(6)及第点

 ──ぱちん。


 ……って、あれ? まだ盤の前に居るよ。夢でも見ているのだろうか。私の指先は、まだ駒を掴んでいる。

 本殿の中。誰かと対局している。


 ぱちん。皺の寄った指先が、盤面をさまよう。老いてなお、勝利への執念は凄まじく、容易には投了してくれない。

 ぱちん。放たれた一手は、油断ならないものだった。迂闊な応手は死を招く、老獪(ろうかい)が為せる妙技だ。

 ぱちん。誰と指しているか、顔を上げなくてもわかる。幾度となく指し、幾度となく敗れた。


 竜ヶ崎の現当主、お館様。

 皆に畏れられ、現人神(あらひとがみ)と崇められる年配の男は、私の父でもある。


 ぱちん。よし、これで寄る。いかな父でも、この攻めは凌ぎ切れまい。勝った……!


 思わず顔を上げると、父と目が合った。いや、視線は私に向いているが、焦点は合っていない。混濁した瞳は、私を見ていない。


「及第点だ」


 無表情で、淡々と父は告げて来る。

 ぞくり。何度となく聞いたその言葉に、戦慄を覚えた。

 及第点? 馬鹿な。これ以上ないくらいの完璧な勝利のはずだ。父が張り巡らせた罠は全て掻い潜り、問答無用で寄せきったはず。それを──及第点、だと?


「お館様。お言葉ですが、この勝負は私の勝ちです」


 思わず反論した私を無視し、お館様は盤上を凝視する。

 両者無言のまま、時が流れる。永遠にも続くかと思われた時間の中、私は逆転の芽が無いか探し続けた。だが、何も見つからない。首筋を冷たい汗が伝い落ちる。

 ここからどうやって負けるのか、私には理解できない。これ程の絶望があるだろうかと自問する。


 ──ぱちん。

 長考の末に放たれた一手。それは、あまりにも不可解なものだった。戦場から遠く離れた場所で、今更自陣に手を入れて来るとは。一手パスされた気分だ。

 ぱちん。何とも潔くない。今、引導を渡してやる。

 ぱちん。引導を……あれ?


「まだわかっておらぬようだな。竜ヶ崎の将棋を」


 及第点と言わず、いっそ落第にしてくれれば、諦めもつくものを。父は静かにそう告げて。

 ぱちんと、また不思議な手を指して来た。一見、攻めにも守りにも利いてなさそうだが。

 先程の一手を思い出す。寄せ切るつもりが寄せられなかった。存分に攻めたつもりが、相手玉を安全圏へと逃がす結果となった。


 竜ヶ崎の将棋。

 それは、対局相手の主張を一切咎めず、相手の勝ちたい気持ちを巧みに利用し、最終的には僅差で勝ったように見せかける、詐欺まがいの将棋。

 相手は、自分が何故負けたのかが理解できない。

 そこには、ただ勝つだけでは飽き足らず、相手の心をへし折り、二度と歯向かえなくする狙いがある。


 しまった。わかっていたつもりが、まんまと術中に嵌(はま)ってしまった。今更後悔してももう遅い。

 勝ちたいどころか、勝ったとさえ思ってしまったのだ。手痛い反撃を、覚悟しなければならない。

 ぱちん、ぱちん。形勢を判別できない状態が数手続き、嫌な予感はますます強くなっていった。

 王手が来ないのが、怖い。


 明確な勝ち筋が、局面を乱されて見えなくなる。こうなると、寄せの手筋や詰将棋も役には立たない。泥仕合だ。ならばと相入玉を試みるも、じわりと自玉が包囲されているのに気づき、断念する。

