(12)不確定な未来へ

 闇が晴れていく。幾筋もの光が、俺達を照らした。

 久々に重力を感じた。対局席に、向き合って座っている。


 闇と共に、彼の首を絞めていた青白い手も消えた。所詮は想像の産物、あんなモノは現実には存在しない。そうだ、今まで観て来た映像全ては、あくまで穴熊さんの頭の中に在ったもの。彼の主観に過ぎない。

 真実は未だにわからない。彼の妻が、本当はどんな気持ちで大会に出場したのかも。何故将棋を始めたのかも。彼が勝手に復讐だと思い込んで、苦しんでいるだけだ。

 だが、俺は彼を愚かだとは思わない。彼は俺の影だ。光と闇は表裏一体。俺だって、彼のようになる可能性はある。

 可能性があるからこそ。俺は、彼を救いたい。これは、俺自身との戦いでもある。


 駒を手に取る。未来を変える、第一歩を解き放つ。


 ぱちん!


 軽快な駒音と共に、打ち下ろす。

 それは、渾身の勝負手という訳ではない。幸先の良いスタートを切るためには、博打みたいな手は指せない。

 転ばない、着実な一手を指す。


「どんな絶妙手が飛び出すのかと警戒していたが。凡百な一手だったな」


 ああそうだよ、悪かったな。

 どうせ俺は、凡人だ。

 やや失望した様子の穴熊さんから目を逸らし、盤上を睨み付ける。


 指した手は、62銀打。

 最後まで93歩打と迷った。どちらも相手玉に迫る手で、個人的には有力だと考えている。

 62銀を打った決め手は、穴熊さんに見せられた棋譜だ。その中では、93歩の方を指しており、心情的に指しにくかったのだ。要するに消去法。自信がある訳ではない。

 それでも今は、信じて指し続けるしかない。どんなに不利でも諦めない。香織が、観ているから。


 もちろん、93歩だけでなく、62銀の方も穴熊さんは読んでいる。凡百な一手と切り捨てたのは、既に対抗手段を見つけているからだろう。


 彼は28の位置に龍を移動させる。次に69の馬と連携して78の金を取り、一気に寄せ切るつもりだ。

 さすがにこれは、受けなければまずい。俺の攻めは、着実だが遅い。相手の攻めを遅らせないと。


 傍らの扇子へと目を遣る。

 愛羅武勇の変わらぬ四文字が、俺を支えてくれる。

 てっきり踏み折られたものと思っていたが、無事だったらしい。折れていたのは、俺の心の方だ。

 一瞬でも、香織を疑ってしまった自分を恥じる。

 ごめん、香織。俺はもう迷わない。君を信じ、俺が信じる理想の未来へ進む。

 だから、どうか観ていてくれ。凡人の俺が指す、最強の男との一局を。


 即死を防ぐ、68桂打。

 ならばと、61に香車を打ち込んで来る穴熊さん。攻め急がず、一旦受けて来たか。間合いの取り方が上手い、さすがだ。

 その間合いの中に、あえて踏み込む。61銀成。

 同金とはせず、彼は99に角を打って来た。


 この王手は──危険な予感がする。

 俺が踏み込むのに合わせたかのように、絶妙なタイミングで反撃が来る。これが、穴熊さんの将棋なのか。

 逃げれば78馬と金を取られ、次に67の金も取られて詰まされてしまう。逃げ場が無い。

 合駒を余儀なくされる。88に香車を打つ。

 と、今度は76香打の王手が来た。


 いつか来るとは思っていたが、実際に指されてみると激痛だ。逃げれば78馬、受けざるを得ない。

 さあ、銀で取るか金で取るか。駒の価値から言えば同銀だが、相手玉から銀が遠ざかるのもどうかと思う。

 かといって、金が斜め上に上がるのも、形としてどうかと思うし……受け方が難しい。

 落ち着け、修司。


 俺には特別な力は無い。明鏡止水の境地には未だ至れず、鬼に血を分け与えられた訳でもない。ただの人間だ。凡人だ。

 だが、そんな人間でも理想を思い描くことはできる。目の前の男が教えてくれたことだ。理想の未来を、盤上に創造しろ。


 金で香車を取る。前に進める。守ると同時に、敵陣に迫る。


「……同銀と、読んでいたのだがな」


 今の手は予想外だったのか、穴熊さんがぼそりと呟いた。

 確かに、形を維持するなら同銀だ。守るだけなら、そちらの方が良いと思う。

 しかし、それでは相手玉に迫れない。寄せ切ることができない。

 俺は攻めを優先する。弱気になっていては、この男を倒せない。


「どうやら覚悟を決めたようだな。最終的に敗北すると理解してなお、我と攻め合う覚悟を。

 受け続けていれば、多少はマシな棋譜を残せたものを」

「言っただろう。未来は確定していない。こうしている間にも、変化し続けているんだ」


 一手の違いで、終局図が大きく変わる。それが将棋だ。人生だ。

 既に穴熊さんの読みには、綻(ほころ)びが生じ始めている。同銀の予想を覆し、同金とした。

 結果、代償として攻められるリスクは増えた代わりに、こちらの攻め手も増えた。まだやりようはある、如何様(いかよう)にでも。

 俺のこの手で、棋譜を塗り替える。敗北譜を、勝利譜に変えてやる。


「今君が上げた金は、もう元の位置には戻れない。後悔することになるぞ?」


 そう警告しながらも、彼は考え続けている。読みを外されたことで、多少なりと動揺しているのだろうか? 運命が絶対ではないと知り、心が揺らぎ始めている……?

