(2)初体験は彼と
「ダメェ……!」
悲鳴に近い叫びと共に、私は反射的に振り返る。
そこには姉の姿はなく、
「鬼籠野?」
入口に立つ、先生と目が合った。
私の叫びに驚いた様子で、彼はこちらをまじまじと見つめて来る。
……消えた? いや、最初から居なかった?
あれが幻だったというの? ささやかれた時、息づかいまで聞こえたというのに。
「顔が真っ青だぞ。大丈夫か?」
いや。姉がここに来るはずが無かった。さすがの彼女も、不法侵入はできないはずだ。多分だけど。
一日の疲れと、先生との対局の緊張感とが相まって、彼女の幻影でも見たのだろうか。おかげで、せっかくのやる気が削がれてしまった。指先が小刻みに震えている。
だけど、もし。あれが、幻ではなかったのだとしたら──。
「おい! しっかりしろ!」
「……先生」
肩を揺さぶられ、ハッと我に返る。先生は、心配そうにのぞき込んで来た。
顔が近い。彼の吐息が頬をなで、私は視線をそらした。大丈夫です、と小さな声でつぶやく。
「俺が居ない間に何かあったのか? 一瞬だが、妙な気配を感じたぞ」
「え?」
「心配しなくていい。俺が、君を護るから」
大きな掌(てのひら)が、私の頭をなでる。
驚いて顔を上げると、彼は柔らかな微笑みを浮かべていた。
この人は、一体何者なの?
胸中に浮かんだ疑問は、彼が机に置いた物を目にした瞬間に吹き飛んでしまった。
折り畳み式の将棋盤が広げられている。
それは手垢にまみれ、お世辞にも綺麗な状態ではなかったけど。私には、夢と希望の詰まった宝物に見えた。
「悪い。消毒はしたんだが、完全には汚れは落ちなかった」
苦笑しながら、先生は私の前の席に腰を下ろす。
机を挟み、二人して見つめ合う──将棋盤を。
「いえ。とても素敵です」
素直な感想をもらすと、彼はけげんそうな表情を浮かべた後で、くすりと笑みをこぼした。
蓋を取った駒箱を、盤上に反転させて置く。そっと箱を退けた途端、駒達がワッと躍り出て来た。
その中から歩の駒を一つつかみ取り、親指の腹で表面をなでてみる。木の感触がしっとりと肌に馴染むのは、使い込まれた駒ならではだろう。脂(あぶら)と一緒に、指して来た人達の想いを吸い取って来たんだ。
「面白い子だな」
私の様子を見て、彼は笑う。嫌味の無い、秋風のように素朴で爽やかな笑顔だった。
並べながら、駒を観察する。よく見ると、似ているが駒達には一つ一つ個性があった。創られた時に既に違いはあったのか、それとも使い込まれていく内に生まれたのか。あるいは、その両方か。
人間と同じだなと気づき、思わず笑ってしまった。王様が私と先生。互いに取り合い、先に取られた方の負け。
彼に取られるなら、悪くないと思った。
「鬼籠野。駒の並べ方には決まりがある」
ルールという程のものではないが、と先生は切り出した。
「対局者の心構えのようなものだ。覚えておいて損は無いと思うぞ」
そう言って、彼もまた駒を並べ始める。最初に王様を置き、次に左右に金を配置し、更にその隣に銀を──大橋流という名前だと、彼は教えてくれた。
「ああ……」
ため息をつく。
綺麗だと思った。ただマス目に沿って置かれただけじゃない。整然と規則正しく配置された駒達は、まるで宝石のようにまばゆく光り輝いて見えた。
デタラメな順番で置いていた自分が恥ずかしくなり、一旦盤上の自駒を全て回収する。
それから改めて、教えられた通りに並べ直した。
「お、完璧な手順だな。一度見ただけで覚えるとは、大したもんだ」
「先生が、教えてくれたから」
そう言って先生はほめてくれたけど、彼の陣地と比べて見劣りするのは何故だろう。経験値の差だろうか。それとも、将棋に対する情熱の差だろうか。
形だけ整えても駄目なんだろうと思う。私には、心が足りていないんだ。
そう言えば、と思い出す。姉さんの並べ方は、適当だった。乱雑で、マス目からはみ出しそうになりながらも。それでも彼女の駒達は、紅炎をまとって輝いていた。
私には無いモノを、姉さんや先生は持っている。真剣に将棋を指せば、いつかは手に入れられるのだろうか?
