(19)生きている
『もしかして、今がその時なの?』
身体の奥底から、香織さんが問い掛けて来る。
はい、その通りです。頷く代わりに、胸に手を当てて応えた。
圧倒的な力の前に、震え上がりながらも。自然と口角が上がってしまうのは、何故なのだろう。
思惑通りの展開に持ち込めたからか。それとも、別の理由が?
『将棋を指すのってさ。怖い時もあるけど、楽しいよね』
ふっ。今なら理解できなくもないですよ、その気持ち。全身の血が、燃えるように滾(たぎ)る感覚。曇りガラスのようにぼやけていた視界が、徐々に透明度を増していく感じ。一方で、先の読めない局面に、スリルと興奮を覚える。
こういうのひっくるめて。一言で言えば、楽しいのかもしれませんね。
『ふふ。貴女とも指してみたかったな』
運良く消滅をまぬがれたなら、考えておきます。その時は、飛車と角を落として下さいね?
『何でよ!? 私、5級なんだよ?』
はいはいワロスワロス。棋力詐称も大概にして下さい。
決勝戦に来られた時点で、初段を優に超える実力を身に付けていると思いますよ?
自信を持って下さい、香織さん。貴女はもうただの人妻じゃない。一人の、立派な将棋指しなんですよ。
『……ありがとう、雫さん。あ、仄華さんの方が良かった?』
どちらでもお好きなように。私は誰でもない、貴女の中で生まれた仮初の人格なのですから。
あ。てことは、貴女が私のお母さんてことになりますか?
『ええっ!? そ、そうなのかな? いつの間にこんな大きい娘が……うう、しゅーくんに何て言ったら良いのー』
そこ。冗談ですから真剣に悩まないで下さい、ママ。
そんなことよりも! 相手が本気になった以上、こちらも全力を出し切りましょう!
今こそ『明鏡止水・極』をお願いします!
『う、うん! そうだね!』
「──させない」
そこへ、割り込んで来る声。母娘のトークを邪魔するとは一体何ヤツ? 考えるまでもない。向かいの席に座ってこちらを凝視している、狐の巫女だ。
全知の書を得た彼女には、盤を通して全てが視えている。私と香織さんのヌルいやり取りも、当然筒抜け。プライバシーの侵害で訴えてやろうか。
だけど、盗み聞きされたって問題無い。現在、手番はこちらにある。明鏡止水・極の発動を邪魔することはできないはずだ。なのにさせないって、一体どういうこと?
「預けておいて良かった。私の腕を」
『何で? どうして? 極が使えない』
二人の言葉に、私はハッとする。雫が先程指した駒は、まさか。
がし。盤から伸びた女の手が、私の右手を掴んだ。繋がっている。そうだ私は、深層意識下で雫と繋がることで情報を得、勝ち筋を見出そうとした。
だけどそれは、彼女にとっても同じことだったのだ。腕を伝って、濁流のように瘴気が押し寄せて来る。
白銀の輝きが、闇に沈んだ。
あの時の銀将。そう言えば、取られていたんだった。
ちっ! ここまで来て、まだ妨害工作をするのか!
極の発動を抑制しているのは、十中八九流れ込んで来た瘴気のせい。高濃度の瘴気が、香織さんの心身を汚染しつつあるのだ。
このままではまずい。将棋の勝敗のみならず、健康被害を生じる可能性すらある。
こうなれば──最後の手段だ。
私が全部、取り込んでやる。
瘴気を、喰らう。その後どうなるかはわからないけど、少なくとも香織さんは助かる。極を発動できる。勝機が生まれる。
うん、考えれば考える程、それしか無い気がして来た。
『それは絶対にダメ! 貴女が死んじゃうよ!?』
香織さん、貴女は反対すると思っていました。ありがとう。でも、止めません。
そもそも私、生死の概念自体無いですし。消えるか留まるか、それだけで。今の状態が『生きている!』とは、とても言いがたいです。
それに、他に手段が無いでしょ? このままじゃ、共倒れになるだけですよ。
『う。それは……そうかもしれないけど。勝つために誰かが犠牲になるのは嫌だよ。たとえ貴女が、仮初の存在だったとしても』
それに、と香織さんは続ける。
『私は、貴女が生きていると思う。上手く言えないけど、貴女が私の中でお喋りして、色んなことで悩んだり考えたりしてること全部! 生きているからこそ、できることだと思うから』
本当に、上手く言えてないですね。
『ぐ。ごめん』
けど、心は伝わって来ました。嬉しいです。
そうだ。もう十分だ。
認めてもらえた。生きていて欲しいと言われた。一緒に将棋を指そうと、お願いされた。
その気持ちだけで、胸が一杯になる。これ以上は、無理。決意が揺らいでしまう。消えたくないなんて、ガラにも無く思ってしまうことだろう。
そんなのは私らしくない。だから、ノーセンキューだ。
心を武装する。眼前に迫る悪意に、意識を集中させる。
ありがとう香織さん。でも、これでお別れです。
『ちょっと待って! お願い、早まらないで──』
懇願する声が途切れる。彼女との通信を、強制的に遮断した。ごめん、もうこれ以上は聞きたくない。
さよなら、ママ。ワガママな娘でごめんね。お先に失礼します。
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