(6)粋な真似を

 先手は俺。初手は既に決めてある。

 角道を開放する。

 対する穴熊も、角道を開けて来た。気持ちの良い風が盤上を吹き抜け、駒に宿った黒炎を散らした。

 良かった。これで地獄の炎に魂を焼かれずに済む。

 さて、次は。居飛車党の矜持を見せよう。

 威風堂々、飛車先の歩を突く。

 さあどう出る、穴熊さん?


「修司君。君は矢倉党だったね?」


 そう訊いて、俺の返事を待たずに角道を閉じて来た。お見通しか。なら、話が早い。

 俺の、右銀を上げる一手に対し。


 飛車が、動いた。

 真横に、滑走するかのように。

 盤外に飛び立ちそうな勢いのまま、だが確かな理性を保って、あるべき地点へと到着する。

 四間飛車。


 ……やはり、振り飛車で来たか。


 自他共に認める最強の穴熊使いである彼は、どんな将棋においても穴熊に囲う。

 だが、相居飛車の将棋では穴熊に組めない。正確には、組む前に仕掛けられるリスクが大き過ぎて組みづらい。

 ならば、どうするか? 答は簡単、対抗形にすれば良い。


 読み筋だよ、穴熊さん。


 さて。俺の方はどうするか。

 一般的には、矢倉は対抗形には向かないとされる。組むのに手数がかかる割に横からの攻めに弱く、飛車交換がそのまま死に繋がるためだ。

 急戦なら舟囲い、持久戦なら居飛車穴熊や天守閣美濃等に囲うのが普通だろう。

 矢倉は振り飛車相手には不利。絶対に避けるべきなのだ。


 ──そんなの、知るかよ。


 振り飛車相手に矢倉を指してはいけないとされる理由など、所詮はその程度のものだ。

 定説を、覆してみせる。


 玉を上げる。彼も玉を上げて来た。俺が玉を左に動かすと、彼は右に動かす。

 次に右金を左斜め上に上げ、一旦舟囲いを完成させる。

 穴熊さんは、更に玉を右に移動させた。

 彼の狙いは、十中八九『振り飛車穴熊』だと思う。思うが、まだ確定ではない。

端歩を突き、様子を見る。

 果たして彼は突き返して来ず、右香を上げた。露骨なまでの宣言。振り穴が確定する。

 ならばこちらは、矢倉の完成を急ぐ。角道を閉じる。

 パチ、パチ。互いに駒組を進めていく。振り穴が先に完成してしまった。


 穴熊の弱点は手数がかかることだが、矢倉だって大概だ。金銀二枚の穴熊でも、十分固そうに見える。対するこちらは、7筋に左銀を上げたばかり。組み上げるには、後数手を要する。


