(15)前哨戦

「どうしても、勝ちたいんです」


 真剣な目でりんがそう告げて来た時、頭の中に燐の顔がよぎった。だから俺は、うなずいた。


「遠慮は無用だ。やれよ。俺が全部、受け止めてやる」


 何を仕掛けるつもりなのかはわからないが。見たいと思った。可能性を。りんが、羽ばたく姿を。かつて『先生』が期待したように。

 なりふり構わない全力の攻撃を真正面から受け止めた上で、勝つ。俺が目指す場所は、その先にこそ在るのだ。

 俺の偽らざる本心からの返答に、思い詰めた表情がほんの少しだけ和らいだ気がした。


「ありがとう、ございます」


 頭を下げる彼──いや、彼女と言うべきか。

 礼を言うのは、こちらの方だ。

 何しろ、最強の相手と、最高の棋譜を創造すること。将棋指しにとってこの上ない喜びを得られるというのだから。

 さあ、見せてくれ。お前の本気を。


 瞳を閉じるりん。相対した瞬間から感じていた、彼女にまとわり付く異様な気配が、徐々に濃度を増していく。持ち時間は刻一刻と減っていくが、構う様子は無い。

 恐らくこの勝負に、時間切れ勝ちは無い。否、そんな終わらせ方はしない。完全に決着をつけてやる。


 盤上へと視線を移す。園瀬流を基にした俺独自の戦型。中央に銀が陣取り、形勢はややこちらが有利と見た。だが油断しては駄目だ。終盤力は彼女が上回っている。いくらでもひっくり返せる程度のリードだ。

 思い切った手は指さない。堅実な手を指し続け、最終盤まで微差の優位を維持して勝ち切る。地味な将棋と笑われようが構うものか。俺にできる最善を尽くすのみだ。

 そうだ。この世でたった一人、俺の将棋を格好良いと評価してくれる人が居る限り。俺は俺のやり方を貫く。必ずや全うしてみせる。


 香織は雫さんと対局中。面妖なる竜ヶ崎流を前に、苦悶の表情を浮かべている。それでも彼女の心が決して折れないことを、俺は知っている。

 彼女から、沢山の勇気をもらった。香澄さんと指した時も、穴熊さんと指した時も。いつだって香織の声援が、俺を支えてくれた。

 今度は俺の番だ。俺が彼女を支える。

 この一局に勝つだけじゃない。この先の人生、俺が君の柱になる。だから一生、俺について来てくれ。


 びりっ。


 そこまで思考を巡らせた所で。頬に静電気が走り、鳥肌が立った。鬼籠野りんの方へと、視線を戻す。

 彼女は動かず、双眸を閉じたまま。けれど何かが変わったと感じ取る。決定的な何かが。


 ──何だ、この変化は?


 りんの全身に細かく描かれた紋様は、四十禍津日の理を説いたものだという。それら一つ一つから、漆黒の瘴気が噴き出している。まるで湯気のように、天へと立ち昇っていく。

 それは想定内だ。四十禍津日の力を開放したのだろうと予想できる。

 問題は、そこじゃない。


「何者だ?」


 彼女に付きまとっていた気配が、いつの間にか消えていた。同時に、りん自身から発せられる棋士としてのオーラ、『棋気』が変質したのを感じた。

 つまりは、入れ替わったのだ。彼女と、今まで彼女にまとわり付き、蝕んでいた何者かが。

 凄まじい棋力の奔流が、俺の方まで押し寄せて来る。背筋を、冷たい汗が流れ落ちた。


「何者か、とハ」


 閉じていた瞼が開かれていく。凍てつく紅い輝きに、全身が刺し貫かれた。やはり違う。こいつは断じて、りんじゃない。


「初対面なのに、随分と無礼な物言いじゃないカ」

「りんをどうした?」


 俺の質問に、そいつは一瞬きょとんとした表情を浮かべた後で、「ああ」と相槌を打って来る。


「死んだヨ」


 さらりと、何でもないことのように告げた後。


「りんなんて言うから、誰のことかわからなかったヨ」


 と、おかしそうに笑った。


「お前が……殺したというのか?」

「あたしがこの身体を手に入れるには邪魔だったからネ。居なくなってもらっタ」


 紅い瞳に愉悦の色が浮かぶ。俺の反応を見て面白がっている。


 白髪の少年、レンと同じ鮮血色の眼。

 独特のイントネーションの喋り方。

 それら二つから連想するのは、りんの話に出てきた、ユウヤマケイカに憑依したという睡狐だが。

 本殿奥に鎮座する十尾の狐像を見上げ、かぶりを振る。違う。睡狐がこんなことをする意味が無い。

 ならば、こいつの正体は何だ?


