(10)姉さんになる

「……え?」

「キミが真似したヒト。こんな程度なら、あたしの敵じゃないヨ」


 見下したような表情だった。

 私だけじゃない。姉さんのことまで、蔑(さげす)まれてしまった。私が負けたせいで。何も知らないくせに。姉さんは、強いのに。

 私が知っている中で──いや。姉さんはいつだって、最強だ。負けるはずが無い、この人にだって。あの睡狐にだって。


『将棋は最後までわからないよ』

「私の、姉さんを……侮辱するな……!」

『……ま、最後に勝つのは私だけど!』


 炎のように紅蓮に輝く瞳を思い出す。自信に満ちた、不敵な笑みを思い出す。

 そうだよね、姉さん。まだ詰んでもいないのに、あきらめちゃダメだよね。

 そう、だから。きっと私は、もっと強くなれる。

 ばちん! 叩き付けた歩が一瞬、燃え上がった気がした。王手をかける。


「まだやり合うっていうノ? 私の勝ちは確定! もうキミには、万に一つの勝ち目も無いというのニ!」


 驚きの声を上げる桂花さん。

 刃が砕けたのなら、拳で殴れば良い。届かないのなら、届く距離まで近づけば良いだけのこと。死神の鎌が首を切り飛ばすよりも早く、渾身の一撃を叩き込め。

 ばちん! とっさに彼女は回避を試みる。逃さない。王手をかけ続けるんだ。たとえ一見無理筋でも、何が何でも繋げてやる。


「この……往生際の悪イ……!」


 舌打ちが聞こえた。

 桂花さんは苦しげに顔を歪ませる。いらだちの中に、焦りの色が混じっている。今度は演技じゃない、本物の焦燥を感じた。ということは、もしかして。この長く険しい攻めの先に、詰みがある──のか?

 だとしたら。往生際が悪いのは、貴女の方だ。

 ばちん! 大駒を二枚共捨てる。一気に接近に持ち込む。零距離で、ボディブローを炸裂させる。


「ぐっ……はっ……!」


 盤上に、鈍い音が響いた気がした。悶絶する彼女の玉将。その顔面目掛けて、本命の右ストレートを叩き込む。ぐらりと大きく傾き、あお向けに倒れる桂花さん。もちろん本当に殴り付けた訳じゃない、あくまでイメージだけど。クリーンヒットが決まった。

 これでも駄目なら、その時こそ本当の敗北だ。頼む、そのまま倒れていてくれ。

 10秒。20秒。テンカウントならぬ、30秒の秒読みが過ぎて行く。


 肩で息をする。指すのに無我夢中で、呼吸をするのを忘れていた。そこまでしなければ、この人には勝てないと思った。

 それに姉さんだってきっと、真剣に指す時は同じはずだ。息をする時間さえも、惜しい。


「──手数は長いけど、後はもう一直線。詰み、か」


 長考の果てに、桂花さんはぽつりとつぶやきをもらした。


「負けましタ」


 深々と頭を下げられる。一瞬、何を言われたのか理解できなかったが。負けましたってことは、対局はこれでおしまいだ。あ、あいさつしなくちゃ。

 あわてて私も「ありがとうございました!」とおじぎをする。勝った実感は無い。王手を続けていたら、偶然詰み筋に入っただけのことだ。たまたま、奇跡的に。


「はァ。よもやあの局面からくつがえされるとはネ。油断大敵、将棋は勝つと思った瞬間に負ける……かァ。恐れ入ったヨ」


 苦笑混じりに声をかけられても、私は「はぁ」とあいまいに返すことしかできなかった。呼吸を忘れる程に、ただがむしゃらに、必死に王手をかけ続けていたから。自分でも、何を指したのか思い出せない。


「ナルホド。この強さなら、真似したくなる気持ちもわかル。性格にやや難がありそうだけド」

「すごいぞ鬼籠野! 平手で桂花に勝つなんて! やっぱり君には伸びしろがある!」


 一人納得してうんうんとうなずく桂花さんと、私を見て目を輝かせる先生。ほめられるのは嬉しいけど、実力で勝った気がしなかった。


「ごめんなさい」


 謝罪の言葉が、口をついて出た。きょとんとする二人に、私はさらに言葉を重ねる。


「ほめて頂いた所悪いんですけど。すごいのは姉さんです。私は棋風を真似ただけで、本質を理解できていません。勝てたのだって偶然で、負けてもおかしくなかった。姉さんなら絶対、そんなこと無いのに」


 もどかしかった。この二人は姉さんを知らないから、こんな程度だと思ってしまうんだ。違うのに。姉さんはもっともっと強くて、私なんかが真似した所で遠く及ばない、孤高の存在なのに。

 言葉だけじゃ、彼女のすごさを伝えきれない。


「鬼籠野クン。将棋は運の要素がほとんど無イ。キミが勝ったのは断じて偶然じゃないヨ」


 そう答えた桂花さんは微笑んでいた。今までの怪しげな雰囲気とは異なる、優しい笑顔だった。


「でも」

「それに模倣だって、十分凄いことだヨ? 例えばあたしがプロ棋士の棋風を真似た所で、プロには決してなれなイ。でも、キミは姉になれタ。あたしに勝てタ。精度を高めていけば、もっと強くなれるサ」


