(14)灯火宿りて(Weiß Augenblick)
「しゅーくん、遅れてごめんね」
「香織……!」
立ち上がろうとして、彼女に手で制止される。それでやっと、対局中だったことを思い出した。
その対局相手はといえば。
「──ありえん。『明鏡止水・極』は命を削って発動するもの。こんなにも早く回復するなど、まずありえない」
観客席に腰掛ける香織を、まるで化け物か何かを見る目で穴熊さんは見つめる。
「起きて大丈夫なのか?」
彼の言葉に、ふと心配になって尋ねると。香織は「うん」と小さく頷いた。
「香澄さんからもらった薬が効いたのかも。頭の中に何度もしゅーくんの声が聞こえて来て、眠れなくなっちゃった」
「う。それはすまない」
「いいの! おかげで間に合ったから」
彼女はカラカラと笑う。
ああ。やっぱり香織だ。
少しの間離れていただけなのに、ひどく懐かしく感じる。
間に合った、と彼女は言った。俺の試合を応援するために、今ここに駆け付けてくれたんだ。体力的には万全に程遠い状態だろうに。
彼女の優しさ、気遣いが骨身に染みた。
負けられない。香織の想いに、今こそ応える時だ。
未来は常に更新され続ける。香織が今来てくれたのだって、完全に想定外だった。
新たな可能性は、俺にとっては都合の悪いものなのかもしれないが。だからといって、立ち止まれない。時間の流れは、決して待ったを許してはくれないのだ。
94の金を取り込む。同歩。
穴熊さんは、今度は74に銀を打って来た。
またしてもタダだが、この銀はすぐには取れない。同歩と取った瞬間、空いた75の地点に金を打ち込まれ、玉を下段に落とされて、後は詰将棋コースだ。
更に言うなら。もし銀を打たれなければ、85香から相手玉を詰ませていた。
絶妙手。香織の登場に動揺しながらも、指し手に一切ブレが無い。さすがとしか言いようがなかった。
互いに自玉の詰みが見える局面。下手な指し方はできない。一手のミスが死に繋がる。
もちろん、香織の前で格好悪い負け方をするつもりは毛頭無いが。
銀を取れないのは、その後に打たれる75金が、84の玉によって守られているからだ。ならば、玉を移動させてやれば良い。93に龍を退き、王手をかける。95玉と逃げた所で、満を持して74歩と銀を取る。
「冷静だな。王手をかけ続けて強引に詰ませるのではなく。確実に勝てる手を選んだか」
「ああ。負けられないからな」
「ふっ……愛の力、か。わかった気がするよ。何故『明鏡止水・極』を発動してなお、君の妻が応援に来られたのか」
穴熊さんの顔に笑みが浮かぶ。
滑らかな手付きで、盤上に新たな駒が投下された。
95に玉が移動したことで発生した、新たな可能性。その一つが84桂打の王手だった。
玉が逃げれば、76金打の一手詰。取るしかない。貴重な戦力の、龍を犠牲にして。同歩と取られた局面は、恐らく穴熊さんが優勢だろう。
「だが、悪いな。それでも最後に勝つのは我だ。神を相手に、君はよく戦った。健闘を誇るが良い」
追い詰めたつもりが、逆に追い詰められていた。彼の掌の上で踊らされていた、ということか。先に見せられていた棋譜からは、随分違って来ているが。
どんなに必死に食らい付いても、なお及ばない。新しい未来においても、俺は敗北するのか。これが高段者の将棋。これが、ミスター穴熊と呼ばれた男の真髄か。
まずい。龍を取られたこの局面で、手番が回って来てしまった。何か手を作らなければと思うが、良さそうな手が思いつかない。何も。そもそも、龍を取られることが想定外だったのだ。
何を指しても悪手になる予感がする。そんな局面に誘導されてしまった。この感覚は、香澄さんとの最終盤に似ている。
盤面が黒く塗り潰される、あの感じ。正解は数多(あまた)ある手の内のたった一つで、それ以外は全て外れ。間違えれば即敗北決定の、ロシアンルーレットのような将棋。
香澄さんと指した時には、奇跡的に正解手を導き出すことができたが。あんな奇跡は、そう何度も起こらないだろう。
攻めるべきか、受けるべきか。まずそこの判断が難しい。俺はこのまま攻め続けて良いのか? 要の龍を失った今でも。玉を退かれた時、追い切れるのか?
秒読みの中。長考の沼に沈みそうになっていた、その時。
「がんばって! しゅーくん!」
香織の声援が、秋風に乗って耳に届いた。
力の限り声を張り上げて、彼女は俺の迷いを吹き飛ばそうとする。本当なら、大声を出すのも辛いはずなのに。
ああ、そうだ。彼女が観ているんだ。悩んでいる場合じゃない。
時間切れで負けるのだけは、嫌だ。
何でもいい、とにかく指せ。己の直感を信じろ。攻めるのが無理なら、一旦受けるんだ。 敵の攻めが刺さりそうな箇所を、予めカバーしろ。
間に合わせろ! 秒読みが終わる前に、着手するんだ! とにかく、急げ──。
ぱちん。
真っ白になった頭で、俺は無意識の一手を放つ。
「こ……これは……!」
驚きの声を上げる穴熊さん。そんなに意外だったのだろうか。何も考えずに放った、一見何の狙いがあるのかわかりにくいその手は。実際、指した本人でさえ、十分理解できていないのだが。
75銀打、だって……?
