(13)帰還

 相手玉の逃げ場は無い。92香と打たせることに成功した。

 さて。次の一手も、指すのに勇気が要る手だ。一度思い描いてしまったからには、やるしかないが。

 香織、俺に勇気をくれ。扇子に書かれた愛羅武勇の四文字を、胸中で復唱する。

 やる。やれる。この瞬間のために、退かずに残しておいた駒を使うんだ。


 85に居た銀を、相手玉にぶつける。94銀。

 これに対し、84玉とかわせば85金打までの詰み。同玉とせざるをえない。

 そこで92龍と、更に王手をかける。

 93歩打に、95歩打の王手。同玉は86金打から詰む。84玉と逃げるしかないが。

 逃がしはしない。今取ったばかりの香車を86の位置に打ち込み、王手をかける。


 彼の指し手が、止まった。

 95や75に逃げる手では、いずれも詰みを回避できない。85に合駒するしかないが、さて何を打って来るのか。

 秒読みに追われながらも、彼は考える。何を打つか。そしてその後、何を指すかを。

 彼は一体、どのような未来を思い描いているのだろう? サロン棋縁の代表としての未来か、それとも。妻を失った、一人の夫としての未来か。


「……素晴らしい」


 ぱち、ぱち、ぱち。

 駒を打つ代わりに、両手を高らかと打ち合わせる音が聞こえて来る。

 顔を上げると、彼の濁った瞳と目が合った。闇に包まれたはずの男の双眸からはしかし、煌めきが溢(あふ)れ出していた。幾筋もの雫が、彼の頬を濡らしていく。


「よもや、ここまで追い詰められるとはな」


 感動した、と彼は呟く。

 そう言えば、今まで観戦して来た試合全てで彼は涙を流して来た。元々情に厚く、涙もろい性格ではあるのかもしれないが。


 それにしても、妙だ。泣くには早過ぎる。

 形勢は俺の方に傾きつつあるとは思っているが、まだ決着はついていない。対局中だというのに。

 心が折れた? いや、違う気がする。


「我の過去を観てなお、敗北譜を見せられてもなお。君は諦めずに指し続け、ついには我をここまで追い詰めた。実に見事だ。何の力も持たない人間が、神に等しい我に一矢報いたのだ。称賛に価(あたい)する。

 認めるよ、修司君。君達夫婦の愛は真実のものだったと。君達ならば、これからも愛を失うこと無く、理想の未来に辿り着けるかもしれない」


 穴熊さんは涙を拭い、85に香車を打ち込む。

 彼の言葉は、本心からのものだろうと思う。指し手からもそれを感じる。やっと一人の将棋指しとして、認めてもらえたのだ。

 ……しかし、何故だろう? 彼の闇は、一向に晴れる様子が無い。それどころか、より一層深みを増しているように感じる。


「だが、無意味だ。何をしようと無駄なことだ」


 君が何をしようと、彼女はもう帰って来ない。

 そう続けた彼の瞳には涙は無く、もはや一切の光も宿らない。彼は俺を見ているが、その眼には俺の姿は映らない。何も無い。彼は何も、視ていない。盤面さえも。

 俺が必死な想いで指し続けて来たこの一局でさえも、彼は無意味で無価値なものだと、容赦なく切り捨てて来る。


 この男は、今更になって目を背けようとしている。俺達の愛に触れ、心動かされ──そして今、逃げようとしている。何もかも観なかったことにして、安全な場所に逃げ込もうとしているのだ。

 自分が望んでも手に入らなかったものを見せ付けられて。自分と同じだと思っていた俺が、実際は違うと知って。より深い絶望を味わって。

 愛を否定することができなくなった。でも許容することはできなかった。だから拒絶し、逃げ出した。


「逃がさない」


 真正面から彼を睨み付ける。ここで逃がしては、決着をつけることができない。あんたは過去に囚われたまま、これからも永久に闇の中を彷徨い続けるのだろう。

 最後まで付き合ってもらうぞ。


 指した手は、76玉。彼に残された唯一の逃げ道、75の地点に、俺の分身が自ら立ちはだかる。退路を断つ。行かさない、逃がさない。あんたはここで、俺が仕留める。あんたが今まで目を背け続けて来た、愛の力をもってして。