 先程の、一見攻防に利いていないように見えた一手は、こうなると事前に予測してのものだったか。

 もう、駄目だ。


「……負けました」


 頭を下げる。感想戦は必要無かった。やっても無駄だとわかっていた。父の将棋は、私には到底理解できない。

 竜ヶ崎の将棋は、棋理を捻じ曲げる。真っ当に強くなりたいのなら、かえって足枷となりかねない。


「お疲れ様でした」


 目の前の父ではなく、横から労(ねぎら)いの言葉を掛けられる。

 清涼な秋風のような、心地よさを感じる声だった。

 振り向けば、彼女が居た。私と同じく狐面を被った巫女が、闇に佇んでいた。

 白眉丸の世話係の、名前も知らない少女。出逢ったばかりだというのに、何故か私は彼女に惹かれていた。

 どこかが、誰かに似ている気がした。具体的にどこか、まではわからないが。


 ああそうか、とようやく思い至る。

 緊急招集と言われて彼女と一緒に本殿に入った直後、お館様に対局を命じられたのだった。

 訳がわからないまま一局指してみたが、結果は酷い有様。彼女の前で、醜態を演じてしまった。

 かあ、と顔が熱くなるのを感じ、視線を逸らす。恥ずかしい。穴があったら入りたい。


「雫様」

「巫女頭ともあろう者が、巫女(あなた)の前で惨敗を喫してしまうとは。すみませんでした」


 見つめられるのが辛くて、私はつい謝罪の言葉を口にする──と。


「いいえ、とんでもありません! 凄い将棋でした! 雫様、カッコ良かったです!」


 などと。黄色い声が、鼓膜を叩いて来た。

 え? 格好良かった?

 意外過ぎる反応に、私は唖然として視線を戻す。狐面の奥の瞳が、きらりと輝いたように見えた。


「えっと……どこが?」

「攻めの切れ味が鋭くて、例えるなら真剣を構えた剣士のようでした。お館様の妙手の数々に惑わされること無く、一気果敢に攻め込んで行かれましたよね。私なら、躊躇していたと思います」


 え。私、褒められてる?

 胸の奥が、トクンと跳ねる。


「惨敗だなんて。私の目には惜敗に見えました。残念ながら首の皮一枚残して凌がれてしまいましたが、貴女の刃は確かにお館様に届いていましたよ」


 物は言いようだ。実際には、父の将棋が理解不能とわかっていたから、開き直って攻め潰そうとしてみただけなのだが。

 相手の手を咎めること無く、散々『攻め疲れさせた』後で血祭りに上げるのが竜ヶ崎の将棋。私はそれを逆手に取り、序盤で可能な限り優勢を築くことで、逆転不可能な状態にしようと目論んだ。

 彼女はそのことを知らないから、終始私が押していたと思っているのだろう。その認識は錯覚であり、誤りだ。

 だけどそれでも、嬉しかった。生まれてこの方、ロクに褒められたことの無い私には、彼女の称賛はいささか刺激が強いものの、心地よく胸に響いた。


「ありがとう」


 それだけを口にして、私は視線を下げる。お礼を言うのも気恥ずかしい。敗者にはもったいない賛辞だ。


「及第点だ」


 そこへ重なるは、冷たい父の一言。

 様々な色が混じり合い、混濁した双眸が私達を捉えていた。表情からは、相変わらず何を考えているのかわからないが。

 及第点という言葉の重みを感じる。落第ではないが、決して優れている訳ではない。他に候補が居ないから、仕方なく巫女頭に置いてやっているのだ──暗にそう言われているようなものだ。


「お館様、それはあんまりです! 雫様は一生懸命頑張ったのに──」

「いいの」


 抗議の声を上げかけた少女を制し。父の方へと向き直り、深々と頭を下げる。


「今回もご期待に応えられず、申し訳ありませんでした。一日も早く竜ヶ崎の将棋を修得するよう、尽力致します」

「……そのことで、お前に話がある」


 いつも通りに謝罪して話を切り上げようとした私に、父は珍しく反応を示した。

 さては、緊急招集の件と関係があるな? ついに降格? はたまた勘当か? ごくりと唾を呑む私に、彼は続ける。

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