 相変わらず独特のイントネーションではあったけれど。桂花さんの言葉は、不思議と胸の奥にストンと落ちた。

 そんなにすごいことなんだろうか、この人に勝ったことって。少しは、姉さんに近づけたんだろうか。強くなれたんだろうか。


「桂花はこの学校の将棋部の元部長だ。一勝の価値は大きいぞ」


 反応に困っている私を見かねてか、先生が説明してくれた。将棋部の元部長。どうりで、色んなパターンの攻め筋を知っている訳だ。手強かった。


「元は、ネ。久し振りに指したら駄目だァ! 鬼籠野クンの指し手が全然読めなかったヨ」

「よく言うぜ。途中まで勝ち誇ってたくせによ」

「あれは演技だっテ」


 全ては、私の本気を引き出すための演技。本当は全く余裕なんて無かったと、桂花さんは苦笑混じりに答える。

 もし、それが本当なら──めちゃくちゃ嬉しい、けど。


「とにかく、キミは強イ。自信を持ちなさイ。ええと、キミのお姉さん、何て言ったっけ?」

「鬼籠野燐だ。この辺じゃ名の知れた悪ガキだよ」


 わ、悪ガキ? 先生の返答に、私は目を丸くする。姉さん、そんな風に見られてたの? 確かにすぐ大人に噛み付くし、やりたい放題ワガママを尽くしていたけど。

 さすがに今のは、姉さんでも傷つくかもしれない。この場に居なくて良かった。


「そウ、燐。彼女にもっと近づく妙案があるんだけド、試してみなイ?」


 意味深な言い方だった。妙案? 姉さんにもっと近づくって、一体どうやって? 今だって、死力を尽くしてやっと勝てたというのに。これ以上は、私には思いつかない。

 試してみたい。気がつくと私は、コクンとうなずきを返していた。


「フフ、よろしイ。それじゃあキミには、燐になってもらおうかナ」


 え? 姉さんに、なる?

 彼女の言葉の意味がわからず、私が首をかしげていると。桂花さんはくすくすと、悪戯っぽく笑った。


「難しく考える必要は無イ。そのまんまの意味だヨ。鬼籠野あゆむクン、キミは今日から鬼籠野燐として生きるんダ。簡単サ。キミは中性的な、可愛らしい顔立ちをしているからネ」

「……それって」


 まさかと思った。

 まさか、この人は、私に姉さんのフリをしろって言うのか? 棋風だけじゃなくて、姿形も立ち振る舞いも、何もかも。


「そんな。無理です」

「大丈夫、化粧の仕方はあたしが教えてあげル」

「そういうことじゃなくて!」

「強くなりたいんだロ? それにサ、りょーちゃんも女のコのキミが好きだと思うヨ」


 ──え? その言葉にハッとして、先生の方へと目をやると。彼は視線を逸らし、窓の外を見つめた。雨足はいつの間にか遠のき、雲の切れ間から幾筋も光が差し込んでいる。

 先生は、女の私が好き?


「できるできないじゃなク、やるかやらないかダ。可能性が少しでもあるのなラ、賭けてみるべきだと思うネ」


 いつの間にか、桂花さんの顔から笑みが消えていた。からかわれているのかと思ったけど、そうではないようだった。至極真面目な顔で、彼女は提案して来る。

 姉さんに──鬼籠野燐にならないか、と。

 決断しなければならない。今まで通り姉の従者として生きるか、それとも姉から離れて、独立した新しい人生を始めるか。


「でも。姉さん、怒ると思いますけど」


 心配なのはそこだった。姉は私のことを自分の所有物だと思っている。私が離れれば、激怒するに違いない。


「心配するな。己の身は自分で守るさ。俺だって平手ならそこそこやれるんだぜ?」

「りょーちゃんはともかく、あたしは睡狐様が護ってくれるヨ」


 だから心配は無用だと、二人は私を安心させるように言って来た。不安はあるけど、今は信じるしかない。彼らの気持ちに応えたいと思った。

 きっと大丈夫。私は自分の心配さえしていれば良いんだ。

 いつかの先生の言葉を思い出す。私も、羽ばたく私が見たい。


「わかりました。私、姉さんになります」


 うなずく。覚悟を決める。

 鬼籠野あゆむとしての人生は平坦だった。上がることも落ちることも無い、ただ姉の所有物として生きているだけ。そこには不安も苦しみも無かったけど。真綿の如く柔らかな平穏に、希望の芽もまた押し潰されていた。

 鬼籠野燐になるということは、あゆむであることを捨てるということ。新しい自分に生まれ変わることを意味している。


「桂花さん、お願いします。どうすれば姉さんになれるか、教えて下さい」


 覚悟を決める。今までの自分を、切り捨てる覚悟を。

 その意気や善シ。桂花さんは答えて席を立った。ついて来テと促され、私も立ち上がる。

 そう言えば先生と指してなかった。ふと思い出して視線を遣(や)るも、彼は手を振るばかりだった。

 それが。私が鬼籠野あゆむとして見た、先生の最後の姿だった。後悔があるとすれば、その時対局せずに立ち去ったことだ。


 その日、私の中のあゆむは死んだ。

 連れて行かれた更衣室で、渡された女子の制服に袖を通した時。鏡に映った自分の姿が、姉のそれと重なって見えた。不敵な笑みが、目に焼き付く。

 身体の奥底から、力が湧き上がって来るのを感じた。

 火が点き、全身に燃え広がっていく。生まれ変わる。あたかも不死鳥のように。灰になるまで、燃え尽きた後に。

 安寧(あんねい)の皮を脱ぎ捨て、獣が荒々しく産声を上げる。

 ──私の中に、『りん』が誕生する。

 鬼と見紛う真紅の瞳が、ぎらりと、一際強い輝きを放った。

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