(8)君の名前は

「さっきは聞きそびれちゃったけど。貴女の名前、教えてくれないかしら?」


 駒を並べながら、改めて尋ねる。

 彼女の手が止まる。顔を上げ、私の方をまっすぐ見つめて来る。

 あまりに真剣な眼差しを受け、反射的に顔を背けそうになるも、懸命に堪えた。

 何だろう。当たり前の質問をしただけなのに、空気が変わった気がする。


「私の名前は」


 ──ほのか。

 彼女は確かにそう言った。

 聞き覚えの無いはずの名前を。


 だけど何故だ、妙な引っ掛かりを感じるのは。ほのか、彼女に似合った素敵な名前だと思う。何か問題あるか?

 誰か知人に、似た名前の人が居た? いや、多分居ない。

 ざわざわと雑音が聴こえて来る。耳にではなく、脳髄に。


「漢字で書くと、仄華。ほの暗いの『仄』に、中華の『華』です」


 彼女は続ける。

 仄華、か。漢字で書くと印象が変わるなあ。うーん、彼女には少し固い、かも?


「なるほど。ほのぼのの『仄』に、華々しいの『華』ね」

「……! 雫様」

「ほのか。貴女は自分の名前が嫌い?」


 息を呑む彼女に問い掛け。私は先に駒を並べ終わる。

 うん。やっぱり『ほのか』は平仮名が可愛い。


「私は、好きよ」

「ええっ……? ホントですか?」

「うん。私なんて漢字一文字で味気ないもん。やっぱり名前を付けるなら二文字以上よね」

「字数の問題!?」


 狐面を着けていても、彼女の表情がコロコロと変化するのがわかって楽しい。こういうの、今まで無かったもんなあ。まだ友達──ではないのかもしれないけど。


「どうしても気に入らないなら、漢字を変えるとかどう? 例えば、そうねぇ……稲穂の『穂』に、香車の『香』で『穂香』とか」

「あ、それいいですね! 可愛いかも!」


 私の提案に、弾んだ声を上げるほのか。や、一番可愛いのは平仮名だと思うけどね?

 何にせよ、喜んでくれて良かった。さあ、指そう。


「宜しくお願いします」


 対局前の挨拶を交わした頃には、違和感は消えていた。彼女に先手を譲り、どんな戦法でいくか思案する。

 あ、そうだヨガッピを使わないと。もらった巻物を握り締め、念じてみる。棋譜、出ろー。棋譜、出ろー。


 ポンッ! あ、出た! 頭の中に何か閃いた!

 今日の晩御飯は肉じゃがにしよう!


 ……って、夕飯何にするか訊いたんじゃないよぅ!?

 ヨガッピぃ、もしかして写本だから頭悪いのー?

 それともお腹空いてるんだろうか? 巻物のくせに。

 仕方ない。こうなれば自力で指すしかない。


「ほのか、行きます!」


 角道を開けて来る彼女に、私は肉じゃ──同じく角道を開けて対抗する。ああ、何だかお腹空いて来た。


「ねぇ。ほのかは肉じゃが好き?」

「え? ええ、はい。昔、お母さんがよく作ってくれましたから」

「そっか。じゃあ、今夜食べに来ない?」

「えっ……?いいんですか!?」


 彼女の指し手は流麗ではないが、素朴な可愛らしさがあった。型に凝り固まった私とは正反対だ。

 あ、飛車を振って来た。四間飛車か。


 だったら、対抗形の将棋が面白いんじゃない? 私は居飛車のまま迎え撃つ。

 ああ、緊張しない将棋っていいなあ。父とは何度も対局したけど、いつも内心ビクビクしてたもんなあ。


「へぇ。誰に教わったのか知らないけど、なかなかいい手指すじゃない」

「ありがとうございます! 褒めてもらえて嬉しいです!」


 彼女の指先が弾む。ぱちんぱちんとリズミカルに、駒が盤上に打ち込まれていく。

 駒音なら私の方が高く美しく、よく響くけど。こと対局を楽しむことに関しては、彼女の方が上回っているようだった。正直、少し羨ましい。


「お? 必殺の65歩指しちゃう? 後戻りできないよ?」

「このタイミングなら──!」


 いい判断だ。

 ただし、私は既に返し技を用意している。65歩を指すように、局面を誘導しておいたのだ。


 ぱちん!

 勢いよく、65歩の仕掛けが発動する。

 歩兵は前進あるのみ、後ろには下がれない。一度突いたら、最後だ。


「あっ……!?」


 指し終わってから、悲鳴に近い声を上げる彼女。

 ごめん、待ったは無しだ。

 でも、誘導しておいてなんだけど、成立してるのかどうかは正直わからない。やっぱり65歩は優秀な一手で、すぐに振り飛車側が悪くなる訳ではないのだ。


「四間に組んだら65歩を狙えって教えられて来たんですけど」

「その考え方は正しいよ。こちらが異常なだけ」


 戸惑う彼女に、私は肩を竦めて答えた。

 互いに好き勝手指した結果に残るものは、意味不明な棋譜だ。価値は無いに等しいと、私は思う。

 何でそんな手を指したのと、棋理に則って訊かれた所で、指した本人にも答えようが無いのだから。


 とにかく、デタラメな手を指すこと。もし相手が的確に咎めて来たならば、既にこちらの罠に掛かっている。


 ……アホらしいと、自分でも思う。

 けど、小さい頃からそんな将棋を指せと、父から仕込まれて来たんだ。

 おかしいと思うけど、今更変えられない。父に言わせれば、これでも『及第点』らしいが。


 ほのかは戸惑いながらも対局を続行する。ごめんね、わからないよね。

 申し訳なく思いながら、弄(もてあそ)んでいく。

 容赦なく、ランダムに盤上を蹂躪する。彼女の指し手にセンスを感じるからこそ、容易に撹乱できた。


「投了しなさい、ほのか。誘っておいて、こんなこと言うのはおかしいけど。貴女は私と指さない方が良い」


 せめて、彼女だけは。穢したくないと思った。何も竜ヶ崎に染めなくても、大会では活躍できる。


「いいえ。投了はしません」


 私の提案に、彼女はかぶりを振る。

 狐面の奥に隠された瞳が、きらりと光った。


「最後まで諦めずに指せと、教えられて来ましたから」


 ばちん! 力強く駒を打ち込まれる。

 起死回生を図る一手。だが浅い、私の喉元には届かない。まだ、この時点では。

 ──いずれは、到達する。


 なんてまっすぐな将棋、一切の澱(よど)みが無い。

 私の指し手に惑わされながらも、骨子に歪みは生じていない。あくまでも四間飛車で、6筋をぶち抜こうとしている。純粋に、愚直なまでに。竜ヶ崎の将棋が、この子には通用しないのか……?


「ごめんなさい」


 投了を勧めたことを謝罪する。

 この子は、侮れない。


 きっと大丈夫だ、この子は竜ヶ崎の色には染まらない。私のようには、ならない。

 爪先で弾かれ、駒達が躍る。なんとも楽しそうに。

 今は、有段者には棋力で敵わないとしても。この子の将棋には、夢と希望が詰まっている。だから、決して屈しない。

 可能性を垣間見た。私には無いモノを見て、心底羨ましいと思った。

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