に修司さんと指した時のことを思い出す。

 香織さんと、初めて出会った日のことを。


「先手だったのに、後一歩で届かなかった。くやしかったなあ」


 妻の目の前で、と彼は続ける。黒真珠の瞳に、輝きが宿る。


「今度は、俺が勝つ」


 ……そう、なんだ。修司さん、そこまで私に負けたことがくやしかったんだ。それなのに私は、睡狐様の巫女になって、道場から離れて、彼から雪辱の機会を奪ってしまった。

 それでも彼は来てくれた。私と、再戦するために。


「貴方は」


 もう一つ。思い出したことがあった。あの時の、対局前の彼の表情だ。


「どうしてあんなに、思いつめた顔をしていたんですか? 試合でも何でもない、ただの練習対局だったのに」


 対局を申し込まれた時、彼は眉間にしわを寄せ、口元をキッと引き締め、背筋を伸ばし、深々と頭を下げてきた。

 何かを決意したような、何かに追い詰められたような、複雑な表情だった。あの時は結局、修司さんの真意はわからずじまいだったけど。今なら答えてくれるんじゃないか、と思えた。

 私の問いかけに、彼は一瞬きょとんとしたが。すぐに合点がいったのか、「ああ」と笑った。


「やめるつもりだった」

「──え?」

「あの時お前に勝ったら、将棋をやめるつもりだったんだよ。初段に勝てたら、親父も許してくれるかなってさ」


 予想外の彼の返答に、私は目を丸くする。やめるつもりだった? 将棋を? 意味がわからない。せっかく強くなったのに、どうして?


「おっと。この話は、香織には内緒にしといてくれよ?」


 声のトーンを落として告げて。修司さんは目線を横に向ける。隣の盤では、香織さんが雫さんとすでに対局を始めていた。二人とも真剣な表情で、食い入るように互いの指し手を見つめている。幸いにも(?)こちらの話は聞こえていないようだ。


「将棋って面白いよな。最高のボードゲーム、もとい頭脳格闘技だ」

「はあ」

「俺の人生は空っぽだった。何に夢中になることも無く、惰性で生きているだけだったんだ。けど、それを満たしてくれるものができた。それが将棋だ」


 少し寂しげに笑って、彼は続ける。家庭と将棋、両立できると思っていたんだが、と。


「俺には無理だった。将棋の魅力には抗えなかった」


 修司さんは将棋に熱中するあまり、香織さんと過ごす時間をないがしろにしてしまった。新婚だというのに夫婦仲は冷え切り、日常会話もほとんど無くなっていたという。

 にわかには信じられない話だけど。二人は、将棋のせいで破局の危機を迎えていた。


「だから、やめようと?」

「ああ。終わらせるつもりだった」


 そうか。夫婦の仲を修復するために、原因となった将棋を取り除くつもりだったんだ。中途半端じゃまた同じことの繰り返しになると思って、完全に断ち切るつもりで。悔いを残さないよう、私に勝って将棋人生を完結させるつもりだったんだ。

 ところがだ、と彼は笑う。


「情けないよな。大一番に勝てなかった」


 そう。私は修司さんに勝ってしまった。いつも通りの手順で、容赦なく叩き潰した。だって、何も知らなかったから。

 彼がどれ程研究を重ね、どれ程の想いを込めて指した一局だったのか。私は知らなかったから、冷徹に彼の玉を追い詰めることができたんだ。

 やっと理解した。対局後に、彼が流した涙の意味を。

 それは、くやしかっただろうな。


「でもそのおかげで、今こうして貴方はここに居る。香織さんだって」

「ああ。皮肉なもんだよな、ホント。まさか香織が道場に来るなんて、思いもしなかったよ。

 きっと俺は十分に理解できていなかったんだな、あいつの気持ちを」


 答えて、自嘲気味に笑う修司さん。


「だけど……今は、違いますよね?」


 その反応を見て、もう少しだけ訊いてみたくなった。

 私の質問に、彼は一瞬だけ大きく目を見開くも。その後に、力強くうなずきを返して来た。


「もちろんだ。俺達は将棋を通じて何度も対話し、今この場も共に在る。盤は離れていても、心は通じ合っていると信じている」


 まっすぐな瞳には、一片の疑念も感じられない。ああ、この人は。いや、この人達は、本当にお互いのことを信じ切っているんだな。

 将棋を通しての対話、か。ついぞ姉さんとの対局で叶わなかったものだ。もしできていたなら、私は今ここに居なかったかもしれない。

 カッコいいな、修司さん。憧れるよ。


「お答え下さりありがとうございました。納得しました」


 だからこそ。この人に、勝ちたい。


「よし。それじゃ、そろそろ始めるとしようか。今こそ雪辱を果たす」


 宜しくお願いします。

 ぱちん。対局開始の合図と共に、早速駒を打つ修司さん。予想通り、角道を開けて来たか。

 ならばこちらは、飛車先の歩を突く。


 ぱちん、ぱちん、ぱちん……。

 双方無言で、駒組を進めていく。

 彼の得意形は、十中八九相矢倉だ。あの時もそうだったし、今も定跡に則った指し方をしている。まるでそれしか知らないみたいに、基本に忠実だった。

 対する私には、迷いがある。このまま定跡に沿って指し続けるか、あえて定跡外の手を選ぶか。

 確実に勝ちたいのであれば、迷わず後者を選ぶべきだろう。相矢倉の将棋は、研究成果が勝敗に直結するといっても過言ではない。恐らく修司さんは、相当な研究をして来たはずだ。序盤から中盤にかけて、こちらが不利になるのはほぼ確実。

 そうわかっているのに、何故か別の手を選ぶ気になれないでいる私が居る。勝ちたいと思っている、のに。


 この人には、香織さんが居る。やめようと思えば、彼女のためにいつでも将棋をやめることができるんだ。

 でも私には、将棋しかない。姉さんの真似事をしているのだって、強くなるためだ。唯一対局に勝利した時だけが、自分が輝いていると実感できた。

 勝たなきゃ。何のために睡狐様の巫女になったか、思い出せ。


 それは、深い愛情で結ばれたこの夫婦に打ち勝つことで。己の存在意義を再認識し、自己満足に浸るためだ。そう、決して前向きな理由じゃないし、ほめられるものでもない。

 だけど。そんな理由のために、私はここまで堕(お)ちたのだ。今さら引き下がれない。

 定跡を外し、力戦に持ち込み。四十禍津日によって増幅された棋力で、より確実に勝ってやる。


「──そういえば。質問がまだだったな」


 そんな時に、ふと思い出したように修司さんが口を開いた。

 駒をつかもうとしていた手が止まる。


「お前の話に出てきた『センセイ』と『ユウヤマケイカ』についてなんだが。

 彼らは今、どこに居る?」

「……え?」


 何を訊かれるかと思えば、そんなことか。彼らは。

 彼らは──あレ?

 どこに居るんだっケ……?


 頭を押さえる。思い出せない。思い出したいのに。私の中の何かが、早鐘を打って警告している。頭痛がする。思い出してはいけないト。

 そんな。修司さんの質問に、答えられないなんて。

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