(14)正体

「貴女は、竜ヶ崎雫ではない」


 氷のように冷え切った声が、暗闇の中に響いた。

 我に返って周囲を見回すも、辺りには何も無い。ただ、どこまでも深い闇が広がっているだけ。

 今まで本殿に居たはずなのに。ここは、どこだ?


「将棋盤の底、深層領域。深淵、奈落、好きなように呼ぶと良い」


 はあ、深層領域?

 何を訳の分からないことを……てか、誰の声だ?

 心に浮かんだ疑問に応えるかのように、一層『黒度』を増した闇の中から、一人の女が現出する。

 竜ヶ崎雫──つまり私の姿をした、何者かが。いつもの巫女装束だが、紅白ではなく蒼黒。狐面は被っておらず、青白い顔を私の方に向けている。


 蔑むような凍てつく視線に射抜かれ、背筋が震えた。

 理屈ではなく、直感で理解する。目の前に居るモノは、人の道を踏み外した竜ヶ崎雫の『成れの果て』なのだと。

 ならば、私は……彼女ではないのなら、何だと言うのだろう?


 ──本当は、見当が付いていた。ただ、認めたくなかっただけだ。恐らく、私は──。


「園瀬香織は、永遠との対局時に明鏡止水・極へと到達した」


 私がどうして、香織さんの中に居たのか。


「その後。彼女は棋力を使い果たし、意識を失ったけれど。スイッチを切られなかった明鏡止水は、彼女の意思とは無関係に発動し続けた。現在、ここに至るまで」


 答は簡単。香織さんの中で生まれたからだ。


 私の正体、それは。

 明鏡止水によって竜ヶ崎雫の記憶を追体験し、自身を雫だと錯覚した、園瀬香織の一欠片。

 偽物は、私の方だったのだ。


「明鏡止水が解除されれば、貴女は消滅する。所詮は疑似人格、仮初(かりそめ)の命に過ぎない。貴女は決して、私にはなれない」


 本物の雫は、淡々とそう告げて来る。

 落胆は無かった。やはりそうかと、ストンと納得できた。

 だって私の性格は、イメージしていた雫のものとはあまりに乖離していたから。自分で言うのもなんだけど、いささか天真爛漫が過ぎた。香織さんがベースになっているのなら、妙に甘っちょろい部分も理解できる。

 私はもはや、香織さんでも雫でもなくなっている。

 たとえ仮初でも、私は私だ。他の誰でもない。

巫女頭としては失格、結婚もできない出来損ない。それでも修司さんを一途に愛し続ける、愚かな一人の女なのだ。無様と笑うがいい。


「ねぇ、あんたさあ」


 私の存在が気に食わないのか、こちらに冷徹な眼差しを向けて来る本物さんに問い掛ける。


「生きてて、楽しい?」


 端正な顔立ちが、たちまち怒りに歪んだ。

 私にだけは言われたくなかったのだろう。彼女と同じ記憶を有した、私だけには。


「こちとらもうすぐ消える身だけどさ。結構やりたい放題させてもらったよ、あんたの人生。私は、捨てたもんじゃないと思ったけどな」

「貴女に、何がわかると……!」

「私は楽しかったよ」


 不遇な目に遭い続けて、すっかり負け組根性が板に付いて来たけど。振り返ってみれば、不思議とそう悪くはないと思えた。


「楽しい? どこがですか? 何一つ満たされることの無い人生。生きていても空しいだけ。いっそ死んでしまえば楽になれるのにと、何度思ったことか」

「ふん。ネガティブ人間め」


 私の記憶は彼女の記憶だ。辛いと嘆く気持ちは、痛い程に理解できる。

 だけどさ。いつまでもグズグズ言ってたってしょうがないじゃないか。不幸だから何だっての? お祈りを捧げて神様が救ってくれるのなら、そうしたさ!

 この世界は、最初から終(しま)いまで理不尽の塊なんだよ。私なんて、この後消える運命だよ?


