第十章・みこづましょうぎ

(1)再会した彼は、他の女と結婚していた

 大切な約束を、あの人は忘れてしまった。

 子供の頃に交わしたものだから、仕方ないとは思うけど。

 何も、最悪の形で反故にしなくても。


 思い出すのは、金色に輝く秋の野原。

 無邪気に笑う幼い彼の横顔が、私には眩しく映っていた。

 一緒に遊んだあの日々は、遠い過去の思い出となり果ててしまった。


 ──だけど、私は覚えている。

 忘れられるはずが無かった。

 だって……あんな約束をしたのだから。


 ──大きくなったらお嫁さんにしてくれるって、言ったじゃない──。


 あの日。神社を訪れた、成長した彼を見た時。

 あまりの凛々しさに、心臓が跳ね上がった。王子様が迎えに来てくれたのだと、本気で思った。


 それが、まさか。

 私のことなど、すっかり忘れていた上に。

 既に結婚していて、夫婦仲の修復を神頼みに来ただなんて。

 いくらイケメンでも許さな──いや、許す。イケメンは正義だ。

 彼は全く悪くない。悪いのは、純粋な彼をまんまと誑(たぶら)かして結婚まで漕ぎ着けた、あの女だ。

 許せない女だ。彼の心を弄んだ。


「妻が……俺と居るの、辛そうで。何だか居心地が悪くて、道場に入り浸ってしまいました」


 夫失格ですよね? そう言って寂しそうに笑った彼の横顔は、幼い日の面影を残していた。

 そんなことは無い。ぶんぶんと私は首を振る。

 可哀想。好きな将棋をやってるだけで邪険にされるなんて、あまりに酷過ぎる。


 私だったら寂しい思いなんて絶対にさせない。

 本当に愛しているのなら。将棋をしようが何しようが、心は繋がっているはずだ。

 おのれ、悪女め。見せかけの愛で彼を束縛し、己の独占欲を満たそうというのか。

 悔しい。彼が苦しんでいるのに、私にはどうにもできない。ああ、もっと早く再会できていれば……。


「貴方は素晴らしい旦那さんです。奥様のことを第一に考えてらっしゃる。貴方の想いはいつかきっと、奥様にも届くと思いますよ。私は信じています。

 修司さん。宜しければ、またお話を聞かせて下さいね。私はいつでも、貴方を待っています」

「ありがとう、雫さん。少し気分が晴れました」


 心にも無い言葉を、彼の笑顔のために吐き出す。

 本当は、このまま夫婦仲がこじれて離婚してしまえば良いと思っていた。傷心の彼を慰めている内に、あわよくば私にもチャンスが生まれるかもしれない。そんな下心さえも抱いていた。

 だけど。同時に──彼の悲しむ姿を、見たくないとも思っていた。


 くそう。胸中で吐き捨てる。

 惚れた弱みとはいえ、これじゃあ私が馬鹿みたいだ。

 立ち去って行く彼の背中に手を振りながら。狐面の奥で、独り怒りを滾(たぎ)らせる。

 全部、あいつのせいだ。彼を苦しめ、私を苛立たせる存在。彼の愛を一人占めしている悪女。

 生まれて初めて、明確に他者を憎いと感じた。


「白眉丸」


 一声呼ぶと、一匹の子狐が駆け寄って来た。名前の通り目の上が眉毛のように白く、愛嬌のある顔立ちをしている。

 私の言うことは何でも聞く、素直な良い子だ。


「貴方に特別任務を命じます。園瀬修司さんの周辺をよく観察して下さい。特に園瀬香織の動向には注意して、逐次報告をお願いします」


 よしよしと頭を撫でてやると、子狐は甘えた声を出して擦り寄って来た。

 言った意味をちゃんと理解できたのだろうか? 少し不安になる。


「……いいですか。園瀬修司さんは雄で、香織はつがいの雌です。もし修司さんが辛い目に遭っていたら、即報告するように」


 私の言葉に得心したのか、子狐は一声鳴いた。


「あっ、こんな所に居た! ハクちゃーん」


 そこにとてとてと走り寄って来たのが、白眉丸の世話係の巫女だ。名前は確か──覚えていない。彼女は息を切らせて子狐を捕えようとするも、ひょいとかわされてしまう。


「ああっ、ちょっと、逃げないでよぅ」


 彼女の言葉に、子狐はカカカ、と笑った。


 しばしの間、追いかけっこが繰り広げられる。

 草履で走るのに慣れていないのか、巫女はもたつきながら懸命に手を伸ばす。ギリギリ届きそうな所まで引き付けておいてから、サッと身をひるがえす白眉丸。完全に遊ばれている。

