(16)愛の終局図

「感想戦、やりますか?」


 俺の提案に、こくりと彼は頷く。

 ありがたい。訊きたいことは色々ある。

 最終的には勝つことができたものの。本当なら、俺は負けていただろうから。


「まず訊きたかったことは。俺が今回採用した銀立ち矢倉が、振り穴に対して有効だったのかどうかってことです」


 一旦初期配置に戻してから、互いに駒を動かしていく。俺の質問に対し、穴熊さんは一言「わからない」と答えた。


「前例が少ない。銀立ち矢倉を美濃や高美濃に対して使うことはあるが」


 特に高美濃へのカウンターとして有効で、右の桂跳ねを抑制できることが大きいという。その状態から玉頭戦に持ち込めば、銀立ち矢倉側が優勢になるだろうとのことだ。

 その考え方でいくと、元々桂馬を跳ねない振り穴に対しては、効果は薄いかもしれない。通常の矢倉よりは上部が広くなる利点はあるが。


「わからないが、妙な指しにくさは感じた。銀立ち矢倉慣れしていないせいもあるかもしれないが。上部を圧迫されたのが原因かな? 研究の余地はあると思うね」

「でも、同じ手数がかかるなら、居飛穴のが強そうですよね」

「それは……間違い無い」


 ふっ、と穴熊さんは笑う。嫌味のない、爽やかな笑顔だった。

 まるで憑き物が落ちたように、彼は柔らかな視線をこちらに向けて来る。濁りの無い、黒の中に少し茶色の混じった瞳で。

 尊大な態度も鳴りを潜めている。そう言えば、いつの間にか一人称が「我」から「私」に変わっていた。

 人の善さそうな一人の青年が、そこには居た。恐らくはこれが、彼本来の姿なのだろう。


「だが、君は君のスタイルで指せば良いと思うよ。こうしなければ勝てない、ということは無い。将棋には、必勝法など存在しないのだから」

「ありがとう……ございます」


 振り飛車相手に矢倉を指すなど愚かだと、嘲笑う人も居る。確かに不利な面はあるが、それでも指したいのが矢倉党だ。彼の言葉が嬉しかった。励みになった。

 やはり彼は、普及指導員に向いていると思う。他人にやる気を出させるのが上手い。時には厳しく、時には優しく。級位者達を正しく導いてくれる。

 永遠、照民、ショウ。ここに集いし精鋭達。皆がサロン棋縁の存続を望むのもわかる。俺だって、機会があれば指導してもらいたいものだ。

 今頃になって理解する。ミスター穴熊の呼称は、最強の称号というだけではなく、親愛の証でもあったのだ。


「さて、感想戦といきたい所だが──修司君。この一局は、君以外にもう一人、勝利の立役者が居るね?」

「……ああ」


 彼の意味深な言い方に、ピンと来た。視線を観客席へと向ける。きょとんとした表情でこちらを見つめて来る香織と、目が合った。


「こっちへおいで、香織。一緒に感想戦をしよう」

「へ? ……何で私まで?」


 小首を傾げる彼女に、扇子を広げて見せてやる。


「ええっ!? それ、夢の中の……!」

「夢じゃなかったんだよ。俺はずっと、君に励まされていたんだ。香織が眠っている間も、これがあったから戦い続けることができたんだ」


 そう告げて、香織を手招きする。

 彼女は驚きながらも、俺の右隣に腰掛けてくれた。


「改めて自己紹介をしようか。私はサロン棋縁の席主、ミスター穴熊です」

「あ。園瀬修司の妻の香織です。不束者(ふつつかもの)ですが、宜しくお願いします」

「こちらこそ。こんな可愛い奥さんが居て、修司君は幸せ者だな」


 穴熊さんの言葉に、香織は頬を朱に染める。

 うん。文句無しに可愛い。

 けど、俺の妻の顔をあまりじろじろ見ないでくれるかな?


