(9)憧れの、その先へ

「この将棋からは、対局者への敬意が微塵も感じられなイ。相手を見下し、実力を試すような手ダ。思う存分攻めてみロ、それでも勝つのは自分だってネ。

 キミは強い憧れを抱くと同時に、こうも感じたハズ」


 この人には絶対に敵わない。従うしか、自分が生き残る道は無い、と。桂花さんは続けた。

 ぱちん。駒音が響く。攻め合いに応じたにしてはやけに静かで、かえって薄気味悪く感じた。

 私は今まで、姉さんに従うことを苦に思ったことは一度も無い──はずだった。

 でも、本当にそうだったのだろうか?


 ふと、あの子のことを思い出した。

 幼い頃、大切にしていた熊の縫いぐるみ。無惨に裂かれた腹を目にして、感じたものは何だったのか。

 あの時の姉さんの表情。獲物を狩る肉食獣のように、紅くぎらつく双眸。忘れたくても忘れられない。


「”こんぷれっくす”って表現じゃ生ぬるイ。”とらうま”を植え付けられたんだネ」

「……一体、どうすれば」


 あの時のことを思い出す度に、全身に震えが走るのだ。こんな状態で、姉さんの真似をするだなんて。私には、どうしたら良いのかわからない。


「逆に利用してやれば良いのサ。その強烈なとらうまを、ネ。そいつを丸ごと取り込んで、棋力に変えてみせナ」

「取り……込む……?」

「キミを束縛してる奴に、キミが成レ」


 私が、姉さんに成る……?

 桂花さんの言葉に、私はハッとして顔を上げる。視線を巡らし、こちらを心配そうに見守る先生を見返した。

 思い出したことが一つあった。それは、先生と初めて指した時のこと。持ち駒の『歩(あゆむ)君』が、と金へと成った時のことだ。

 駒を裏返すことで、その駒は強くなれる。たったそれだけのことで、ただの歩が、金将と同格の存在に成り上がれるんだ。

 思い描くは、裏返すイメージ。私という存在を、ひっくり返すんだ。それならきっと、私にだって。

 鬼籠野あゆむ。私よ、鬼籠野燐に成れ。


 ばちん! 渾身の力を込めて、駒を打ち込む。


「チカラが増しタ? いいや、まだまダ。こんな程度じゃないだろウ、そいつの棋力ハ」


 ぱちん。桂花さんも打ち込んで来る。変わらず落ち着いた指し手で、動揺は微塵も感じられない。

 それでいい。試し斬りをするには、ちょうど良い相手だ。

 ばちん! やり過ぎて、盤ごとぶった切らないようにしないと、だけど!


 ばちん、ぱちん、ばちん!

 互いの攻めが加速する。まるでジェットコースターに乗っている気分。最高速度に到達する前に音を上げないでよ、桂花さん!


「鬼籠野クン、キミ。調子に乗ってなイ?」

「ごめんなさい。楽しくて、つい」

「楽しい、ねェ?」


 ばちん! 一際大きな駒音が響いた。彼女の右手が輝きを放つ。

 打ち込まれた銀将から、しゅうしゅうと湯気が立ち昇っている。これまでとはまるで違う、力強い一手だった。

 あ、もしかして怒っちゃった?


