(4)好き / 許さない

「鬼籠野。どうだ、将棋を真剣にやってみないか?」


 君には才能がある、と彼は続ける。初心者でここまで指せる人はそうは居ない、と。

 正直、買いかぶり過ぎだと思う。試しに姉の真似をしてみただけで、私の力で勝った訳じゃない。私には、才能なんてものは無い。

 そう思いながらも。私は、うなずいていた。


「よろしくお願いします」


 ──あの日の放課後。姉のために人生を捧げて来た私は死んだ。生まれ変わるために。


「よし! 一緒に頑張ろう!」

『許さない』


 ノイズのように重なる声。聞き慣れた彼女の声を、私は意識の外に閉め出した。

 先生と一緒なら、きっと私は変われると。そう、心から信じたかった。


「あ、でも。そろそろ塾に行かないと、です」

「おお、行け行け。続きは明日にしよう。鬼籠野は真面目だな。そういう所、俺は好きだぞ」


 斜陽に照らされた彼の笑顔は、直視できない程にまぶしくて。私は視線を出口へと向けて、席を立った。

 好き、とか。誰かに言われたの、初めてかもしれない。


「じゃあ、またな」


 また明日。もう一度、先生と指せるんだ。

 胸の鼓動が高鳴るのを感じた。そんな、変だ。だって先生は男の人で、それ以前に教師と生徒で、不純過ぎるよ、こんなの。

 だけど。嬉しい気持ちが抑えきれない。爆発しそうで苦しくて。

 先生の方を一度も振り返ること無く、足早に走り去った。


 遅刻しかけているせいもあり、塾までの道のりを全速力で走った。途中で息が切れて苦しくなったけど、頭の中はスッキリした気がする。

 良かった。おかげで泣かずに済んだ。


「……へへ」


 呼吸を整えながら、何だかおかしくなって来て、一人で笑う。困った、変なテンションだ。これから勉強しなくちゃなのに。

 全部、先生のせいだ。好きだなんて言うから。将棋に誘ったりするから。私の力になりたいなんて、私の事情も知らないくせに、いとも簡単に言ってのけてくれたから。

 つい、その気になってしまったじゃないか。困った、けど。体の奥底から、力がフツフツとわき上がって来るのは何故だろう。こんなこと、初めてだ。

 彼の期待に応えたい。変わった姿を見せてあげたいと思った。

 うん、がんばろう。塾は目前、まずは勉学を──そう思って、視線を上げたその時だった。


「ふぅん? ずいぶんと、楽しそうじゃん」


 薄暗い並木道に、紅い瞳が輝きを放つ。ぞくりと、背筋に悪寒が走った。

 冷たい笑みを浮かべて、姉が近づいて来る。


「ごめん。塾に、遅れるから」


 逃げたい。もう一度走り出そうとした所で、腕をつかまれる。万力のような力で、振りほどこうにもビクともしない。


「痛いよ。放して」

「ねえ。あゆむはさ、私の物だよね?」

「……それは」

「さっきのあんた。私の知らないカオしてたよ」


 鋭い視線が、私の胸を射抜く。

 姉の顔から笑みが消える。どうしてかな、と彼女は小首をかしげてつぶやいた。


「学校の勉強がそんなに楽しい? 違うよね?

 ねぇ! 何があったのか、教えてよ!」

「──あ──!?」


 突然引っ張られ、バランスを崩して転倒する。訳がわからないまま、地面にあお向けに寝かされてしまう。

 姉さんが、馬乗りになる。


「誰か、好きな人でもできた?」


 つぅー、とほっぺたを姉さんの指先が伝う。氷のような冷たさに、身体が震えた。

 違う。先生とはそういう関係じゃない。ただ将棋を指しただけで、何もやましいことは無い。

 なのに、涙があふれて来る。止められない。


「ダメじゃない。お姉ちゃん以外を好きになっちゃ」


 首筋から胸へと、彼女の指が伝い落ちる。心臓に手を当てられ、高鳴る鼓動を聞かれてしまった。

 くすりと、姉さんは笑う。悪戯を思いついた子供のように。


「でも私は優しいから、チャンスをあげるわ。ねぇ、あんたのファーストキスを私にちょうだい? そしたら許してあげる!」

「……え?」


 何を言い出すんだ。


「誓いの口づけよ。ほら、結婚式でやるアレ。あんたが本当に私の物になるなら、何をやろうととやかく言わない。一生、私のことだけを愛し続けてくれるならね」

「なっ……! そんなの、できる訳」

「あんたに、拒否権は無いよ」


 彼女の指先が、私の下唇をつまむ。

 目が笑っていない。姉さん、本気だ。

 やめて。たった三文字の言葉を口にする勇気が無い。爛々と輝きを放つ紅い瞳に、射すくめられてしまった。言ったら最後、何をされるかわからなくて──怖い。

 姉さんの顔が近づいて来る。ほんのりと上気した頬、興奮状態にあるのがわかる。艷やかで柔らかそうな唇が、私を求めて突き出される。

 嫌だ、けど。抵抗できない。

 吐息が顔にかかり、悲鳴を上げそうになった。嫌だ、助けて……誰か。


「何でそんなに嫌そうな顔をするかな? あんたは私のために生まれて来たんだから、こうなるのは望む所でしょうに。ま、別にいいけどさ。多少強引でも」


 耳元でささやかれる。あんたの意思など関係ない。抵抗するだけ無駄だから、諦めろ、と。


「あ……」


 その一言で、全身から力が抜け落ちた。

 そうだ、姉さんがしたいと言うなら、私には拒めない。いつだってそうして来た。逆らおうなんて、考えたことも無かった。姉さんの命令は絶対で、しっぽを振ってついて行くのが私の役目。ご主人様にキスしてもらえるなんて、ごほうび以外の何物でもないじゃないか。

