(17)たとえ、地に伏してでも

『……え? 今、何て言った?』


 それまで黙って聞いていたのに、いきなり声を上げる香織さん。ちょっと、『胸元』でうるさいですよ。


『いやだって、娘って。え、どういうこと? ほのかちゃん、雫さんの娘さんなの? 一体何歳の時の子供よ!?』


 落ち着いて下さい。私も本人から聞いてびっくりしましたけどね。

 現在の竜ヶ崎雫に、子供は居ません。もちろん、妊娠もしておりません。何しろ、交際相手が居ませんからね。

 ほのかは、確認した限りでは、私の記憶の中でのみ存在しているんです。私は、香織さんの人格と雫の記憶が混ざり合って生まれましたから、その辺りと何か関係があるのでしょうが。

 あの子の母親は雫。そして父親は──言いにくいですが。


『う。その言い方で察しがついちゃった。その先は、あえて言わなくても良いよ』


 そうですね。その方が傷付かずに済むと思います。可能性は零ではなかった、とだけ言っておきますね。

 もしかしたらありえたかも知れない未来。どうやってか、あの子はそこからやって来て。私と、運命的な出逢いを果たした訳なのでした。


『正直、まだよくわかってないんだけど。お母さんを笑顔にしてあげたいって、貴女のことだったんだね』


 ええ。そして目の前に居る、あのやさぐれた竜ヶ崎雫のことでもあるのでしょう。あの子は掬い上げたかったんですよ、絶望の淵に居る母親(しずく)を。

 全くもう。お節介焼きは、誰に似たのやら。


『ふふ。案外、素の雫さんはそうなのかもね』


 うわ、よく笑って居られますね。夫が寝取られたことを、カミングアウトされたようなものなのに。


『や。しゅーくんが私と出逢うよりも前に雫さんと再会していたら、結婚していたかもしれない、って話でしょ? それを浮気とか、寝取られたとかは思わないよ』


 か、寛大過ぎる……! これが勝ち組の余裕って奴ですか? 何か腹立つ。


『んー。準決勝で色々経験してさ。前ほど、しゅーくんに執着しなくても良いかと思えるようになっただけ。もちろん、彼への愛情は変わらないけどね』


 ふむ。執着、ですか。

 香織さん。貴女はほのかの正体を知ってなお、協力して下さいますか?

 私は、ほのかのためにこの一局に勝利したい。単なるエゴです、大儀など糞くらえなのです。

 それでも貴女は、私と一緒に戦ってくれますか? 貴女からすればほのかは、忌むべき可能性の申し子。頭の中から記憶を抹消したいくらいの存在でしょうに。


『もちろんだよ。何か、他人事には思えなくてさ。良い子だしね、ほのかちゃん』


 そりゃあ良い子ですけどよぅ……ええ、可愛い我が子ですよ。厳密に言うと、私とは血の繋がりはありませんが。それでも、私にとっては大切な友達だし、家族とも思ってますから。

 香織さん。貴女のお人好しっぷりが、今は素直に嬉しい。私が消えるまでの、ごく短い間だけですが。改めて、宜しくお願い致します。


『うん! 元々そのつもりだったし。最後まで一緒に頑張ろ! もしかしたら、貴女が消えずに済む方法だってあるかもだし!』


 あー。そちらは正直、望み薄ですがね。考えて下さるだけで十分嬉しいです。

 さて。そろそろ局面が動く頃合いですが。


「園瀬仄華。貴女の名前を聞いてから、胸のざわめきが止まらない」


 本物の雫は、まだ胸を手で押さえていた。

 そのせほのか。あの子の名前、確かに伝えたぞ。

 次は、あの子の将棋を伝える番だ。あんたの娘は強かったよ。存分に味わうが良い。


「この気持ち、まるで恋に落ちたような」

「恋敵に恋しちゃしようがないね。ま、胸が高鳴るのは無理も無いと思うけどさ」


 何しろほのかは、あの園瀬修司さんの娘でもあるのだから。あの子の将棋の端々には、修司さんの影響が見え隠れする。惹かれるのも、無理からぬことと思えた。


 ぱちん。雫の目を覚まさせる一手を放つ。角金両取り。ボヤっとした頭では、これは受けきれないぞ。

 狐面の奥の瞳が、忙(せわ)し気に瞬く。さあ、どうする?


「桂馬を渡せば、こちらからの攻めも通りますが。それでも構わないと?」


 問い掛けて来る雫に、私は頷きを返す。将棋とはそういうものだ。お互いに攻めが通ったなら、早く寄せ切れた方の勝ち。駒よりも、勝機を逃す方が痛い。

 ましてや、相手は竜ヶ崎雫。何の犠牲も無しに勝てる程、甘い相手じゃない。


 それに。あんたには、桂馬を取ることよりも優先する手があるでしょう?

