(20)再会と約束

 ぱちん。放った一手は、私自身の意思で指したもの。瘴気の矛先が、香織さんからこちらへと変更される。押し寄せて来る濁流の、あまりの闇の深さに戦慄を覚えた。

 ──怖れるな。全身全霊で向かい打て。

 見知らぬ誰かが、背中を押してくれた。私は一人だけど、独りじゃないと実感した。ありがたい。


 来い。丸ごと食らい尽くしてやる。

 頭に将棋盤を思い描く。瘴気が黒い敵駒となり襲い掛かって来るも、そのことごとくを白い自駒で駆逐する。

 だが。敵の数は、加速度的に増えていく。何という卑怯。食い切れなかったものが自陣に孔(あな)を開け、私を侵食して来る。痛みは無く、ただただゾッとする程冷たかった。


 これが、消えるということなのか。

 徐々に孔は増えていき、やがては冷たいという感覚すらも無くなっていく。後には何も残らず、ぽっかりと空洞が開いていた。

 ……私にはお似合いの最期かもなと自嘲し、乾いた笑みを零した。元より私には、自分が無い。至るべくして至った結末。何を悲しむことがあろうか。


 白の駒が消える。敵駒に包囲される。全てやられてしまった。どうやらここまでのようだと、ぼんやりとした思考で理解する。

 香織さん、時間稼ぎはできましたか? 私は消えます。後は宜しくお願いします。これで負けたら、承知しませんからね?

 王手をかけられる。受け駒は、無い。あ、詰んだと思った。


 視界を閉ざす。負けました、とそっと呟く。

 私という存在が、消える。

 ……悲しくないなんて、やっぱり嘘だ。自分を偽ろうとしたって、無理。ああ、もっと生きたかったな。もっと将棋を指して、恋愛だってして、それから──。

 込み上げて来る想いに、全身が震えた。


 ──光を感じた。

 黒が白に、転換する。


 これは。驚いて瞼(まぶた)を開く。

 私の周囲ぐるりに、無数の白き駒達が配置されていた。まるで王を守護する騎士達さながらだ。

 彼らは、津波のように押し寄せる黒き駒の大軍を、物ともせずに蹴散らしていく。正に一騎当千。数の差など、意に介さない。

 まだ……まだ終わっていない、のか? でも、一体どうして?


「貴女を、独りでは逝かせません」


 私の正面を護る駒が微笑む。

 人の姿に変わった彼女は、懐かしい笑顔で振り向いてくれた。


「お久し振りです、雫様。いえ──お母さん」


 巫女装束の背中は大きく開き。そこから生えた銀色の翼が、力強い煌めきを放つ。

 手にした錫杖が黒き駒達を薙ぎ払い、塵に還した。


 どうして、ここに?

 胸に浮かんだ疑問は、双翼を目にしてすぐに溶け消えた。そうだ、この子は伏竜の巫女。香織さんの中に眠る伏竜と、繋がっているのだ。だから私の記憶の中にも現れたのだと、今更ながら理解する。

 あれ程高濃度に満ちていた瘴気が、瞬く間に霧散する。やっぱりこの子、強いなあ。


「私は、竜ヶ崎雫じゃないよ」

「知ってます。でも、私にとって貴女はかけがえの無いヒトです。貴女に出逢えて、私はやり直せると思えましたから」


 そう答えて、少女──園瀬仄華は微笑んだ。彼女の中の花が開いたのだと悟る。心の花が。

 この子は、未来からやって来た。母親の笑顔を取り戻すために。

 棋は人生そのものであり、ついには時空をも超越する。対局を通して、私達は繋がった。彼女は私のことを実の母親のように慕い、私は彼女を──いつしか、愛するようになっていた。

 あの日。竜ヶ崎流耀龍四間飛車が完成したあの時。ほのかは『大丈夫』と言った。あれは、自分自身に対する言葉でもあったのだ。

 私の膝の上で、光の粒子となって消えた最後の笑顔が忘れられない。

 きっと大丈夫。そう言い残して、ほのかは消えた。未来へと。彼女が本来居るべき世界へと、戻ったはずだった。


「わざわざ助けに戻るなんて、とんだお人好しね。親の顔を見てみたいわ」

「うん。私は最期まで一緒に居るよ。お母さん」


 この子も私と同じ。この世界には、長くは居られない。雫と修司さんが結ばれる世界線は、ここには存在しないのだ。だから、一度は消滅した。

 それなのに、彼女は戻って来た。私のために。寂しがりやの私に、もう一度笑顔をプレゼントするために。きっと、相当無理をしたのだろう。


「嬉しい。ありがとう、ほのか」


 闇が晴れていく。幾筋もの黄金の光が空を覆い、七色の輝きに包まれる。なんて温かい光。まるで太陽のような。

 ああ。間に合ったんだ。無事に発動したんだ、明鏡止水・極が。

 やったね香織さん。これでもう、大丈夫。


 もう、思い残すことは無い。

 ──ううん。本当は一つだけあるけど、叶わない夢だ。


「お母さん。ほら、見て」


 ほのかが指差す。白い駒達が、各々人の形を取り始めていた。誰もが知っているようで、知らない顔。もしかしたら、未来の雫が出会った人達なのかもしれない。

 その中に一際、背の高い男性が居た。少し年を取っているけど、見間違うはずが無い。あの人が、私に向かって微笑んでいる。


 ありえたかもしれない未来。失ってしまっていた可能性。

 そこには確かにそれが在って、私を優しく迎えてくれた。

 竜ヶ崎雫。やっぱり、あんたの人生も捨てたもんじゃなかったじゃないか。


「おいで」


 誘(いざな)われるまま、彼の胸の中に飛び込む。涙がとめどなく流れ落ち、せっかくのイケメンを堪能できなかった。

 頭を撫でられる。ごめんな、と囁く言葉と共に。


「お前との約束、守れなくてごめんな。すっかり忘れてしまってたんだ。本当なら、再会してすぐに思い出すべきだったのに。駄目な男で、ごめん」


 彼は何度も謝る。私はかぶりを振って、泣きながら彼の胸に顔を埋めた。

 どうしよう。夢、叶っちゃった。


「俺のお嫁さんになってくれないか?」


 約束の言葉が、彼の口から紡がれる。ああ、こんなことって。涙を拭う。精一杯笑って答える。


「……はい!」


 光に包まれていく。彼もまた、この世界には留まれない。ほんの一時だけど、夢を見られて良かった。

 私達に寄り添って来るほのかも一緒に。光に、還る。


 こんな消え方なら、悪くない。

 家族水入らずで過ごす時間は短かったけど。濃密で、極上の思い出が残った。

 我が人生に、一片の悔い無し。

 ほのか。あんたは未来で、お母さんと仲良くしなさい。面倒臭い奴だけど、きっと分かり合えるよ。

 修司さん。ほのかを宜しくお願いします。

 そして、香織さん。雫を、頼みます。

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