「説教垂れるつもりは無い。あんたの人生だ、自分で決めな。どう生きるか、どう死ぬか」


 あがいたってしょうがない。そんなものだと、受け入れるしかない。諦めろ。ただし悲観的にはなるな。諦めて前向きに生きてみりゃ、少しはマシに見えて来るもんさね。

 背伸びをやめて視界を下げれば、少なくとも足元は見易くなる。


「貴女は、目障りです。そうやって、私に可能性を示さないで下さい」


 雫はため息をつき、私から視線を逸らした。再び闇が、彼女を包み込み始める。姿を覆い隠していく。

 睡狐よ、またそいつを甘やかすのか。いつまで飼い殺しにするつもりだ? 魂が朽ち果てるまでか?

 それは愛情じゃない。ただの過保護だ。


 そっちがその気なら、こっちは『この気』でやらせてもらう。闇の中に右手を突っ込み、雫の腕を引っ掴む。渾身の力を込めてグイと引き寄せれば、酷く驚いた表情を浮かべた彼女の顔が、露(あらわ)になった。


「悪いけど、あんたには最後まで付き合ってもらうよ」

「……貴女、一体」


 再び彼女に、闇がまとわり付く。

 どういうつもり? と訊かれても、特に答は無い。何となく言いたいこと言って居なくなるのが癪に触っただけで、具体的なプランは無かった。

 闇に引き摺り込まれないよう、全力で踏み留まる。雫は「痛いです」ともがくも、聞く耳は持たない。

 さあ、どうするか。いっそこのまま、表層まで引っ張ってくか?


「イヤぁ……!」


 そこまで思考を巡らせた瞬間、一際強い力で抵抗された。

 あっ、と叫ぶ暇も無かった。

 ぶち、と音を立て、掴んでいた彼女の腕が、身体から離れる。まるでトカゲの尻尾切りのように。

 慌てて彼女に向かって飛びつくも、指先は虚空を捉えるばかりで。雫の身体は闇に溶け、消えてしまった。


 ちっ。まんまと逃げられたか。だけど、まあいい。

 肘の先から千切れた腕は、消えずに我が手中に残っている。切断面は炭のように黒色で、鮮血の代わりに霧状の闇が漏れ出していた。


「──繋がった」


 収穫は、ゼロではない。一部だけでも捕まえることができた。それで十分だ。

 後は、盤上で炙(あぶ)り出す。


 彼女の腕は、一瞬光を放った後には駒へと形を変えていた。おお、何ともファンタスティック。私の手に残るは、メタリックに輝く銀将。白馬の王子様とはいかないけれど、目覚めるにはこれで十分だ。

 さあ、いざ行かん表層意識へ。駒を振り上げ、何も無い空間へと打ち付ける。力を入れ過ぎて、指先が痺れた。


 ──ぱちん!


 本殿の灯りを、やけに眩しく感じるのは何故だろう。盤上に打ち付けた銀将が、相手駒を乱暴に弾き飛ばす。マナー違反なのはわかっている。だけど、先に盤外戦術を仕掛けて来たのは向こうの方だ。

 狐面の巫女は、静かにこちらを見つめていた。仮面を被り直し、再び心を閉ざしたか。


 園瀬香織の中で生まれた竜ヶ崎雫の紛い物が、本物の雫と盤を挟んで向かい合っている。二人の間には、圧倒的な棋力差があった。私には、万に一つの勝ち目も無い──本来ならば。


 龍の顎(あぎと)が、敵将の喉元に食らい付く。


 竜ヶ崎の将棋は、既に攻略済だった。

 今こそ見せてやる。あの子との研究成果を。


『雫さん。私も居るよ』


 胸の奥底に声が染み渡る。この身体の本来の持ち主は、異物である私を温かく迎えてくれた。

 でも、香織さん。実は私は、竜ヶ崎雫ではなく──。


『貴女の記憶が、雫さんと同じなら。貴女は、雫さんなんだと思うよ』


 ……本当にもう、この人は。恋敵なのに、憎みきれないじゃないか。

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