(17)明日への別れ

「君の──いや。君達の指し手の数々には、驚かされたよ」


 穴熊さんの言葉に、俺も頷く。同感だった。自分が指した手に、俺自身が一番驚いている。

 間違えそうになる度、罠に嵌(は)まりそうになる度に、香織が正しい方向へと導いてくれた。当の本人は俺の隣できょとんとしているけど、俺が勝てたのは紛れもなく、最愛の妻のおかげなのだ。

 そう、俺は信じている。


「中でも、最も驚かされたのが。143手目の、75銀打だった」

「えっ、すご……! 何手目か覚えてるんですか!?」


 びっくりして声を上げる香織。新鮮な反応に、俺は思わず、クスリと笑みを零す。

 そうだよな、普通は驚くんだよな。棋士にとっての当たり前は、一般人にとっては驚きに値するものなんだ。当たり前に、皆凄いんだ。

 穴熊さんは苦笑しながらも続ける。あの一手は完全に想定外で、読み抜けの代償はあまりにも大きかった、と。


「攻防一体の絶妙手。あれで、逆転勝ちの目を潰された。評価値にすぐ反映されるような、わかり易い手ではないが。私個人としては、してやられたと思ったよ」

「あ、ありがとうございます……でも」


 せっかく褒めてもらった所悪いが。あれは、頭の中が真っ白になった状態で指した一手で、考えて導き出した答ではない。言わば直感や、本能の類の手だ。

 俺の説明に、彼は驚きと共に、どこか納得したように頷いた。


「なるほど。深層意識が指したと。『彼』と指している感じがしたのは、そのためか」


 二度と叶わないと思っていた再戦を、期せずして果たすことができた訳だ、と穴熊さんは微笑んだ。


 そうか──そうだったのか。

 園瀬竜司。親父の将棋は、死してなお、俺の中で生き続けている。確かに親父なら、あの一手を指せたかもしれない。

 無意識の内に、親父が俺を助けてくれていたのか。そう思うと、胸が熱くなった。


 ありがとう。香織、親父。

 二人のおかげで、俺は強敵に勝つことができたよ。はるか格上の、万に一つも勝てるはずの無かった相手に。

 そして今、未来は繋がった。決勝戦へと、駒を進めるんだ。俺達皆で。


「何だか清々しい気分だ。ありがとう、修司君、香織さん。君達と戦って、大切なことに気がつけた気がするよ」

「こちらこそ、お世話になりました。俺、もっと妻のことを大事にします」


 深々と礼をする穴熊さんに、俺も頭を下げる。隣では香織が、顔を赤くして固まっていた。


「うむ。末永く、お幸せにな」


 さて、と穴熊さんは席を立つ。つられて立ち上がろうとした俺を、彼は手で制した。

 そのままで良い、と。


「香織さんはまだ本調子じゃないんだ。ついていてやりなさい」

「もう、行かれるんですか?」


 せめて決勝戦を観て行って欲しかったが。俺の問いに、彼は笑顔で頷いた。


「ああ。やることがあるからな」


 そこに、永遠と照民が駆け寄って来る。

 穴熊さんは彼らに向かって、「すまなかった」と頭を下げた。


「力及ばず、敗れてしまった。本当に申し訳無い」

「そんなこと……! 謝らないで下さい!」

「当初の目論見は叶わなかったが。サロンの運営は続けるよ。約束だ」


 涙目の永遠の頭を、彼は優しく撫でる。

 君達が居るから、と続けて言う。


「サロン棋縁はこれからも、君達に憩いの場所を提供し続ける。約束するよ。君達が居るから、私は頑張れる。常に前向きになれる。つまづいてなど居られない。

 さあ。帰って次の作戦を練ろう。サロン存続に向けた、新たなる第一歩を」

「は、はい……!」


 力強い言葉だった。感極まった様子で、永遠は何度も頷く。

 ああ。やっぱり、この人は凄い人だ。どれ程辛い目に遭っても、決して折れない。運命には、絶対に屈しない。

 この人達なら、きっと大丈夫だ。俺は信じる、サロン棋縁の底力を。


「──宜しければ」


 と、そこに。観客席の方から、声が掛けられた。

 温和な表情の老人が、おずおずと提案して来る。


「ウチと、業務提携しませんか?」

「なんと……!」


 大森さんの意外な言葉に、穴熊さんは目を丸くした。


「昨今、町の将棋道場はどこも経営難です。ウチも例外ではなく、常連さんを維持するので精一杯な現状。恐らくこの先、長くはもたないでしょう。

 今こそ、道場同士が力を合わせるべき時だと考えております。棋縁さんとなら、必ずやこの難局を乗り越えられる。今の一局を観て、私はそう確信しました」


 是非ご検討いただきたい。そう告げて、大森さんは頭を下げた。

 夢のような話だ。伏竜将棋道場とサロン棋縁が業務提携。今まで敵同士だった俺達と彼らが、今度は仲間になるだなんて。

 隣では香織が目を輝かせている。気持ちは、俺と同じなのだろう。素晴らしい提案だと思った。


 穴熊さんの方へと視線を向けると。彼は、考え込んでいた。


「──お申し出は、大変ありがたいのですが」


 やがて。長考の末、彼は口を開く。一言一言、慎重に言葉を紡いでいく。


「業務提携は簡単な話ではありません。サロンの方針から考え直す必要があるかと存じます。すみませんが、今しばらく、検討する時間をいただきたい」

「承知致しました。気長にお待ちしております」


 申し訳無さそうに答える穴熊さんに、大森さんは柔和な笑顔でそう告げる。

 確かに、簡単な話ではないが……決して実現不可能な話でもない、と思う。近い将来、『伏竜将棋サロン棋縁』なんてモノが誕生するかもしれないな。

 楽しい想像に、俺は顔をほころばせる。


「ありがとうございます。前向きに検討させていただきます」


 では、失礼します。穴熊さんは一礼し、俺達に背を向けた。

 一陣の秋風が吹き抜ける。爽やかな涼風が、頬を撫でた。

 ふと、初めて彼を見た時のことを思い出した。死んだ魚の目をした男は、もう居ない。背中に哀愁は感じるものの、彼の未来には希望がある。

 さようなら。またいつか、指し合いましょう。その時までに、もう少し穴熊対策を勉強しておきます。次こそは、俺一人の力で勝ってみせますから。


「香織さん。決勝戦、頑張って下さいね! お身体に気を付けて!」

「うん! 永遠ちゃんも元気でね!」


 一方、女子二人は名残惜しそうに会話を交わす。この大会を通して、すっかり仲良くなったようだ。良い傾向だと思う。香織は少々、俺に依存気味な所があったから。


「絶対絶対、棋縁に遊びに来て下さいね!」

「行く行く! 明日行く!」


 いや、明日は疲れ切って寝込んでると思うぞ?

 胸中でツッコミを入れるも、あえて水を差すような真似はすまい。


「ではまた、明日! 約束ですよー!」


 ごきげんよう!

 笑って、漆黒の少女は走り出した。穴熊さんの背中を追いかけて。風のように、軽やかな足取りだった。

 その後を、更に照民さんが追う。重たい将棋盤くんを抱えて。こちらは軽やかにとはいかないが、それでも彼は追いかけ続けるのだろう。いつか、彼女が振り向いてくれる日が来ると信じて。


 サロン棋縁のみんな。対局、ありがとうございました。

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