「くっ……!」


 呻く男の顔に、初めて焦りの色が浮かんだ。追い詰めた。見えて来たぞ、理想の未来が。


「今の指し回し……鬼籠野燐のものか……!?」


 視線を傍らに向けて、穴熊さんは尋ねて来る。

 さすがだ。気づいたか。

 同じ方向に目を遣り、俺はああと、頷いた。突然自分の名前を出され、鬼の少女は呆気に取られた様子だったが。

 玉将の進撃。足りない攻め駒を玉で補う発想は、元々は彼女のものだ。

 燐。お前とチームを組めて、良かった。


 ここぞという時の踏み込みの甘さが、俺の弱点だった。そう自覚していたからこそ、乗り越える努力ができた。燐の将棋を観て、学ぶことができた。

 76玉は、渾身の勝負手だ。75の退路を断つと同時に、78馬切りからの強襲を事前に防ぐ。更に、次の85香が詰めろにもなっている。これ以上の手は、俺には思いつかない。

 手番は彼に渡ったが、詰めろがかかっている以上、何らかの形で受けなければならない。主導権は俺が握っている。


 さあ穴熊さん。秒読みの中、最適解を見つけられるかな? 見つけられなければ詰み、あるいは時間切れ負けだ。

 タイムリミットが迫る。彼は眉間に皺(しわ)を寄せて考え込んでいたが。

 ついに着手する──94金打。


「……は?」


 思わず、声が漏れた。

 ここに来て、金のタダ捨てだと──?

 一瞬、意味がわからなかったが。盤面を見直して、ハッと気付いた。

 彼が94に駒を埋めなければ、こちらから94金と打つ手があったのだ。その場合、同歩に同龍として即詰みだった。

 つまり94金打は、85の地点を守ると同時に、94の地点に金を打ち込まれるのを防ぐ手でもあった。


 恐ろしい手だ。仮に85香と突いた場合、同金とされ、王手がかかる。下段に落とされた自玉を待ち受けているのは、78馬切りからの詰将棋フルコース。たった一手で形勢は逆転し、俺は敗北する。

 故に、こちらからは王手を仕掛けられない。粘り強い一手を、わずか30秒に満たない時間でひねり出して来るとは。

 これが、彼がミスター穴熊と呼ばれる所以(ゆえん)か。秒読みなど関係ない。恐るべき精度で、常に局面ごとの最善手を読み切って来る。


 こちらから王手はかけられない。

 どうすれば良い?

 俺の持ち時間もまた、残りわずか。今度は俺も時間に追われる立場になる。そうなれば、地力の差で逆転されてしまうだろう。

 粘られるとまずい。


「修司君。君の思い描いた未来に、94金はあったか?」

「……無い」

「そうか。ならば、排除するが良い」


 俺の返事に、穴熊さんは静かに頷きを返す。そうだ、きっと同歩と取るしかない。それはわかっているのだが。その後のイメージがまだ見えていない。歩を突くことで、新たに95の地点に逃げ込まれる可能性が生じる。

 未来は確定していない。先程彼に告げた言葉が、俺自身を苦しめる。

 そうだ、新しく生まれた可能性が、新しい未来を形作る。それは俺にとって、必ずしも善い未来とは限らないのだ。

 今一度、踏み込む勇気が必要だった。はるか格上を相手にして、読み切れない未知の変化へと踏み込む、勇気が。


 ……くん。


 その時。声が、聞こえた気がした。

 目の前にある扇子からではない。物は喋ったりしない。


 しゅーくん!


 風に乗り、はるか彼方から。その声は確かに、耳に届いた。

 俺のことをそう呼ぶのは、この世で一人しか居ない。


「香織……!」


 彼女が、こちらに向かって歩いて来る。おぼつかない足取りだが、一歩ずつ、確実に。

 夢を見ているのかと思った。時間が経つのも忘れて、俺は彼女を見つめる。


「馬鹿な。ありえない」


 呆然と、呟きを漏らす穴熊さん。俺だって信じられない。大会中に目覚めることは無いだろうと、半ば諦めていたのに。


「香織さん!」


 一方、即座に反応したのは燐だった。香織の元へと駆け寄る。

 続いて大森さんが席を立つ。二人は両脇から香織を支えた。

 ありがとうとお礼を言ってから、彼女はこちらへと視線を向けて来る。

 笑顔だった。疲れている様子ではあったが、見慣れているいつもの笑顔だった。狐が化けているんじゃない。間違いなく、本物の香織だ。

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