「あたしをナメるなヨ、若造」

「貴女、本当は何歳なんですか?」

「れでぃに年を訊くんじゃなイ!」


 今までの私なら、あまりの迫力に萎縮していたかもしれないが。今は、違う。

 強敵を前にして、悦(よろこ)びを感じている。勝てるかどうかなんて考えない。負ける恐怖など無い。最後に勝つのは、私なのだから。

 一切手を緩めず、問答無用でねじ伏せてやる。鬼籠野燐は、いつもそうやって勝って来た。それなら、私だって。


「対話を拒む無礼者メ。あの世で詫びロ」

「冗談でしょ──!」


 研ぎ澄まされた刃を、紙一重でかわす。

 大丈夫、かすり傷だ。痛みは無いし、命を取られることも無い。ほんの少しズレていたなら、首を切られて即死だったけど。

 ゾクゾクする。これが練習対局じゃない、真剣勝負か。

 彼女を怒らせて良かった。おかげで味わえそうだ、将棋の醍醐味という奴を。


 追撃が来る。何度も何度も、尽きること無く。

 それは命を刈り取る死神の鎌。一撃でも食らえば即詰み。かわす、ひたすらかわす。夢中で避けている内に、だんだん楽しくなってきた。

 姉さん、貴女は。私に内緒で、こんな楽しいコトやってたんだね。ズルいよ。


「存外にしぶといネ。居玉のくせニ」

「それは貴女も同じでしょ?」


 二人して笑い合う。

 私は心の底から快感を覚えている。

 だけど桂花さんは、笑いながらもこめかみを引きつらせていた。口角を吊り上げた形は、威嚇行動の一種でもあることを思い出す。

 多分、内心はメチャクチャ怒っている。私を強くするという目的など、完全に忘れてしまっているようだ。

 死の瞬間は、刻一刻と迫っている。それが楽しい。

 やるかやられるか。詰むや詰まざるや。一手一手がスリルに満ちていて、命を懸けてると思うとゾクゾクする。もちろん負けたくないし、負けるつもりも無いけど。負けるかもってチラッと考える度に、悲鳴を上げたくなって。それさえもが、楽しかった。


「いい加減に観念シロ」


 ばちん! 強打に、駒が吹き飛ばされそうになる。

 ずいぶんとまた、思い切った勝負手を。強引に決めに来たか。だけどその手は荒く、精度に欠けている。

 ばちん! 強打には強打を。チャンスだ。攻めるなら今しか無い。彼女の陣地にわずかに生じた綻(ほころ)びを、容赦無く突く。


「こいツ……!」


 桂花さんの顔色が変わる。私の攻めを潰そうと、彼女は受けて来た。応じてくれた、それなら。

 かえって、攻めは加速する。


 最高速度まで後少し。後少しで、切っ先が彼女の玉へと届く。勝てる。姉さんのように、圧倒的な力を見せ付けて。物真似だけど、私にだってできたんだ──。

 そう思った、矢先だった。


 ピキッ。刃にヒビが入る。届く前に、ボロボロと崩れ落ちていく。


「な、んで」


 止められた。渾身の攻めが、いとも容易く潰された。

 完膚なきまでに、完全に受け切られてしまった。そんな馬鹿なと、胸中でうめく。


「攻めが通ったように見えたよネ?」


 ぱちん、と。美しい駒音が、室内に響き渡る。

 死神の鎌が、静かに首筋に当てられる。


「残念。キミの読みは、あたしの想定を上回ることはできなかったヨ。どうかナ? 楽しかっタ?」


 ああ、楽しかった。攻めを潰されるまでは。

 だけど。今は別の感情が、私の中で渦巻いている。


「どう、して」


 絶好の好機。桂花さんは怒りで我を失い、自陣に小さいけれど致命的な隙を生じさせてしまったはずだ。そこを私は徹底的に攻めた。それが想定内だったと? 馬鹿な、ありえない。


「あえて攻め易くして、受け易くしたんだヨ」


 まんまと引っ掛かったね、と彼女は嗤(わら)う。


「将棋で怖いのは、予期せぬ一手を指された時ダ。それが好手だろうと悪手だろうと、思考は乱れ、指し手を狂わされてしまウ。得体の知れない奴を相手にしている時はなおさらサ。

 だから、わかり易い隙をわざと作って、そこを集中的に攻めてもらうことにしたんだヨ」


 ぞくり。首筋に伝わるひんやりとした感触に、背筋が震えた。恐らく後数手もすれば、私の命は刈り取られることだろう。


「演技、だったの? 怒ったように見えたのも、全部?」

「ま、多少はイラッとしたけどネ。将棋指しにとって大切なのは平常心だヨ、鬼籠野クン」


 こともなげに彼女は答えて来る。

 なんてことだ。それでは私は、まんまと彼女の掌(てのひら)の上で踊らされていたというのか。それに気づかず、調子に乗っていた私は──策に嵌(は)まってしまった。

 決して手抜いた訳じゃない。全力で潰しにかかった。それでも寸止めを食らってしまったのは、ひとえに私の実力不足だ。私が、弱いから……。


「大したこと無かったネ」


 その時桂花さんがもらした一言が無ければ、私は投了していたかもしれない。

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