(21)女として
──ぷつんと、糸が切れた。
それまで感じていたものが、唐突に失われる。後には、どこまでも続く暗闇だけが広がる。
何も見えなくなった。彼女の視線を通して視ていたものが無くなる。つまり、彼女は居なくなったのだ。一方的に頼んで、逝ってしまった。
最後まであの人らしかったな、と思わず苦笑する。
遺された方としては感傷に浸りたい気分だけど、残念ながらそんな暇は無い。対局は続いている。明鏡止水・極を発動させた今、体力の限界も近い。
早急に、決着を。
あの人が経験して来た全てのことを知った。細部に至るまで、何を考え、何を行動したのか理解した。どう生きたのか、私に何を望んでいるのかも。
顔を上げる。盤を挟んで、雫さんが静かに佇んでいた。双眸に涙を湛(たた)えて。
そうか。雫さんもまた、あの人と繋がっていたんだ。
「……貴女は、園瀬香織さんですね?」
「うん」
絞り出すような声で尋ねて来る彼女に、こくんと頷き。
「宜しくお願いします」
ぱちん。直感で、これと思う手を指した。
盤面を見てはいたけど、途中まで指していたのはあの人で、私は引き継いだに過ぎない。 耀龍四間もとい伏竜四間飛車?なんて指すのも初めてだし、正直感覚がよくわからない。
それでも。あの人が文字通り命懸けでここまで繋いでくれたことに感謝し、望みを叶えてあげたいと思う。
この一局に、勝つ。
「私が、間違えたっていうの……?」
盤を見つめ、雫さんは呆然と呟く。彼女の問い掛けに、私は答える術を持たない。彼女の愛した彼を奪った張本人に、口出しする権利は無いと思う。私だって、逆の立場ならどうなっていたかわからない。
雫さんが『間違えて』くれなかったら、きっと彼と結婚できていなかった。
私を見た時の、ほのかちゃんの怯えた様子を思い出す。あの子にとって私はまさしく、自身の存在を脅かす『可能性』だったのだろう。
私と雫さんは表裏一体。ありえたかも知れない未来を踏みにじった結果、私はしゅーくんと結婚できた。憎まれてもしょうが無い。きっと私達は、一生分かり合うことはできない。
私にできることは、唯一つ。彼女と対面し、最後まで将棋を指すことだけだ。
「……私も、幸せになりたかった。修司さんと結ばれたかった」
瘴気が消える。雫さんはそっと、四十禍津日から手を離した。
「でももうそれは叶わない。諦めるしかない。ならば、せめて」
一人の女として、貴女に勝ちたい。
雫さんは、静かな口調で宣戦布告した。
ぱちん! 打ち込まれた一手からは、今までのような対局相手を惑わそうという意思を感じない。あるのは、ただ私に勝ちたいという、狂おしいまでの渇望。純粋に、貪欲に、私の玉を追い詰めて来る。
──この人。土壇場で、更に強くなってる!? 最短手数で、寄せ切る気だ!
これは……勝負の行方は、まだわからない。明鏡止水・極を発動させたことで、竜ヶ崎の将棋を破れると思っていたけど。
相手が竜ヶ崎流を捨てて来たのなら! 盤上には、当初の読みとは全く異なる局面が出現する。将棋は、最後までどちらが勝つかわからない。
ズキンと頭が痛む。明鏡止水の反動? そんな、早過ぎる!
香澄さんからもらった薬は苦かったけど事前に服用したし、永遠ちゃんとの対局時はもう少し長く持続できていた。まだ数手しか指していないのに、もう時間切れとは。いくら何でも早過ぎる。
何かが、違う。この明鏡止水は一体……?
考える余裕は、無い。時間が無いのなら、ずっと直感で指し続けるしかない。
ぱちん、ぱちん。双方時間を置かず、リズミカルに駒音が奏でられる。
雫さんは鬼気迫る表情で、怒涛の攻めを展開して来た。これが本来の彼女の将棋なのか。何て攻めっ気たっぷりなんだ。
かたや私は、現状受けるので精一杯。どこかで攻め込みたい所だけど、なかなかタイミングが難しい。早く決着をつけたいのに。
沼に沈みそうになっている。
盤面の隅々まで透き通って見渡せる状態のはずなのに、一向に最善手が見出せない。局面が進むにつれ、徐々に形勢が悪くなっていると自覚する。
このままじゃ負ける。何とかしなくちゃ──。
ドクンと、心臓が跳ねた。
「くっ……!?」
思わず胸を押さえる。ヤバい、血液が沸騰しそう。
動悸が激しい。息が苦しい。負けるどころか、このままじゃ私……死ぬ?
ぱちん。そんな状態にもかかわらず、指先は駒を打ち下ろしていた。私の意思などお構いなしに、身体は対局の続行を望んでいるらしい。
そりゃ私だって、最後まで指したいと思っているよ。でももう限界なんだ。死ぬくらいなら──。
……諦めた方が、マシだって?
その時。声が、聴こえた気がした。
鼓膜を通してではなく。胸の奥底からじんわりと、温泉のように湧き上がって来る。
熱い。血液が沸騰したと勘違いする程に、熱量を伴っている。その声、忘れられるはずが無い。
彼女が観ているのなら。簡単に諦める訳にはいかない。
ぱちん。見てなさい。
ぱちん。たとえ、この命を懸けてでも。
ぱちん。絶対に、途中で投げ出したりはしないから!
一手指す度に、頭痛は酷くなっていく。なけなしの棋力と一緒に、生命力を消耗しているのだと気づく。
どうやら私は、明鏡止水・極とは異なるモノを、この身に降ろしてしまっているらしい。
棋の根源だ、と内なる声が教えてくれた。
恐らくは体内にわずかに残った、四十禍津日の残滓(ざんし)の影響。根源と言っても、ほんの少し、欠片程度のものらしいけど。
そんなものでも、人一人の命を奪うには十分過ぎる脅威。力を制御できず、振り回されている状態だ。かろうじて、対局を続行できてはいるけども。
『それは人の手に余る存在(モノ)。貴女一人の力では、到底制御不可能でしょう。そう、一人なら、ね』
駒を掴んだ指先に、そっと手が添えられる。
目には見えないけど。そこには確かに、あの人が居た。消えてしまったはずの、もう一人の雫さんが。
そうだ。私一人では無理でも、彼女と一緒ならば、もしかしたら。
ぱちん! 直感で指す。指した後で、ようやく思考が追い付いて来る。今の一手は、攻防の絶妙手だ。
制御できた、気がする。相変わらず頭痛はするけど、頭が割れる程じゃない。これならばまだ、何とか戦える。
ぱちん! 私の指し手を目の当たりにしても、雫さんは怯まずに踏み込んで来る。彼女もまた覚悟を決めているんだ。相手が根源だろうと、怖れない。
詰むや詰まざるや。少しは盛り返せた気がするけど、形勢はよくわからない。攻めを遅らせてもなお自玉に食らい付いて来る敵駒に、雫さんの執念を感じた。
ばちぃん! 一際甲高い駒音を立てて、ついに私の玉に『詰めろ』がかけられる。何も対応しなければ詰まされてしまう……が。
今だと、内なる声が囁いた。
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