 だとすれば、これは大きなチャンスだ。棋力差を平常心で埋め、冷静に寄せ切ってやる。


 長考の海に沈んでいる間も、時間は待ってくれない。

 無慈悲に減っていく持ち時間。ここに来て味方がまた一つ増えた。いかにミスター穴熊と言えども、秒読みでは正確に指し続けられないだろう。

 人間である以上、必ずどこかで緩手が生じるはず。そこを突くんだ。


「あんたの方こそ。俺に先に棋譜(ネタバレ)を見せてしまったこと、後悔させてやる」


 本来ならば、俺と彼の間には絶望的なまでの棋力の差がある。逆立ちしたって敵わない。瞬殺されるのがオチだ。

 それがここまで戦えているのは、彼が俺を試すような指し方をしているのと。棋譜を晒(さら)すことで、自らの手の内を暴露してしまったせいだ。情報が得られれば、事前に対策を講じることができる。


「ぬう。我が手を全て読み切ったつもりか?」

「……いや。全てを読む必要は無い。数ある候補手の中から、あんたが性格的に指しそうな手だけを選んで対策した」

「ふっ。指し手ではなく、性格を読み切ったという訳か」


 俺の返答が可笑(おか)しかったのか、彼はニヤリと笑う。

 81金。悩んだ末に指した手は、穴熊さんらしい実に堅実なものだった。

 香車を渡したため、端攻めが来ると想定し、先に受けて来たか。または、単に71成銀と寄られる手も嫌だと思ったか。恐らくは、その両方だろう。

 ならば。その81の金目掛けて、93に桂馬を打ち込む。


 大きく息を吸う穴熊さん。

 金取りには構わず、37龍の王手を仕掛けて来る。

 受け駒は、香車一枚のみ。


 かといって玉を逃がす手は、78馬がやはり厳しい。できれば攻め駒に取っておきたかったが、致し方なし。67香打。

 続いて、76の金が桂馬で取られる。持ち駒に金を渡してしまった。だったら、こっちだって。

 81桂成で金を取り返す。同玉に。

 62に成銀を退き、開き王手を掛ける。


 穴熊さんは、息を吐いた。一気に吐き出すのではなく、ゆっくりと時間をかけて。


「良い攻めだ。ここが勝敗の分かれ道だな」

「ああ。あんたの応手一つで勝負が決まる」

「……敵に勝負の行方を委ねるようでは、まだまだだな」


 持ち時間を使い切り、秒読みになっているにもかかわらず。穴熊さんの口調は、妙に落ち着いていた。

 まさか──読み切っている、のか?

 俺の玉の、詰みを。


 予感はしていた。69の馬、99の角、そして37の龍。

 完全に取り囲まれ、上部脱出も叶いそうにない。はっきりとした寄せ方が見えている訳ではないが。詰んでいるのかもしれないと、薄々感じてはいた。

 俺の攻めが止められたら最後、きっと俺は、負ける。

 彼の言う通り、段位までは遠いなと苦笑する。


 穴熊さんの指先が、盤上を泳ぐ。

 残り時間はわずか数秒。頼む、間違えてくれ。間違えろ……!

 一瞬、彼の指が空中で止まる。刹那にも満たない、空白の時間が生じた。

 その瞬間、彼が何を思ったのか。俺にはわからない。

 ぱちん。駒音は、やけに静かだった。

 ──82玉。彼は龍の利きを止めず、逃げる手を選んでいた。


 止めようと思えば、手段はいくらでもあった。31に歩を打つのでも良いし、金底に香車を打つのも鉄板だと思う。それなのに、彼はあえて玉を逃がしたのだ。俺に攻めを続けさせるために。

 この男は、この期に及んでも真っ向勝負を望んでいる。俺がどこまでやれるか、まだ試そうとしている。


 なんという男だ。

 確実に勝てる手がありながら、あえてそれを放棄して来るとは。将棋指しとしての──いや。人としての、格の違いを見せ付けられた気分だ。

 そんな男が、俺の指し手に期待している。思い描いた未来像を見せてみろと、俺に勝負の行方を委ねて来たのだ。

 恐悦至極とは、正にこのことだ。


 ならば、全力で攻め切る。俺にできる最善を尽くし、より良い棋譜(ミライ)を創造する。

 72成銀の王手に、同銀と取り返される。これで持ち駒は金が二枚と歩が三枚。繋がるかどうかはわからないが、ここまで来たらやり切るしかない。

 駒を掴む指先に力を込める。リスクは大きいが……頼む、上手くいってくれよ。


 ぱちん!


 打ち込んだ金が、眩い閃光を放つ。視線を上げると、穴熊さんが目を細めているのが見えた。


「よもや、貴重な金将をタダで捨てて来るとは」


 意外だったのか、彼は感想を漏らす。その手自体が妙手なのか、それとも俺がそんな手を指すとは思わなかったのか。判別は付かないが、どうやら意表は突けたらしい。

 93金打の王手。

 持ち駒が豊富にあれば候補手に上がるであろう一手を、あえてこのタイミングで指した。

 残る持ち駒は、金一枚と歩が三枚のみ。果たしてどこまで攻め続けることができるか。わからなくとも、今更歩みを止めるつもりは無い。

 同玉に、91龍と走る。必殺の『一間龍(いっけんりゅう)』を形成する。

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