第十一章・棋は鬼よりも奇なりて

(1)縫いぐるみ / 先生

 ポンと投げ付けられたのは、熊の縫いぐるみだった。

 目玉をくり貫かれ、腹を裂かれ、綿を引きずり出されたその子は、小さい頃に両親からプレゼントされた物。

 寝る時はいつも一緒。親離れできたのは、その子のおかげだった。

 もう要らないでしょ? ぎらつく視線が問い掛けて来る。

 私が居るから、と。


 ……嫌な夢を見た。

 頬を冷たい汗が一筋、流れ落ちる。

 あれが縫いぐるみでなく、本物の動物や人間だったならと思うと、ぞっとする。夢のはず、なのに。

 布団の中には、私の他にもう一人居た。

 ああ、夢であれば良かったのに。

 あの子の代わりに、私と一緒に寝ているのは。血の繋がった、私の所有者だった。


 あなたは、お姉ちゃんのモノなの。

 お姉ちゃんがあなたのことを好きにして良いのよ。

 絶対に逆らっては駄目。お姉ちゃんの言うことを聞きなさい。言うこと、だけを。


 幼い頃から、そう教えられて来た。

 だから、当然のように受け入れていた。

 姉に従属する日々。ご機嫌を取っていれば、姉は優しかった。

 姉の怒る姿は見たくなかった。誰かが傷つき、何かが壊される。不思議と、私に手を上げることは無かったけど。それでも、胸が苦しかった。

 周りの人間のことなど意に介さず、父や母さえも見下し。彼女は、わがままの限りを尽くして育った。

 人の形をした超人は、いつしか『鬼』と怖れられるようになっていた。


 単純に、人並み以上の力があるだけじゃない。

 あの爛々(らんらん)と輝く紅い瞳が、人々に逆らう気力を喪失させるのだ。

 彼女はまた非常に頭が良く、数多の才能に恵まれていた。特に優れていたのが、将棋だ。

 誰も敵わなかった。有段者の大人さえも。

 姉の凄まじさは、傍目で観ていた私にも十分過ぎる程理解できた。


 そう、だから。

 姉を怖れ、怯えながらも。心のどこかでは尊敬し、慕っていたのだ。

 逆鱗に触れる度に何か大切な物を奪われ、精神を傷付けられても。それでも、姉から離れたくはなかった。

 一生彼女に付き従う。姉のために生きる。本気でそう信じていた。疑う気持ちは微塵も無かった。


 ──あの時までは。



「鬼籠野。君は、それで良いのか?」


 ある日の放課後。担任の先生が、帰宅しようとしていた私を呼び止めた。いつになく真剣な眼差しを向けられ、私は言葉に詰まる。


「何の……話でしょうか……?」

「俺は、君が羽ばたく姿を見たい。君がどこまで伸びるか、この目で確認したいと思っている」


 その一言で、合点が入った。進路の話だ。

 どうやら、私の志望校がお気に召さなかったらしい。

 もっと上を目指せるはずだと、彼は諭して来るが。そう言われた所で、私にはどうしようもない。決めたのは、姉さんなのだから。同じ高校に入るよう命じられ、はいと即答した結果に過ぎない。

 返事に困ってしまった。


 まだ若く、情熱的な先生だ。正直に言えば、姉との衝突は必至だろう。彼に傷付いて欲しくはなかった。

 思考を悟られまいと、視線を床へと落とし。


「……自信がありません」


 ようやく、それだけを口に出した。

 ため息が聞こえる。諦めてくれたかと思った次の瞬間、両肩を力強い手で掴まれた。

 痛みに、思わず顔を上げると。

 彼の鋭い視線に、全身を射抜かれた。


「自信が無いなら、俺が創る。なあ、一緒に頑張らないか?」

「でも」

「ずっと気になっていた。君の周りには常に、暗い影がつきまとっている。このままじゃ、君はきっと駄目になると思う。変わるなら、今だ」


 困った。見抜かれている。

 彼の善意が怖かった。下手に突き放したら、何をするかわからない。お互いにとって、不幸な結末だけは避けたかった。

 仕方ない、一旦は受け入れよう。悩んだ挙句に、私はうなずきを返した。

 とたんに、男性教師の表情は明るくなる。私の気持ちなどお構いなしに、彼はこれからのことについて、熱く語り始めた。


 何も変わるものか、と心の奥底では思いながらも。微笑を浮かべ、彼の熱弁に相づちを打つ。

 夕日が教室を朱く染めた。ここには、私達二人しか居ない。彼と私、教師と生徒。男とおん──な、じゃないけれど。

 ふと、以前観た学園モノドラマの一場面を思い出し、ドキッとした。

 私ったら、何を想像してるんだ。


「学業も大事だが、君がやりたいことをやれば良いと思う。俺は君の可能性を応援したい」


 ああ、またそんな青春ドラマみたいな台詞を。この人は言ってて恥ずかしくないのだろうか。聞いてるだけで、こっちは顔が熱くなって来るのに。

 私のことなど、何も知らないくせに。やりたいことなんて、何も──。


 その時頭に浮かんだ光景は、姉が将棋の大会で大人を打ち負かした時のものだった。

 ばちん!