「勝てない訳だ。二対一、だったんだからな」

「ちょうど良いハンデだと思いませんか?」

「はは。私と君の棋力に、そこまでの差は無いよ」


 謙遜するように笑ってから。

 ふと真面目な顔になり、穴熊さんは俺達二人を交互に見つめて来た。いやだから、そんなに見るなと──。


「やはり。君達は、二人揃ってこそ輝いて見える」


 そう呟いた彼の顔には、羨望の色が浮かんでいた。過去から解放されても、寂しい気持ちに変わりは無いか。いやむしろ、かえってその気持ちは強くなってしまったかもしれない。忘れていたことまで、思い出してしまって。

 だが、俺がこれ以上彼にしてやれることは無い。後は、彼自身が気持ちに整理をつけるしかないんだ。

 俺にできるのは、この一局を振り返ることだけだ。


「……穴熊さん。一つ訊いても良いですか?」

「何だね?」

「貴方には、俺の玉を詰ませられるタイミングがあった。本当なら、貴方が勝っていたはずだった。なのにそうしなかったのは、何故ですか?」


 話題を変える意図もあり、気になっていたことを尋ねると。彼は「ふむ」と言って、首を傾げた。


「具体的に言うと、いつかね?」

「龍がまだ28に居た時に、78馬で金を取りつつ王手を掛け、同玉に88角成の王手。更に同玉に、68龍と飛び込んで来て、必殺の『一間龍』の形を成す。後は、簡単な詰将棋です」


 俺の指摘に、彼は「なるほど」と呟いた。まるで予想していなかったかのような口ぶりだった。

 さすがに嘘だと見抜く。読めなかった訳がないのだ。読んだ上で、あえて指さなかったのだ。


「穴熊さん。もう試合は終わったんだ。腹を割って話しましょう」


 かぶりを振って、俺は彼の目を見つめる。その瞳の奥に隠された想いを読み取るために。


「……君達が描く未来を、観てみたくなったんだ」


 ため息を一つつき、諦めたように口を開く穴熊さん。

 本当は認めたくないと、その態度が如実に物語っている。


「わざと指さなかった訳じゃない。どうしても指せなかった。君の思い描いた未来が、もし私の予言を覆すものであったなら。確かめなければならないと思った。君達夫婦の、愛の終局図を」


 そこまで言った所で、彼は深く息を吸い込んだ。

 なるほど。問答無用で詰ませてしまうと、俺達の未来が見えなくなる。だから指せなかった。彼の好奇心が、勝利への執念に勝ってしまったのだ。


「はい」


 と、そこへ。

 それまで黙って聞いていた香織が、手を上げた。


「愛の終局図って言うと、愛が終わっちゃう気がして何かイヤです」


 頬を膨らませ、抗議して来る。


 彼女の物言いに、俺と穴熊さんは顔を見合わせ。

 ぷっ……! 思わず、吹き出してしまった。

 大真面目な顔で怒る香織を前にして、男二人はひとしきり笑い合う。


「むう。何がおかしいのー?」

「あはは……悪い悪い」

「また笑うー。私は真剣に言ってるんだよ!?」


 ──ああ、本当に。香織が居てくれて、良かった。


 彼女は場を和ませる天才だと思う。対局中に漂っていた殺伐とした空気が、綺麗サッパリ消えて無くなるとは。俺達の指し手を食い入るように見つめながらも、時折冗談を交えることを忘れない。

 感想戦を通して、穴熊さんの心が開いていく。徐々にではあるが、確実に。優しい笑顔が、対局場を満たしていった。


「ああ、楽しい。こんなに笑ったのは久方ぶりだよ」


 穴熊さんは涙交じりに呟きを漏らした。笑いながら、泣いている。様々な感情の入り混じった雫が、盤を濡らした。

 気持ちの整理が追い付いていないのだと悟る。無理もあるまい。彼が知った真実は、彼の人生を大きく変えるものだったのだから。

 それでも。彼は前に進もうとしている。立派だと思う。俺が彼の立場だったなら、もっと苦しみ、後悔の念から逃れられなかったに違いない。

 俺には多くのことはできないが。せめて、精一杯楽しんでもらえればと思う。俺達と共に過ごす、この一時(感想戦)を。

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