それとも一生、このまま変わらないのか。
「気負う必要は無い。強い人達だって、最初はみんな初心者だったんだ。気楽に指そう。まずは、この一局を楽しむことだけ考えよう」
ネガティブ思考に陥りかけていた私を救ってくれたのは、やはり先生の一言だった。
この一局を、楽しむ。私にできるだろうかと思って、かぶりを振った。できると、信じるんだ。
並べ終わると、先生は駒落ちを提案して来た。私が初心者だからと平手で手を抜くよりは、駒落ちで本気で指す方がお互いのためになる、とのことだった。
それはそうかもしれないとうなずく。
せっかく綺麗に並べられた先生の駒達が、その数を減らしていく。もったいないと思ったけど、私が弱いのが悪いと思い直す。
最終的に彼の陣地に残ったのは、王様と金銀、そして横一列に並んだ歩だけだった。六枚落ち、というらしい。
見える形でハンデを示された。これ程までに力の差があるのかと驚く。
「大丈夫。君は若い。すぐに追いつくさ」
私の様子を見て、先生は気づかうようにそう言ってくれた。
だったら、良いな。
「よろしくお願いします」
先生が深々と頭を下げたのを見て、私も慌てて真似をする。緊張のせいか、ちょっと噛んでしまった。
駒落ちは駒を落とした方が先手となるらしい。彼は左の銀を上げて来る。
私の手番。震える手先で、飛車先の歩を突いた。彼は金を上げて受ける。
「遠慮は要らない。来い」
私を安心させるようにそう言って、彼は微笑を浮かべた。来い、って。攻めて来いってこと? え、守らなくて良いの?
そう言えば、とまた思い出す。姉もガンガン攻めて行って、ガチガチに囲った相手を一方的にボコボコにしてたっけ。
あんな風には、きっとできないだろうけど。お言葉に甘えて、遠慮なく行かせてもらおう。飛車先の歩を、さらに突く。
それに構わず、右側の金も上げる彼。
ならば。歩をぶつける。同歩同飛に、歩を打たれて飛車を後退させる。
持ち駒が、できた……! 歩一枚だけど、それでも嬉しい! だって今まで、一枚も取らせてもらえなかったから。手に入れた歩を、ぎゅっと抱き締める。先生の温もりを、感じた気がした。
この子と私は、偶然にも同じ名前だ。大切にしたいと思った。歩(あゆむ)君、短い間だけど、一緒に頑張ろうね。
先生が楽しげに笑う。面白い子だ、とまた言われた。
「持ち駒は、使わなきゃ意味が無いぞ?」
「先生からもらった駒だから。大事に使いたいの」
「そうか……それは良い心掛けだな」
私の返事に、彼の顔から笑みが消えた。視線を盤上に移し、きゅっと口を結んで。真剣に、次の手を考えてくれているようだった。
ああ、この人は。初心者相手だから、駒落ちだからと言って、一切あなどらないし、手を抜く気も無いんだ。彼の表情からそれを読み取り、胸の奥底が熱くなるのを感じた。嬉しい。
「どんな対局だろうと。誰が相手だろうと」
右の銀を上げ、彼は口を開く。
「絶対に勝つ。常にそう思って指して来た。この一局だって、気持ちは変わらない。
俺に勝つ気で挑んで来い。簡単には、勝たせてやらない。たとえ君が、今まで一度も勝利の喜びを味わったことの無い、初心者だろうとな」
そこまで言った所で、コホンと咳払いをする先生。おかげで、我に返ることができた。つい、聞き入ってしまった。
彼はこの一局を通して、私に色んなことを教えてくれようとしている。それはきっと、将棋に限ったことではないのだろう。
気負い過ぎず、でも勝つ気で指す。
難しいけど、やってみよう。
飛車の次は──盤上を見回し、使えていない駒を探す。そうだ、大駒はもう一枚ある。姉さんとの対局では、交換されるのが怖くてできなかったけど。駒を落としてもらった今回なら、ためらわずにできる。
歩を突き、角道を開放する。
「良い判断だ。飛車角の”にらみ”が厳しい。うかつに動けなくなったな」
言葉通り、それから先生は一切歩を突いて来なかった。自分からは動かず、私が仕掛けるのを待っている。
おかげで私には、陣形を整える余裕ができた。囲いを知らないなりに、気持ちを引き締める。
「攻めの基本は飛車角銀桂。それ以外の駒は、守りに使って良いぞ」
その合間にも、先生は教えてくれた。
攻撃と守備で駒を分けるというのは、今まで考えたことも無かった。ただ姉さんの見よう見まねで指してただけじゃ、そりゃ勝てない訳だ。
飛車と角は自陣から相手陣を広くにらみ、隙あらば成り込もうと試みる。そして隙が生じないようであれば、銀と桂馬を繰り出して牽制する。
何となく、イメージがつかめた気がした。
「ビジョンは浮かんだか?」
「……ぼんやりと、ですが」
「上出来だ」
そう答えてニヤリと笑う彼は、先生というよりも年の離れたお兄さんといった感じで。妙に親近感を覚えてしまい、私も釣られて笑ってしまった。
攻める。銀を突撃隊長にして、桂馬に援護射撃させる。大駒の通る道を、こじ開けていく。
「面白くなって来やがった」
私の攻めは通っている。先に馬を作り、次に飛車を成り込む作戦だ。残念ながら桂馬と銀は取られてしまったけど、どう考えてもこちらが優勢なはずだ。
それなのに、彼は笑みを絶やさない。むしろ、闘志がゴウゴウと燃えさかっているように感じた。
この人。劣勢を、楽しんでいる?
「勝ちますよ、私」
少しはくやしがって欲しくて、思わず口走った言葉は、まるで勝利宣言のようだった。言ってしまった後で、あわてて手で口を押さえる。
何を自慢げに言ってるんだ私は。駒を落としてもらったんだから、勝って当たり前じゃないか。
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