 喜んで受け入れるんだ。私の肉体は、姉さんを求めている。嬉しいです、もっとして下さい。何度も何度もそうやって懇願して、姉さんに満足してもらわなくちゃ。

 だから、泣いてちゃ駄目だ。さあ、笑って──笑え。


「ちょっと。なんてカオしてんのよ」


 なのに、何で? どうして? 視界が滲(にじ)む。姉さんの顔が見えない。

 チッ。舌打ちが聞こえた。冗談のつもりだったのに、と彼女は吐き捨てる。


 ──あんたが悪いのよ。


 不意に、頬を張られた。あまりの痛みに一瞬、気が遠くなる。我に返った時にはもう、彼女の体重は感じなくなっていた。


「弱い者いじめは、好きじゃない」


 そう言って、彼女はハンカチを差し出して来た。

 弱い者、か。確かに、私は弱い。同世代の子と比べても、心も体も軟弱過ぎると自覚している。

 けど、それを姉さんに指摘されるのは、結構ショックだ。

 ごしごしと、手で涙をぬぐう。今の私にできる、せめてもの抵抗だった。


 視界がクリアになると、いつもの姉さんの姿が見えた。瞳の輝きは収まっている。


「バカ。目にバイ菌が入るよ?」


 呆れたような表情で、ハンカチをしまい直す姉さん。それから小さな声で「ごめん」と続ける。


「あんたは私の物だけど、傷つけるつもりは無かった。ただ、ちょっとびっくりしちゃってさ。あんたがあんなカオするの、初めてだったから。

 ひょっとして……私のこと、嫌いになった?」


 おずおずと訊いて来る姉さんは、今まで見たことの無い表情をしていた。

 鬼とみんなに怖れられる存在じゃない。可憐な少女が、少し上目づかいでこちらを見つめている。

 多分私は、見惚れていたのだろう。彼女が「ねぇ、聞いてるの?」と言って来るまで、ポカンと口を開けていた。

 ええと。何の話だっけ?


 ああそうだ、姉さんを嫌いになったか訊かれたんだった。所有者の彼女が、持ち物の機嫌をうかがうだなんて。何だかおかしくなって、くすりと笑ってしまう。


「嫌いになんて、なる訳がないよ」

「ホントに!?」

「うん。そりゃ、キスされるのは嫌だけどさ」


 私の返事に、姉さんの顔がぱあっと明るくなる。


「じゃあ、お姉ちゃん大好きって叫んで!」

「え。それはつつしんで遠慮します」

「何よぅ!」


 彼女は頬をふくらませるも、すぐに破顔する。良かった、機嫌を直してくれて。

 一瞬だけ、嫌な予感が頭をよぎったけど。取り越し苦労で済みそうだ。このまま何事も無く、帰宅できれば。


「……あ。塾」


 完全に、忘れてた。完璧に、遅刻だ。

 私のつぶやきに、ハッと姉さんも息を呑む。

 ごめん。か細いささやきが夜風に溶け、彼方へと消えて行った。


 その後。珍しく反省したのか、姉さんも一緒に塾に謝りに行ってくれた。しゅんと落ち込んだ彼女は何だか新鮮で、少しだけ可愛いと思った。

 キスは、やっぱり嫌だけど。


 ──許さない。


 ふと、あの時教室で聞こえた声を思い出した。意識の外に閉め出しても、記憶から抹消することはできなかったらしい。

 姉さんは、まだ知らない。先生との秘密の時間。もし知られてしまったら、怒るだろうか。

 あの熊の縫いぐるみのように、先生もズタズタに引き裂かれてしまうのだろうか……?


 怒った姉さんは、何をするかわからない。

 言えない。そんな酷いこと、絶対にさせちゃ駄目だ。姉さんにも先生にも、不幸になって欲しくない。

 私が、黙っていさえすればいいんだ。秘密は永久に明かすことなく、私の心の内に封印する。それで問題無い。


 きっと、大丈夫。だから、安心して将棋を続けよう。


 ──その時の決意は、その程度で。今思えば、紙飛行機よりも軽いものだったけれど。


 それから紆余曲折を経て。現在なお、未だに私は将棋を指し続けている。

 棋力は上がったけど、想いの強さはどう変わっただろうか。

 対面に正座する修司さんは、どんな想いでこの一局に臨んでいるのだろう。

 確かめたいと思った。

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