(3)彼が教えてくれたこと
「おおー。鬼籠野の口から、そんな言葉が聞けるとはなあ」
「ご、ごめんなさ」
「おっと、謝る必要は無いぞ。俺は嬉しいんだ。君が、自分の気持ちをさらけ出してくれたことが。
さあ。もっと君を見せてくれ」
そう告げて打ち込まれた銀が、せっかく作った私の馬を、端へと追いやる。しまった。飛車を成り込ませるには、馬の協力が必要だったのに。分断された。
「くっ……!」
たった一手で、くつがえされる。
攻め手を潰され、駒損までしてしまった。せっかくハンデをもらったのに、これでは。
持ち駒は歩だけ。駒落ちは相手から取れる駒が少ないのだと、いまさら思い知る。自駒を、もっと大事に使わなければいけなかったのに……。
──って。ちょっと待って。
今、歩だけ、って思った? 私?
駒台に置かれた歩を見つめる。
初めて手に入れた持ち駒。大切にしようって決めたばかりなのに、私という奴は。
蔑(ないがし)ろにしてしまった自身を恥じる。そうだ、私にはまだ立派な戦力が残されているじゃないか。
盤上へと視線を移す。
探せ。相手の隙がより大きく、歩を有効に使える場所を。
そして考えろ。敵陣を突破する方法を。
中央は金銀の利きが集中し、玉まで守りに加わっている。突破は容易ではなく、大きな犠牲が伴うと推測する。
ならば──端はどうか?
「気づいたか」
彼のつぶやきに、私はこくんとうなずきを返す。
そうだ、端だ。私にあって彼に無いもの。左右の端で待機し、活躍する時を今か今かと待ち焦がれている、二枚の香車の存在を忘れていた。
「その”気づき”を大切にするんだ。自分の頭で導き出した答は、必ずや将来の力になる。
さあ、問題はここからだ。端攻めを成功させるにはどうすれば良いか、正解まで辿り着いてみろ」
先生の言葉が、私を後押ししてくれる。彼は対局相手だけど、敵じゃない。姉さんと指した時とは、まるで違う。
笑われない、馬鹿にされない、罵倒されない。私の指し手を、肯定してくれる。
この人の前でなら、私が考えた”答”を指して良いんだ。胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。
「香車だけじゃ突破はできない。だったら、駒を足せば良いのでは?」
「ほう。だが、どっちの端を狙う?」
「駒の少ない方」
私の馬を封じるために、先生は持ち駒の銀を使った。一見それで受かっているように見えたけど、実際はそうじゃない。ただでさえ少ない戦力が、偏ってしまっているんだ。
なら、狙うは反対側の端。
ぱちんと、小気味の良い音が出た。そうだよと、駒が返事してくれた気がした。
「おお、飛車を振って来たか。悪くない判断だ」
彼の口調には、まだ余裕がある。すかさず持ち駒の桂馬を打ち、受けて来た。
でも香車の下まで飛車を移動させたこの形は、貫通力に優れている。突破できないことは無いと思うんだけどな。
ええと。端に利いている駒は、私は飛車と香車。対する先生は、金と今打った桂馬。あ、利きが同じ数じゃ駄目か。
「焦る必要は無い。どのみち、俺からは何もできないんだ。じっくり考えて、答を出してみな」
優しい言葉に、甘えてみる気になった。時間を使って、精一杯考えてみよう。
きっと攻め駒を足すのが正解なのだろうと思うけど。問題は、どの駒を使うかだ。
こんな時姉さんなら? と、一瞬考えてしまった。
盤上の駒で、一番足が速いのは桂馬だけど。それでも、敵陣に辿り着くのに三手かかる。 それだけあれば、先生なら受けの態勢を構築できるだろう。
せっかくのリード、悠長な手を指して潰してしまうのはもったいない。
だったら。ためていた息を、ゆっくりと吐き出す。
指すべき手が、やっと見えた気がする。
姉にされて一番嫌だった手を思い出した。それは、取れない位置に駒を置かれること。
多分この手は、防ぎようが無い。うん、きっと大丈夫だ。姉さんの薄笑いが、頭を過ぎったから。
意を決し、端歩を突く。同歩とさせた所で、
──あゆむ君。今こそ私に力を貸して。
そっと、持ち駒の歩を垂らした。
「おっと、こいつは……うん……うん」
私の指し手に、先生は深くうなずく。困ったような笑顔で。良かった、間違えてなかったみたいだ。
彼は守りを追加するべく、銀の転回を試みる。が、それには数手を要する。今なら、桂馬が間に合う。満を持しての桂跳ねだ。
笑顔が引きつる。余裕が消える。手が震え出す。
「これは、困ったな」
ポリポリと頭をかきながら、彼はつぶやきをもらす。半分は指導対局のつもりだったんだが、と。
「どうやら俺、負けるのがくやしいみたいだ。はは、大人気ないよな」
「そんなことはありません。本気で相手をしてくれて、ありがとうございました」
「……お礼の言葉は、終局まで取っておきな」
先生の言う通り、まだ勝負は終わっていない。最後まで勝ち切るんだ、彼の想いに応えるために。気合を入れ直し、桂馬をさらに跳ねる。
もはや受けが利かないと判断し、王様を逃がそうとする彼。させない。逃さない。一手でも早く端を突破し、飛車を成り込むんだ。間に合わせてみせる。
──あゆむ君、いくよ。
敵陣に、駒を裏返して置く。一歩千金。最弱の駒が今、金将と同等の戦力に生まれ変わった。
……いや。ある意味、それ以上か?