 駒音高く、力強く。姉の指し手は刃のように鋭く、相手に一切の反撃を許さなかった。圧倒的な腕力で、強引にねじ伏せてしまう。

 うなだれる敗者に構わず、姉はこちらに向かってニッと笑った。

 最高に、格好良かった!


「……やりたい」


 思わず、つぶやいていた。すかさず先生が「何を?」と尋ねて来る。

 私は彼の目を見つめた。


「将棋を、やりたいです」

「お、おお……! いいんじゃないか?」


 私の反応に、彼は少し驚いた顔を見せたが。すぐに、満面の笑顔へと変わった。


「将棋は、論理的思考を養うのにうってつけだ!」


 学業の役に立つ上に、他者とのコミュニケーションを図る上でも極めて有効なツールだと、彼は興奮気味に続ける。


「そうと決まれば、早速将棋部に入ろう!」

「えっと。でも私、初心者なので。皆さんにご迷惑をお掛けするんじゃないかと」

「大丈夫だって! 最初は皆初心者なんだから!」

「でも──」


 渋る私を見て、先生は「ならば」と人差し指を立てた。指先を、自分の方へと向けて。


「俺と指してみるか?」

「えっ?」

「嫌か? 将棋は、それなりに嗜(たしな)んだ経験があるんだが」


 嫌じゃない。知らない人と指すより、ずっと良い。ありがたい提案だった。

 だけど、どうしてか。少しだけ、恥ずかしく感じる。

 先生は担任として、親身になって私の進路を考えてくれているだけ。それだけのはずなのに、妙に意識してしまっている私が居た。


「仕方ない。じゃあ別の相手を──」

「嫌じゃない、です」


 先生以外は嫌だ。彼の言葉を遮り、私は何とか自分の意思を告げた。


「……本当に俺で良いのか? 無理はするなよ?」

「先生が、いいの」


 そう答えた声は、少し震えていた。緊張しているのか、私は。ただ、将棋を指すだけなのに。

 私の心情をくみ取ってくれたのか、先生は「わかった。なるべく優しくする」と告げて、将棋盤を取りに行った。行き先は多分、将棋部の部室だろう。

 胸を押さえる。どうしてか、心臓の鼓動が速い。


 将棋は、初めて指す訳じゃない。姉のひま潰しに付き合って何度か指し、一方的に蹂躪(じゅうりん)された記憶がある──嫌な思い出しか無かった。

 それなのに、何故今になって指したいと思ったのだろう。自分でも不思議だった。先生に説得されたからか、あるいは姉さんに憧れたからか。

 わからない、けど。ドキドキする。


 自分の席に座る。使い古した木製の椅子が、私の体重にぎしりと悲鳴を上げる。決して座り心地の良いものではなかったけど、地に足が着いた感じがして、少しだけホッとした。

机の上で両手を重ね、先生の帰りを独り待つ。

 鎮まれ、私の心。大丈夫、ただ将棋を指すだけだ。相手は担任の先生なんだし、きっと大丈夫。


「何をしているの?」


 その時突然、静かな教室に声が響いた。彼のものじゃない、それは若い女性の声だった。虚を突かれ、心臓がドキッと跳ね上がる。

 声に、聞き覚えがあったからだ。

 ど……どうして、ここに?


「答えて、あゆむ」


 質問じゃない、これは尋問であり、命令だ。早く答えなければと焦るも、上手く言葉が出て来ない。


「ごめ……なさ……」


 途切れ途切れに、何とか言葉を紡ごうとする。謝罪する必要など無いはずなのに。

 とにかく、一刻も早く許して欲しかった。


「何故謝るの? 私は怒っていない。あんたが居残りしてるのが不思議で、訊いているだけ」


 抑揚の無い声で、彼女はそう告げた。

 馬鹿だ、私は。自ら墓穴を掘っている。

 振り返る勇気が無かった。あの眼で見つめられたら最後、きっと私は、もう二度と立ち上がれなくなってしまう。

 ズタズタに裂かれた縫いぐるみを思い出し、視線を下に落とす。

 どうしよう。このままじゃ、先生が。


「じゅ……塾までまだ時間があるから、先に宿題を済ませておこうかと」

「そう」


 勉強の邪魔して悪かったわね。

 私の返答に、彼女は短くそう応えた。どうやら、信じてくれたらしい。

 後は、先生が戻るまでに帰ってもらえれば──。

 良かったと、安堵したのも束の間。廊下に響いた靴音に、私は思わず声を上げそうになった。だんだんと、その音は大きくなって来る。


「あら。先生に宿題を教えてもらうの?」


 クスッと、笑い声が聞こえた気がした。

 しまった。先生を見られた。関心を持たれてしまった。


「なかなかいい男じゃない。ねぇ」


 ──食べちゃっても良い?


 今度は、耳元でささやかれた。

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