 少し気の毒に思うも、遊びもまた狐のコミュニケーションの一環なのだと思い直した。


 一しきり境内を走り回った後、子狐は甲高く鳴いて神社の外へと走り去って行った。

 賢い子だ。遊びながらも、ちゃんと与えた任務を覚えている。

 それに引き換え──ぜぇはぁと荒い息を吐く巫女の方へと視線を向ける。なんと無様な姿だろう。

 私と同様、狐の面を着けているため顔はわからないが。背は低く、未成年のように見える。

 飼い狐に翻弄されるなど、睡狐の巫女として情けない。胸中で叱責するも、表面にはおくびにも出さず。


「……さあ」


 彼女の手を取り、肩を貸した。声を出す元気も無いのか、巫女は黙って頭を垂れた。

 幸いにも、手水舎(ちょうずや)はすぐそこにある。二人して向かう。

 小柄な少女は予想通りに軽く、寄りかかられても苦には感じなかった。

 こうして密着していると、次第に彼女の息が整っていくのがわかる。良かった。神社の敷地内で倒れられたら、私の監督責任になる所だった。


 手水舎に着くと、早速彼女の面を外してやった。さらりとした黒髪が秋風になびき、素顔が明らかとなる。

 ……あ、可愛い。とまず最初に思った。丸みを帯びた、人懐っこそうな顔。悪くない。


 巫女にも『位(くらい)』というものがあり、一番下の階級はアルバイト同然だ。一般に募集をかけて、とにかく必要数を集められる。その際に『質』は問われない。

 でも彼女は仮にも白眉丸の世話係。これでも、睡狐様じきじきに選ばれている精鋭の一人なのだ。その選考基準には『器量』という項目も存在する。可愛いのは、当然と言えば当然だったが。

 くりくりとした瞳がどことなく白眉丸に似ている気がするのは、子狐の方が飼い主に似たのだろうか。あるいは、逆か。


「お飲みなさい」


 柄杓(ひしゃく)で水を掬い、少女の口に含ませる。ここのは地下からの湧き水で、真夏でも冷たく美味しい。参拝客の手洗いに使うにはもったいないくらいだ。

 こくんと喉を鳴らし、彼女は神水を飲み込んだ。

 上気した頬から、少しずつ赤みが抜けていく。それを確認した後で、私はようやく胸を撫で下ろした。


「あ……ありがとうございます」


 落ち着いたのか、彼女は神妙な面持ちでお礼を言って来た。緊張しているのか。もしかして、怒られると思ってる?

 そこまで考えた所で、あることに思い当たった。狐の面を外す。


「大丈夫よ。今は私達しか居ないから、面を外しても素顔を見られる心配はありません」


 睡狐の巫女には、ある掟がある。

 それは、主たる睡狐様以外には素顔を晒してはならないということ。人間ではなく、狐の化身として振舞えということだ。

 もっとも、掟を破っても特に罰則がある訳でもないが──周囲から後ろ指を指されることは、覚悟しなければならない。


 私の言葉に、彼女はホッと気を緩める。

 と思った次の瞬間には、顔面蒼白になっていた。


「ああっ!? 私ったら、雫様になんてご無礼を……! 申し訳ありません!」

「不可抗力でしょ。水に流します」

「それに、ハクちゃんに逃げられてしまいました! 捕まえて来なければ……!」


 緊急時に肩を借りることを無礼とは思わないし、白眉丸は逃げた訳でもない。

 何ともせわしない子だ。さっそく捕まえに行くつもりなのか、私の話を聞かずに走り出そうとする少女の腕を、掴んで止める。


「待ちなさい。そして落ち着きなさい。いい? 白眉丸を呼び出したのは私で、今はある特別任務に就いてもらっているのです。決して逃げ出した訳ではないし、貴女のせいでもありません」

「……ふぇ?」


 特別任務? と首を捻る彼女。要領を得ない様子だ。

 しかし、さすがに任務の詳細まで語る訳にはいかない。物言わぬ狐に任せたのは、人づてに噂が広がるのを防ぐためだ。ここは、はぐらかすとしよう。


「実を言うと、私も上から伝えられただけで、任務の全容までは知りません。ただ、とある人物を見張るようにと」

「その人が、何か悪いことを企んでいるのですか?」

「さあ、そこまではわかりませんが。噂では『A.S.U』と繋がりがあるとか無いとか」

「A.S.U……!?」


 その単語を聞いた瞬間、彼女はゴクリと唾を飲み込んだ。

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