と金の利点は、取られても歩に戻るため、痛手が少ないこと。相手にとっては、こんなに嫌な駒は無いだろう。それでも放置はできない。放っておけば何枚にも増えるのが、と金の恐ろしい所だ。
私と同じ名前を持ったか弱い存在が、今やたくましく成長し、立派に成り上がってみせた。こんなに嬉しいことは無い。
……などと感傷にひたる間も無く。誕生したばかりのと金は、すかさず桂馬に取られてしまう。うわあ、ひどい。
仇は取る。桂馬で取り返す。すると今度は、桂馬を金で取られた。
その金目がけて、香車が突っ込む。畳みかける。突破する。
「はあ」
ため息が聞こえて顔を上げると。先生が暗い表情で、盤を見つめていた。
「試合なら投げてるぞ、これ。どうしたら……いや、せめて形作りを……」
ぶつぶつと、こちらを見ようともせずにつぶやいている。眉間に皺(しわ)を寄せて、いつになく真剣な顔で。
その様子から、どうやら勝てそうだと悟る。
──勝てる? 私が、この人に?
そう思った瞬間に、心臓が跳ねた。
今まで負けっぱなしだった私が、将棋で誰かに勝てるだなんて。にわかには実感が湧かないけど、実現できるなら夢のようだと思った。
勝ちたい。絶対に。
逃げの一手の先生に対し、香車で金を取る。
歩を突き、脱出口を開こうとする彼。狙いは入玉か。逃げ切って、引き分けに持ち込む気だ。
そうはさせない。取ったばかりの金に願いを込めて、王様の進行方向に打ち込む。
「マジかよ」
先生は、力なくつぶやいた。上部への脱出口は断った。残る逃げ道は、金銀が居る左方向だけど。そこには、私の馬も待ち構えている。
封じられてなお、嘶(いなな)き、猛っている。
それでも彼には、逃げる以外の手は残されていない。いよいよ寄せ時と見て、成香で追撃し、次に飛車成で王手をかける私。
「王手は追う手。初心者は取り逃がすことも多いが……参った、完全に包囲されちまったな。形作りも、もう限界か」
負けました。
聞き間違いじゃなければ、先生はそう告げて、深々と頭を下げた。
「あ、あの」
震える声で、話しかける。
彼は盤にぶつけそうなくらいに顔を近づけたまま、動かない。
「私、勝ったんですか?」
恐る恐る尋ねると、彼の背中がビクンと跳ねた。
うめくように「ありがどうございまじた」と答えて来る。恐ろしく低い声だった。
今のは終局の挨拶、つまりは。
「や、やったー?」
「やったー、じゃねえよ。対局は最後まで指してくれた相手へのお礼の言葉で締めるもんだぜ」
苦笑して、ようやく顔を上げる先生。疲れた様子で、だけどもう悔しそうには見えない。おじぎをしている間に、気持ちを切り替えたのだと気づく。対局相手から、指導者の立場へと。
ホッと、私は息を吐き出した。良かった、いつも通りの先生だ。
「ありがとうございました。先生と指せて良かったです」
「それは光栄だな。俺程度の棋力じゃ、戦法を教えるのは無理だけどよ」
自嘲気味にそうつぶやく先生に、精一杯の笑顔で答える。
「いいえ、十分です。もっと大切なものを教わりましたから」
本当に。感謝の気持ちは、言葉では言い尽くせない。
私の返答に、彼は「はて?」と首をひねる。どうやら自覚は無いみたい。
クスッと笑って続ける。
「将棋って、楽しいんですね」
「あ? ……ああ! 最高に燃えるよな! 俺はほんの少しかじった程度なんだが、将棋を楽しむ気持ちだけは、誰にも負けないつもりだ!」
意図を理解し、胸を張る先生。
そうだ、楽しい。
私はこれまで、将棋を指して楽しいと感じたことは一度も無かった。姉の見下した目つきを思い出す。ひま潰し、あるいは鬱憤(うっぷん)晴らしに強制的に付き合わされ、彼女の気が済むまで一方的に嬲(なぶ)り殺される。私にとっての対局は苦痛でしかなく、今日まで自分から指したいとは思わなかった。
先生が、教えてくれたんだ。
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