 終盤は、駒よりも速度の方が大事。今仕掛けた桂打ちによる両取りだって、駒得自体が目的ではなく、相手陣を寄せ易い形に乱すことが狙いなんだ。

 私の意図を汲み取ったのか、雫はため息を一つつき。

 歩を、玉頭に打ち込んで来た。


 叩きの歩。取るか逃げるか、いずれにしても陣形を乱される。でも王手だから対応せざるを得ない。ここは取る。

 もう一度歩で叩かれる。攻め易い位置まで吊り上げられる。少し考え、今度は退いた。

 そこで雫は、両取りになりそうだった角を成り込み、香車を取って来た。

 放置はまずい。桂馬で取り返す。

 その後で金がかわされ、両取りは不発に終わった。が、ここまでは概ね読み筋だ。金が退いたことで生じた隙間に、じっと歩を垂らしておく。

 この歩を拠点とし、更なる攻めに繋げる算段だ。


『雫さん。何だか嫌な予感がする』


 ……そうですね。あまりにも上手く行き過ぎている気がして来ました。


「仄華さん。貴女がどうして香織さんの中に居るのか、どうして私がこうも貴女の名前に惹かれるのか、私には皆目見当がつきませんが。唯一つ言えることは、この一局を制するのは、私だということです」


 ギラリと、狐面の奥の瞳が輝きを放つ。

 ちっ。やはり罠だったか。散々攻めさせてからの逆転劇。竜ヶ崎の勝ちパターンに嵌(はま)ってしまったようだ。

 角金両取り自体はもちろん、そこに至るまでの精神的動揺も含めて、全てが罠──だったかどうかまではわからないが。女狐め、己の感情さえも罠に利用してみせるとは。やはり侮れない相手だ。


『一本取られちゃった感じだね。どうする?』


 幸い、すぐに詰む訳ではありません。まずは相手の出方を見ましょう。


 いざとなれば、こちらには明鏡止水・極がある。棋力の消耗が激しいのが玉に瑕(きず)だが、正しく使えばこの上ない力となるだろう。

 香織さん。ギリギリまで粘りますから、合図と同時に発動できるよう、待機願います。


『わかった。けど、そんなタイミングぴったりに発動できるかな?』


 大丈夫ですよ。貴女なら。

 根拠は無くとも、無責任に信じます。貴女はへっぽこですが、芯が強い。一度やると決めたら、必ずやり遂げる精神力の持ち主です。

 だからきっと、大丈夫。


 ま、駄目だったら駄目だったで、どないかしてみせますよ。私だって、伊達にほのかと特訓して来た訳じゃありませんからね。根性入れます。


『ん。わかった。私も頑張るよ』


 宜しくお願いします。

 さて。切り札は最後まで取っておくとして。まずはどうにか、この難局を乗り切らねばですね……。


「──使う暇など、与えません」


 その時。

 まるで、こちらの思考を読んだかのように。

 静かな口調で、竜ヶ崎雫は告げて来た。


「終わらせます、今」


 ばちん。打ち付けられた一手が、こちらの読みを軽々と超えて来る。くそ。宣言通り、手を緩めるつもりは一切無いか。

 だけどな。おかげで、かえって対処し易くなったよ。無秩序に場を乱されるより、明確な殺意を持って指してくれた方が、まだマシだ。読み切れないのに変わりは無いけどさ。

 やっぱこの女、強い。


 悔しいな。あれだけ努力したのに、私の将棋はまだまだ通用しないのか。

 悔しいな。強くなろうとしたって、私にはもう、時間が無い。消滅の予兆は、既に現れている。徐々に狭まっていく視野。鈍り始める指先の感覚。もうじき、将棋を指せなくなるのだろう。

 悔しくとも、受け入れるしか無い。


 偽物には、相応しい最期なのかもしれない。圧倒的なモノホンの力の前には、為す術も無く蹴散らされる運命(さだめ)。

 ああ。せめて華々しく散りたいな。


 ──そう思った矢先。ふと、金色に輝く、秋の野原が瞳に映った。

 遠い日の記憶。幼い彼があどけなく微笑んで、私もつられて笑ってしまった。

 ああ。せめて──。


 ぱちん。自然と、手が動いていた。せめて私は、どうしたいというのだろう? わからない、ただ。

 無意識に指した一手が、雫の攻めを静かに止める。


「無駄なあがきを。抵抗した分、余計に苦しむことになるのですよ?」


 ばちん! 苛立ちをあらわに、彼女は乱暴に駒を打ち付ける。暴風が、盤上を荒れ狂う。

 圧倒的強者の降臨に、私の駒達は木の葉のように吹き散らされる。陣形が並び替えられていく。龍は輝きを失い、地に伏し……そして。千変万化に、姿を変える。

 ぱちん。何事も無かったかのように、無事に。暴風を、やり過ごすことができた。


「な、に?」


 驚きの声を漏らす雫は、酷く滑稽に見えた。


 地力で劣る私は、彼女と真っ向から打ち合っても勝てない。だから、かわした。襲い来る災害から、咄嗟に避難しようと試みた。

 結果、将棋は応えてくれた。新しいカタチに生まれ変わって、私の願いを聞いてくれた。


 伏竜四間飛車。


 輝きを失い、泥に塗れても。

 龍は大地に爪を食い込ませ、からくも踏み留まる。

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