受けの手なのか、攻めの手なのか。それすら、自分でもよくわからない。
俺の理解の範疇を超えた一手が、盤上で淡い光を放っている。
強く輝いている訳でも、放電している訳でも、燃えている訳でもない。
黒く塗り潰された盤面で、唯一そのマスだけが白く。灯台の明かりのように、か弱くも俺を導いてくれる気がした。
「──攻防一体の絶妙手。秒読みで級位者が指せる手ではない」
少なくとも初段。あるいは、それ以上の棋力が必要だ、と。
うめくように、穴熊さんが呟く。彼には見えているのか、その手の意味が。俺には未だにわからない。が、唯一つ理解できたことがある。
この銀は、取られては駄目だ。
74歩と、銀を狙って歩を突き出して来る。取らせない。同銀と取り返す。
穴熊さんの手が、ピタリと止まる。今度は彼が、長考の沼に沈む。眉間に皺(しわ)を寄せ、考え込む。
手番を渡され、対応に困っているように見える。攻めるべきか、受けるべきか。もしかしたら一手パスしたい心境なのかもしれないが、残念ながら将棋にはそんなルールは無い。必ず何らかの手を指さなければならない。
たとえ悪手だろうと、疑問手だろうと。断腸の思いで、指し続けなければならないのだ。
それが嫌なら。投了するしか無い。
「……修司君」
秒読みに思考を中断されたのか。
意を決した様子で、彼は口を開いた。
「サロン存続を賭けたこの一局。大将として、我は易々と敗北を認める訳にはいかない」
故に、精一杯の悪あがきをさせてもらう。と、彼は続けた。
俺は頷く。その言葉の裏に込められた意図を察して。
彼は暗に言っているのだ。今から繰り出す悪あがきの数々を全ていなし、文句の付けようのない終局図を突き付けてみせろ、と。
ごくりと、唾を飲み込む。
明らかな劣勢の時よりも、大きなプレッシャーを感じる。
実際の所、現状が優勢なのかどうかすら、俺には明確に判別できていない。穴熊さんの態度から、恐らく勝っているのだろうと推測するばかりで。
そんな状況で詰ませてみろと言われても困ってしまう。ただでさえ、優勢を維持したまま勝ち切るのは難しいというのに。
俺の内心の焦りをよそに、早速『悪あがき』が始まる。
88角成。
これは──手抜けるのか? それとも、即座に対処しなければまずいのか?
混乱する頭の中で、懸命に思考を巡らす。
冷静になるんだ、修司。今の持ち駒で詰ませられそうなら攻めれば良いし、無理そうなら受ければ良いんだ。迷っている時間は無い。決断するんだ。
恐らくまだ無理だ。受けると決める。同金と取る。
すかさず、今度は96に銀を打ち込まれた。
これのどこが悪あがきだ。致命的な罠を、そこかしこに張り巡らせているじゃないか。嵌(はま)ればたちまち詰まされる。彼は、俺が受け間違う瞬間を虎視眈々と待っている。全く諦めてなどいない。あくまで、勝つ気で居るんだ。
例えば今の一手。96に銀を打ったことで、こちらからは王手をかけられなくなった。その上、タイミングを見計らって87銀と出て来る可能性もある。怖い手だ。
一切手抜けないと理解する。彼の指し手が、いずれも恐るべき威力を秘めたものであるのなら。俺は、全力で応じなければならない。
全ての『悪あがき』を、全身全霊をもって咎(とが)めるんだ。
まずは、96の銀を排除する。97金打。貴重な金駒だが、惜しまない。詰まされるくらいなら、持ち駒を使い切った方がマシだ。
「──明鏡止水・極が発動した、あの時。妻は、終局直前で意識を失った。園瀬香織と同じように。
そして、三日三晩昏睡状態が続き。ようやく目覚めた時には、別人になっていた」
今度は79飛車打の王手が来る。77の地点に桂馬を打ち、飛車の利きを遮断する。
続いての97銀成には、同金と取り返す。
徹底的に、受け続ける。
「彼女は涙ながらに語った。試合中に何を観、何を思ったのかを。盤上には対局者の人生が表れる。それは過去と現在だけではなく、未来にまで及ぶという。
彼女は、盤上で対局相手の死(ミライ)を目撃してしまったのだ。君の父、園瀬竜司の壮絶なる最期を」
75歩打の王手に、同玉と取る。
その頃には、終局が近いと直感していた。
「死の恐怖と、志半ばで散る無念。彼女は竜司の意識に同調し、我が身の経験として味わってしまった。どれ程辛かったことだろう。
私は彼女を抱き締めようとしたが、やんわりと拒絶された。人生の儚さを悟った彼女は、私の前から姿を消した。後悔しない生き方をするために、彼女は私への執着を捨てたのだ」
その時、自分が愛した彼女は死んだのだと、彼は静かに告げて来る。
なるほど。彼はそうして、愛を失ったのか──。
「……本当に、それだけか?」
自然と、口が開いていた。首を傾げる彼に向かって、更に続ける。
「親父があんたの奥さんに見せたものは、本当にそれだけだったのかな?」
「な……に……?」
「穴熊さん。どうやらあんたが知らない真実があるようだ」
目を見開く穴熊さんに、俺はそう告げた。
彼の妻が、本当に親父の最期を見たのなら。病室で最後に指した、俺との一局もまた、目にしたはずなのだ。一局を通して親父が俺に伝えて来たものは、死の恐怖でも無念でもなく。
将棋を指す、楽しさだった。
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