(7)繋がっている
「君は我と攻め合いたいのだろう。ならば存分に攻めてみるがいい。手番は君に渡した」
42の飛車は、攻めて来るには不十分だが、こちらから狙いにくい位置にも居る。つまりは、そういうことなのか?
争点では駒の交換が発生する。持ち駒ができれば、攻め手を増やせる。俺にもチャンスが生まれる。そうならないように、より安全な手を指されている?
地力では彼が上、陣形の固さでも向こうが上回っている。
ならば穴熊さんは、確実に勝てる手を指し続けるだけで良い。無理には攻めず、一切の好機を与えずに完封勝ちする。それが狙いなのだとしたら?
だとしたら。このままでは、俺は負ける。
先手は俺、手番もこちら。
膠着状態を打開しなければならない。多少無理してでも、手を作らねば。
もしかしたら、俺に無理攻めをさせることも彼の狙いなのかもしれない。それでも手をこまねいて、何もしないよりはマシだ。
まずは盤面を広く見渡すんだ。穴熊は固い分、どうしても駒が偏る。きっとどこかに隙が生じているはずだ。
そうして探している内に、先程の一手の意味が見えて来た。42飛は攻めではなく、受けの手だった。
42飛が無ければ、俺から46歩を突き、35の歩、ひいては33の角目掛けて右銀を繰り出していく手があったのだ。その手を事前に消すのが42飛。なるほど、飛車を上手く防御に使っている。
ならばと考える。例えば48飛と、右四間にするのはどうだろう? 棒銀にして、飛車先突破できるんじゃないだろうか?
他に良い手が思いつかないのなら、試してみても良いかもしれない。幸い、相手の受け駒は少ない。恐らく攻めは通るだろう。
だが、何故だか嫌な予感がする。取り返しのつかない結果になるのではないかと、心が警鐘を鳴らしている。
穴熊さんの威圧的な雰囲気に呑まれているのか?
せっかくの攻め手に臆するなどと。
しっかりしろ、園瀬修司。香織が見ているんだぞ。
扇子に書かれた四文字に恥じない戦いをしなければ。
迷いを振り切る。右四間で、いく。
飛車を手に取る。大きく振り上げ、48の地点目掛けて打ち下ろす。
──だめぇー!
その時。
声が、聞こえた気がした。懸命に、俺を制止しようとする声が。
「くっ……!?」
空中で咄嗟に軌道を変える。38飛。
打ち付けた瞬間、駒が白き閃光を放った。
こっちが正しい、のか? 右四間ではなく?
「48飛と読んでいたのだがな。それには44飛と応じるつもりであった」
46歩からの仕掛けには34飛とし、3筋からの突破を図るつもりだったと穴熊さんは説明する。
なるほど。互いに龍を作り合う展開になれば、囲いの差で負けるのか。
それにしても、さっきの声は何だったのだろう。あれが聞こえなければ、俺は右四間を指していた。
俺を止める、優しくも力強い声。
まさかと、再度扇子に目を遣ると。一瞬、香織の笑顔が脳裏に浮かび上がった。
……ありがとう、香織。君のおかげで、間違えずに済んだよ。
彼女の声は、もう聞こえない。だが、十分だ。
彼女は今、この場には居ない。でも俺達は繋がっている。
ここに来る前に、香織と指した一局を思い出す。彼女の命を救ったと同時に、俺もまた、救われていたんだ。
「打ち下ろす途中で指し手を変えて来るとは。思考を無意識が超えたか。第六感という奴かね?」
「そんな大それたもんじゃないさ」
驚きを隠しきれない様子の穴熊さんに、俺は笑って答える。
彼の言う42飛→44飛→34飛の変化は、いわゆる『立石流四間飛車』から、より攻撃力の高い『石田流三間飛車』への組み換えの一種だろう。言われてみれば納得だが、指摘されるまで全く気づかなかった。
今のは、決して第六感などでは無い。
そんな大それた能力ではなく。単純に、香織が気づかせてくれたのだ。48飛の一手が、いかに危険なのかを。
銀の出遅れた右四間では、石田流の猛攻を止められない。お互い龍を作り合うことはできるかもしれないが、先に玉を詰まされるのは、恐らく俺の方だ。
「愛の力、だよ」
「……そうか」
てっきり鼻で笑い飛ばされるのかと思ったが。俺の返事に、穴熊さんは神妙な面持ちになった。
何だ? 心なしか、雰囲気が変わった気がする。
「これが真実の愛の力か。なるほど。目の当たりにして、初めて理解できたよ」
疲れたような笑みを浮かべ、彼はそう続ける。
「我と『彼女』の間には無かったものだ」
彼女、だって……?
一体誰のことだ? もしかして、俺の知らない誰かのことか?
彼がミスター穴熊と呼ばれるようになるよりも以前。一介の将棋指しに過ぎなかった彼は、『彼女』との間に愛を育もうとしていた?
だが、その愛は上手く育たなかった? そういうことだろうか?
