(23)一押し

 ぱちん。歩を打ち込み、王手をかける。

 雫さんは少し迷ったようだが、結局はその歩を取った。

 ぱちん。もう一度、歩を打つ。

 彼女の手が止まる。私の意図に気づいたようだ。さあどうする? 取るか、取らずに逃げるか。

 ……正直、逃げられた場合の手は十分に読み切れていない。何て綱渡りのような寄せ方。

 でも、きっと悪くはならないだろう。根拠は無いけどそう信じて、彼女の応手を待つ。

 雫さんは顔を上げる。凛とした光を放つ双眸が、私を捉えた。キッと唇を結んだその表情からは、『逃げない』という強い意思を感じた。そうだ、この人はもう逃げない。たとえ敗北しても、私に背中を向けることは無い。

 意を決したように頷き、彼女は歩を取って来る。この後どうなるか理解した上で、自分が正しいと思う道を歩もうとしている。一片の後悔も残すまいと、真正面から受け止めて来る。

 ああ、なんて気高い精神なんだ。一人の将棋指しとして、尊敬に値する。

 ならば私は、全力で応えよう。本命の一撃を、今こそ解き放つ。


 ぱちん。万感の想いを乗せて指したはずのその一手は、思いのほか軽い駒音を立てた。小気味が良いというか、耳の奥までよく響くというか。

 少々あっけない気もしたけど、私らしいとも思えた。あまり深刻に考え過ぎず、気を楽にして指すのが似合っていると、自分でも思うから。


「──詰めろ逃れの、詰めろ。ですか」


 ぽつりと呟き、雫さんはため息をつく。

 そう、これが狙いの手。詰まされる状態を回避しつつ、相手玉に逆に『詰めろ』をかけるという、まさに一発逆転の大技だ。プロ同士の対局ではしばしば見かけるけど、私は一度も成功した試しが無かった。

 指し終えた今頃になって、指先が震え出す。やった。私にもできた……!


 でも、実現できたのは、雫さんが逃げずに歩を取ってくれたおかげだ。ありがとうと、お礼を言いたかったけれど。まだ対局中だと、ぐっと堪える。

 せめて。最高の棋譜を、貴女と。

 ぱちん。迷いを断ち切るようにかぶりを振り、雫さんは懸命に受けて来る。

 ぱちん。寄せ切る。ここを逃しては、もう勝ち目は無い。

 攻める私と、受ける彼女。互いの息が荒くなって来た。棋力の限界を超えろ。その先にこそ、未来が在る。

 後一押し。押し切れれば私の勝ちだ。行け──!


「頑張れ、香織」


 その時。声が、聞こえた気がした。彼は対局中で、応援する余裕など無いはずなのに。

 トクンと、胸が高鳴った。心は、繋がっている。

 一声で十分だった。いつだって私は、その言葉に励まされて来たんだ。どんなに苦しい時だって、彼が居るから乗り越えて来られた。

 大丈夫だよ、しゅーくん。これで押し切れる。

 雫さんの表情が、苦悶に歪む。ごめん、私が不甲斐ないばかりに、余計に辛い思いさせちゃったよね。今すぐに、終わらせるから。


 ぱちん! 先程『詰めろ逃れの詰めろ』をかけた時よりも大きな駒音が、本殿内に響き渡った。

 雫さんは、あっと息を呑む。私は駒から手を離し、膝の上に置いた。前のめりになっていた姿勢を正す。

 ふらふらと虚空をさまよう指先が、次の一手を探している。もう無いのだと頭では理解していても、受け入れられないのだろう。


「……香織さん。貴女は酷い人だ。私の最後の願いさえも、叶えさせてはくれなかった」

「うん。雫さんが本気で向かって来てくれたから、一切手を抜かなかったよ」

「そう。貴女は、全力を出し切ったのですね」


 ふっと、表情が緩む。

 両手を膝の上に揃え、背筋を伸ばし。彼女は、深々と頭を下げた。

 負けました。

 終局を告げる合図は、いつ聞いても一抹の哀しみを帯びている。自分の敗北を口に出して言わないといけないだなんて、残酷なルールだと思う。

 だけど。雫さんの口から発せられた言葉は、清らかな音色となって耳に届いた。

 凄い人だと思う。本当に、一片の悔いも残さず、戦い切ったんだ。


「ありがとうございました」


 対局のお礼と、私の攻めを真正面から受けてくれたお礼を口にする。

 雫さんは肩を竦めた後で、同じ言葉を言ってくれた。疲れたような笑みを浮かべて。

 今はそれで十分だと思う。心の距離は、これから縮めていけば良い。きっと時間はかかるだろうけど。彼女は、同じ未来を歩む仲間なのだから。

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