「さて。それではそろそろ仕掛けさせてもらうぞ」


 穴熊さんの左銀が、進撃を開始した。

 迎撃が間に合うか、怪しい所だが。


 ──いや。受けの手を考えている場合じゃない。

 棋力の差、囲いの差を考慮してついつい受け身になりがちだが、それでは先手の意味が無い。

 攻めを重視する。飛車先の歩を、更に突く。


「……ほう」


 少し感心したような声を漏らし。穴熊さんは角を上げ、これを受けた。

 まだだ。今度は左端の歩を伸ばす。

 常に先手の利を意識して指すんだ。囲いは不完全だが、三枚穴熊に強化される前に、やれるだけのことをやっておく。

 彼の左銀が三段目まで上がって来た。今だ。

 角を右斜め後ろに退く。次に2筋からの突破を図る。

 当然それは嫌だと、彼の飛車が2筋に回って来る。

 ……よし。この形なら、戦える。


 引き角により、攻めと同時に迎撃をも可能となった。右銀を57に上げる。どうだ、間に合ったぞ。

 穴熊さんの顔を睨み付ける。彼は薄い笑みを浮かべていた。まるで、全て読み筋だと言わんばかりの、余裕の表情だ。


「いいぞ、修司君。深く読めるようになって来たじゃないか」


 穴熊さんの左金が、右方向に移動を開始する。

 彼が三枚穴熊を目指しているのは明白だ。

 ならばこちらも、矢倉の完成を優先させよう。右金を67に上げ、『早囲い』と呼ばれる形にする。

 彼は左金を、更に右へと移動させた。

 俺は玉を88に収める。

 72金に、78金。彼の三枚穴熊と俺の矢倉囲いが、同時に完成した。


「美しいな」

「ああ。調和が取れている」


 口々に感想を呟き、思わず笑みを零す。本当に芸術作品のように、俺には見えた。

 だが、問題はここからだ。彼がこの先の展開を読めているかどうか、次の一手で見極める。

 振り飛車必殺の45歩が炸裂する。4筋の突破を狙うと同時に、角道を開放する強烈な攻め手が。


 これに対し、俺は──7筋の歩を、突いた。


「ほう」


 意外そうな顔をする穴熊さん。


「てっきり、矢倉穴熊辺りで対抗して来ると思っていたのだが」


 そう呟いた時には、彼は既に手を動かしていた。54銀と進出して来る。

 俺は左銀をまっすぐ上に上げた。見るがいい。これこそ、対振り飛車用に開発された、新たなる矢倉の姿だ。


「『銀立ち矢倉』とは、粋な真似を」


 矢倉は対抗形で用いられることは少ない。理由は先程言った通り、美濃囲い等に対して手数がかかり、かつ横からの攻めに弱いためだ。飛車交換は厳禁とされている。

 だが、矢倉に魅せられた多くの者達は、全戦型に対して矢倉を使いたいと願った。その願いに応えた一つの形が、この『銀立ち矢倉』だ。

 特長は上部に手厚いこと。相手玉の上から圧し潰すような攻め方ができる。

 また、終盤攻め込まれた際にも、上部から脱出できる可能性が高い。

 相変わらず横からの攻めには弱いが、弱点を補って余りあるポテンシャルを秘めた囲いだと感じている。


「数多ある矢倉の派生形の中から、これを選ぶとはな」


 何やら感慨深げに、穴熊さんは呟く。

 どうだ。さすがにこの展開は読んでなかっただろう? 盲点を突いてやったぞ。

 内心胸を張る俺をよそに、彼は続ける。


「激動の昭和中期を思い出すよ。あの頃はまだパソコンも普及しておらず、各々が独学で懸命に新手を探し求めていた時代だったな」


 銀立ち矢倉は、そんな時代に流行した囲いだった。

 だが、今ではほとんど見かけることは無い。

 彼は断言する。

 所詮は『昭和の将棋』なのだ、と。


「天守閣美濃や居飛車穴熊に代表される、対抗形で有力な囲いが複数存在する昨今。それをあえて試そうとする、君の勇気には感服するよ。

 だが、無駄だ。我には通用しない」


 穴熊さんの右手に、再び黒き炎が宿る。仄暗(ほのぐら)い彼の眼差しが、俺の陣形を直射した。

 それで気付いた。彼は俺と対局する気にはなってくれたが、俺という存在を認めた訳ではないのだと。

 愛を拠(よ)り所とする園瀬修司は、穴熊さんにとっては目の上のたんこぶでしかないのだろう。故に、全力で排除しようとする。


 遊びは終わりだとばかりに、6筋の歩が突き出される。すぐさま何かが起こる訳ではないが、妙な胸騒ぎを覚えた。

 俺は角を68の地点に上げる。79よりもこの位置の方が利きが増えて使い易い。後々役に立ってくれると信じよう。

 すると、今度は3筋の歩が伸びて来た。こちらの右桂を使いにくくし、突破を図る手だ。

 互いに主張したい所はあるものの、決め手には欠けている状態が続く。探り合うように、徐々に勢力圏を拡大していく。

 振り穴だからと、穴熊さんは守備を疎かにはしない。簡単には付け入る隙を作らせない。 もっと大胆に、捌(さば)くような手を仕掛けて来れば良いものを。何ともやりにくい相手だ。


 ならば、こんな手はどうだ?

 77に角を上げ、更なる角の活用を目指す。またこの手によって、相手角と自玉の間に角が入る。将来65歩と仕掛けられた際に、堂々と同歩と取ることができるようになった。

 加えて言うなら、3筋の歩を交換後、相手角の頭に歩を打ち込む狙いも含む。角がかわせば飛車を素抜ける。


 もちろん、その程度のことは穴熊さんも読んでいるだろう。頃合いを見て、どこかで飛車の筋を変えて来るはずだ。

 俺の読みでは、6筋辺りに振り直して、銀立ち矢倉を真っ向から粉砕しようとして来るとみた。

 さあ、どう動く?


「良い判断だ、修司君」


 短くそれだけ告げて、駒を手に取る穴熊さん。飛車が、早くも動く。

 2筋から、今度は右方向に移動し始める飛車。先程と同じく、盤上を滑っていく。

 やはり読み通り、6筋か?

 もしそうなら、77角と上がった手は正解だ。少し戦い易くなるはず。角交換から、2筋の飛車先突破を狙ってやる。


 ──ぴたり。


 だが。そんな俺の思惑など、お見通しかのように。飛車は、6筋の手前で止まった。

 飛車を置いたマスから、黒炎が噴き上がる。これこそが正解だと言わんばかりに。


 ……42飛。再びの、四間飛車。


「何で……?」


 思わず、口からそんな言葉が漏れ出た。まるで意味がわからなかった。穴熊さんの狙いが、俺には全く理解できない。

 4筋はがっちり銀で守っている。そう簡単には突破できない。争点を作りたいなら、6筋に振るのが自然なはずなのに。


 ──まさか。逆、なのか?

 争点を作る気が無い、のか?

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