いくつもの疑問符が、頭に浮かんだ。
全ては推測に過ぎない。確かめなければ。この一局を通して、彼の真実を。
俺の視線に気づき、穴熊さんはため息をつく。
「知りたいか?」
「ああ。だが、無理に話さなくても良い」
「ふっ……盤上には対局者の人生が表れる。見極めるが良い。愛を失うとはどういうことかを」
言われなくとも。
どのみち、俺が勝つには真実に辿り着くしかない。圧倒的な棋力差を埋めるには、それ以外に手が無いのだから。
彼は駒を手に取る。俺の38飛へのカウンターとして用意した駒は、角行だった。33の角が、44に移動する。
これは──ああ、そういうことか。俺が36歩を突いた瞬間、32に飛車を回す手だ。
44の角は、その際に飛車交換を強要する手となる。
何度も言うが、矢倉は横からの攻めに弱いのに対し、穴熊は反則的に固い囲いだ。飛車を打ち合ってから玉が詰まされるまでの速度には、雲泥の差がある。何も手が作れていない現状では、飛車交換は避けなければならない。
……だから、3筋の歩は突けない、か。
では、どう指せば良いのだろう。
ああ、俺にも香織達のように明鏡止水が使えればな。こんな時、指すべき手が瞬時に見つかるのだろうが。
あいにくと俺みたいな凡人には、磨りガラスのような盤面しか見えない。悔しいが、無理なものは無理だ。
俺にできるのは、血まなこになって一手一手、地道に検討することのみ。
最善手が理想だが、この際次善手でも構わない。とにかく手を探せ。その中で悪手・疑問手を見極め、候補から外していくんだ。最後に残るのがきっと、指すべき手に違いない。
磨りガラスは水をかければ透明になる。全力を尽くせば、何かしら見えて来るものはある。
不器用な俺でも、それくらいはできるはずだ。
「そんな方法では、持ち時間を使い切ってしまうぞ?」
盤に向かってしらみ潰しに候補手を検討していると、見かねたのか、穴熊さんが声を掛けてきた。
大きなお世話だとも思うが、確かにその通りだ。15分という持ち時間は、長いようで短い。
「手が見つからない時は、理想の局面を盤上に投写すると良い」
彼曰(いわ)く。理想の局面を思い描き、現状何が足りないのか考える。その上で候補手を絞っていけば、自ずと最善手が見えて来る、とのことだ。詰将棋を解く時の考え方に近いだろうか。
なるほどな。簡単ではないと思うが、やってみる価値はありそうだ。
うーん……しかし、それにしても。
「何だ、その目は? 我の顔に、何か付いているかね?」
俺の視線に気付いたか、穴熊さんは訝しそうに眉間に皺を寄せた。
「いや、何か。指導対局を受けてる時みたいだなって」
「──っ……!? し、失礼したっ」
そんなつもりは無かったのだがと、彼は口ごもる。普段見られない慌てぶりに、思わず笑ってしまった。
謝る必要は無い。俺の方こそ、お礼を言いたい気分だ。
「真剣勝負の場において、対局相手に指導をするなど言語道断。相手への敬意が欠けている証拠。江戸時代ならば、切腹級の愚行であった……! 誠に申し訳無い」
「良いよ、謝らなくて。おかげで少し、指し手が見えて来た気がする。俺を気遣って声を掛けてくれたんだろ? ありがとう、穴熊さん。あんたは普及指導員の鑑だ」
本来なら駒落ちで指導対局してもらわなければならない程の手合差があるんだ。俺は全然失礼だとは思わないし、むしろ感謝すらしている。
普及指導員の鑑と言ったのは、お世辞でも何でも無い。彼は実際、サロン棋縁の経営を通して多くの将棋指し達を育成しているんだ。永遠やショウのような優秀な棋士が誕生したのは、穴熊さんの懇切丁寧な指導があったからこそだと思う。
俺の返事に、穴熊さんは口元を手で押さえた。虚ろな瞳に、わずかな煌(きら)めきが垣間見える。
感情が動いている。
そうだ、彼は完全に闇に染まった訳じゃない。怒りもするし、感極まって泣いたりもする。神でも悪魔でもない。最強の穴熊使いである以前に、一人の人間なんだ。
臆するな、受け入れろ。愛を失うことを恐れて、彼を知ることはできない。
指し手を導き出す。飛車を、28の位置に戻す。
「礼を言うのはこちらの方だ。そう言ってもらえると励みになる。ありがとう、修司君」
そう答えながらも、穴熊さんは冷静に着手する。
38から飛車が居なくなった瞬間を狙っての、36歩。放っておけば37歩成、同桂、36歩打により桂馬が殺される。
しかしこの瞬間なら、24歩の攻めが間に合うか?
……いや、無理か。
桂馬を先に取られる展開は、どう考えても不利だ。それこそ、『理想の局面』からは遠のいてしまう。
故にここは、じっと同歩と我慢する。
すかさず3筋に移動して来る飛車。次に36の歩を取り、そのまま成り込む狙いの一手だ。
これをどう受けるかだが──思い描け、理想の未来を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます