(22)思い出せ

 突如として視界が閃光に覆われ、思わず瞼(まぶた)を閉じる。

 数瞬後、再び目を開いた時には。とてつもなく巨大な光の渦が、盤上に現れていた。見ているだけで吸い込まれそうになる。棋力も命も、全てを。

 まさか、これが。棋の根源、なのか?

 こんな大それたモノに私は、この一局の行方を託そうとしていたのか……?


 向かい側には、必死の形相で盤面を睨み付ける雫さんの姿が在る。

 彼女は竜ヶ崎流を捨て、睡狐の巫女としてではなく、一人の女性として、一介の将棋指しとして対局に臨んでいる。

 それなのに私は、こんなモノに頼って。自分の頭で考えず、勝とうとしている。


 フェアじゃない。

 こんな勝ち方、私らしくない。


 ごめん。せっかく協力してもらったのに悪いんだけど。私はやっぱり、私自身の力で勝ちたい。


『……やれやれ。面倒くさい人ですね。本当に』


 う。本当にごめんなさい。


『根源を断ち切れば、貴女が勝利する可能性は極々わずか。それでも構わないと?』


 可能性がゼロでないなら充分だよ。もう、諦めたりしないから。

 私の返答に。はああ、と盛大にため息をつかれた気がした。


『貴女なら、そう言うんじゃないかと思ってましたよ』


 ごめんね。命まで懸けてもらったのに。


『元々消える運命だったので問題無いです。それよりも! 一つだけ言わせて下さい。

 貴女、私のために勝とうとしてるでしょ? それはやめて下さい』


 そりゃあ、勝ってくれたら嬉しいですけどね? と彼女は続ける。


『はっきり言って、現時点で私は大満足なのです。短い生涯ながらも、私は自分の好きなように生き、やりたかったことを完遂したつもりです。

 だからね、香織さん。貴女も自分のやりたいようにやったら良いんですよ。

 私に謝る必要なんて無い。頑張って下さい』


 えっ……励まされた? てっきり、呆れられるか罵倒されると覚悟してたのに。


『ちょっと! 私のこと何だと思ってるんですか!? 全く貴女という人は──』


 ご、ごめん。あまりに嬉し過ぎて、思考が追い付かなかった。

 ありがとう。私なりに、精一杯頑張るよ。


『……ふっ。いい表情になったじゃないですか』


 もう、大丈夫ですね。

 じんわりと胸に染み渡るその一言に、先程までの熱量は感じない。彼女の存在が、徐々に希薄になっていく。


『やれやれ。そろそろ限界のようですね』


 来てくれて、本当にありがとう。お別れは寂しいけど。


『どうやら、ずっと誰かさんの中に居たせいで、お節介が伝染(うつ)ってしまったようですねぇ』


 軽口を叩き。ふと思い出したように、『最後にもう一言だけ』と彼女は続ける。


『香織さんは、雫と永久にわかり合うことは無いと思ってるようですが。きっとわかり合えますよ。だって、同じ男性を好きになった女同士じゃないですか。

 ──私達が、そうだったように』


 だから。諦めないで下さい。


 それだけを言い残して、彼女は消えた。

 園瀬香織の中で生まれ、竜ヶ崎雫として生きた女性は最後に。私と雫さんの、和解を望んだのだった。


 わかったよ。そっちの方も、頑張ってみる。


 彼女と共に、光の渦も消える。あれ程悩まされた頭痛も無くなる。どうやら無事に、棋の根源とやらを切り離せたようだ。

 目の前には、何の変哲も無い木製盤が置かれている。

 今までこの81マスの盤上で、どれ程多くのドラマが生まれ、魅了されて来たことか。対局者の数だけ出会いがあり、別れがあった。宜しくお願いします、負けました、ありがとうございました。繰り返されたお決まりの挨拶はその実、一つとして同じものではなかったと回想する。

 泣いても笑っても、これが最後。もうすぐ決着がつく。

 悔いの無い、私らしい将棋を指す。

 明鏡止水は、残念ながらもう時間切れ。頼れるものは己自身のみ。何とも頼りない棋力だけど、踏ん張れ私。

 詰めろを掛けられ、最大のピンチを迎えた局面。恐らく雫さんは、勝利を確信しているだろう。そこにこそ、千載一遇の勝機があるはずだ。


 とにかく考えるんだ。

 将棋を初めて指したあの日から今日に至るまで、経験した全てのことを思い出せ。

 ──ああ、本当に色んなことがあったな。走馬灯のように、次々と思い出が頭をよぎる。その大半は、しゅーくんとの練習対局だったけど。

 キスされたり、お姫様抱っこされたこともあった。うん、今でも恥ずかしい。

 あゆむ君には、道場で厳しく指導されたっけ。あまりのスパルタっぷりに泣きそうになったこともあったけど、その度に大森さんに癒やされた。四間飛車を懇切丁寧に教えてくれたのも、大森さんだ。

 大会前には、夢の中で竜神と猛特訓したなあ。何度投了しても許してくれなかったから、勝つまで頑張った。

 夢の出来事ではあったけど。おかげで少しは、粘り強くなれた気がする。

 大会一回戦で当たった安藤さんには、対局をとことん楽しむことを教わった。負けることすら楽しめなくちゃ、将棋は強くなれないよね。

 二回戦では、今度は長考の沼に沈む苦しさを教えられた。伶架さんは本当に強くて、一度は諦めかけたものだ。

 苦しみ抜いた先に、見えて来た世界が在った。盤のより深くを掘り下げ、宝探しのように隠れた真実を見つけ出すことで、何とか勝つことができた。

 あの時程、詰将棋をやってて良かったと思ったことは無い。みつかさん、ありがとう。

 そして、準決勝。漆黒の少女は、偽りの仮面を被って挑んで来た。

 どんな手を使ってでも勝とうとする、勝利への凄まじい執念の前に。私は、投了寸前まで追い詰められた。

 あの時、将棋盤の底でお義母さんに出遭えていなかったなら、きっと今ここに座っていなかった。師匠には、沢山のことを教わった。

 後日、改めてお礼を言いに行こうと思う。仲良くできると良いな。

 後一歩の所で力尽き、残念ながら負けてしまったけど。私にとって、得るものの多い一局だったと思う。

 また将棋は、指すのはもちろん、観ることも棋力向上に繋がる。今回大会に出場した人達の対局は皆素晴らしく、私の心に強い印象を残した。

 袖の人、天金さん。香澄さん、彩ちゃん。照民さん、ショウさん、穴熊さん。

 それに、ロウ、ムー、トンシさんも。皆さん。本当に、お世話になりました。

 でも、やっぱり。こうして振り返ってみると、しゅーくんとの対局が一番楽しかったな。ドキドキしたし、ちょっぴり恥ずかしかったけど。

 愛の将棋、か。大会が終わったら、また彼と指したいな。


 終わったら──そうだね。終わらせよう。


 深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 見つけられた気がする。指すべき一手。考えに考え抜いた先に、希望は花を咲かせていた。

 視線を盤から雫さんへと移す。彼女は神妙な面持ちで、静かにその時を待っているようだった。勝負の行方が決する、その瞬間を。


 お待たせ。

 それじゃあいくよ、雫さん。

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