 息を整えろ。落ち着け、修司。りんが死んだと言ってこちらの動揺を誘うのが、敵の狙いかもしれない。呑まれるな。

 眼前の相手が誰であれ、何も変わらない。将棋を指して、勝つだけだ。


「あレ? あたしの話、気にならないノ? キミの対局相手を殺したって言ったんだヨ?」

「りんは、死んじゃいない」


 怪訝そうに尋ねて来る『対局の妨害者』を睨み付け、俺はそう答えた。

 それが気に入らなかったのか、相手はフンと鼻を鳴らす。いいぞ、風向きが変わった。


「俺はあんたを知らない。だから何も信じない。信じられるのは唯一つ。この盤上にまだわずかに残っている、あいつの体温だけだ。まだ……温かい」


 俺とりんは、一局を通して対話を続けて来た。その証が棋譜であり、現在の局面に表れている。この将棋はまだ死んでいない。ならば、りんはまだ生きている。

 将棋指しが、対局を投げ出して死ぬなどありえない。


「無茶苦茶な理屈だネ」

「だが否定できまい。あんたはただの乱入者に過ぎないからな」


 何気なく発したその一言に、りんの中の『誰か』は息を呑んだ。

 口をへの字に曲げ、俺の顔をにらみ付けて来る。泣き出しそうな表情にも見えるが、気のせいだろうか。


「あんたは俺とりんの対局の邪魔をした。誰であろうと、どんな事情があろうと。あんたを、絶対に許さない」

「あんたって言うナ……!」


 彼女が叫んだ瞬間、猛烈な棋気が吹き付けて来た。風圧にのけぞりそうになるも、懸命に耐える。

 何て理不尽な怒りだ。名前を知らないから、あんたと呼ぶしか無かったのに。


「あたしには、木綿麻山桂花っていうれっきとした名前があるノ! 名前くらい訊けよバカ! ちょっと美形だからって、スカしてんじゃねーヨ!」


 自ら正体を明かし、少女はハァハァと肩で息をする。

 りんは桂花の行方を知らなかった。りんの中に隠れていたなら、知らなくて当然か。どうもしっくり来ないが。


「何であたしがあゆむクンの体の中に居るか、気にならないノ!?」

「え? いや、特に興味は」

「少しは気にしろヨ! この将棋バカ野郎!」


 一方的に怒鳴られる始末。酷い言われようだ、人が気にしていることを。自称・木綿麻山桂花はなおもまくし立てて来る。


「あたしの体はもう無いノ! あゆむクンに殺されたかラ! だから代わりに、彼の体をもらったのサ! あんだーすたん?」

「は? あゆむがあんたを殺したって?」

「そうなノ、ヒドいでショ?」


 俺が食いついたのを見て、彼女はすかさず同意を求めて来た。すがり付くような視線を、俺は冷徹に振り切る。同情しては駄目だ。こいつの話は信用ならない。


「あゆむ──りんが、人を殺すはずがない」

「冷静じゃなかったんだヨ。鬼の力が暴走してサ。滅茶苦茶になったノ」

「あいつは鬼にはなれないぞ」

「そこはほラ、限界まで追い詰められて発揮する底力的ナ? 例えば彼の姉を人質にとってみるとかですネ」

「それこそ不可能だ。あの燐が大人しく捕まるタマかよ」


 鼻で笑うと、自称・桂花はムッと頬を膨らませた。全てが大嘘。彼女の話には何一つ真実味が無く、しまいには仮定の話を始める始末だ。

 こいつとこれ以上話しても、まともな情報を得られそうにない。

 なら、とっとと始めるべきだ。速やかに前座にはお帰り願おう。


「めんどくサ。お前のようなヤツと話すと疲れるヨ、園瀬修司クン」

「同感だ」

「それでは前哨戦といこうカ。あたしが覇道を極める、輝かしい第一歩ダ」


 前哨戦、確かに。

 くしくもこの一局は、双方にとって同じ意味を持つらしい。早々に決着をつける。もう一度りんと戦うために。

 話している間に、局面は覚えた。いつでも指し直せる。


「睡狐の妖力と鬼の力、それに四十禍津日が加わった今。あたしの棋力は、神の域に限りなく近づいていル。その力の片鱗をお見せしよウ」


 ……何? 神、だと?

 彼女のその一言に、心がざわつく。将棋で大切なのは平常心。乱れた精神状態では勝てる勝負も勝てないと、重々承知しているにもかかわらず。

 今お前が告げた神とは、まさか。プロの先生方のことじゃあるまいな?


「あゆむクンが中学生で良かったヨ。奨励会の年齢制限を気にしなくて済ム」

「お前──!」


 何を考えてるんだ!? 叫びは声にならなかった。心が沸騰する。


「おやァ? 今度は気になル? 嬉しいねェ」

「それは! それだけは! 絶対に許さない!」


 彼女の言う『覇道』の意味を、やっと理解した。そんな暴挙、許されるはずが無い。

 りんから奪った力で。プロの世界に、挑戦するなどと。

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