(5)星に願いを

 黒炎が立ち昇る盤を前にして、俺は深呼吸を繰り返す。

 向かいに座るミスター穴熊は、こちらの様子をじっと見つめていた。まるでブラックホールのような、一切の輝きの無い漆黒の双眸。ただ見つめられるだけで、吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚える。

 気圧されそうになる。


 俺には香織がついている。だから負けないと、相対するまでは思っていた。

 だが、実際にこうして対峙してみると。かの存在の大きさに、押し潰されそうになる。

 この男、一体何者なんだ? どうしてここまでどす黒い感情を、盤上に放出できる? 将棋が、楽しくないのか? サロンなんて経営しているくせに。

 俺は彼のことを噂程度しか知らない。サロンを始める前、ミスター穴熊などと呼ばれ始める以前のことについては、何も知らなかった。

 恐らく彼が愛を無くしたのは、彼が一介の将棋指しに過ぎなかった頃のはずだ。だからこそ、対局中に彼に同調した棋士が、愛を失うというのだろう。

 深い闇の中に、真実が隠されている。


 付け入る隙があるとすれば、きっとそこだ。仮に、穴熊自体は完全無欠だとしても、ミスター穴熊という人間はコンピュータとは違う。

 彼の真実を知り、俺が指すべき答を導き出す。たとえどんなに困難でも、級位者の俺が最強の穴熊使いに勝つにはそれしかない。

 臆するな。気合を入れ直せ、園瀬修司。


 チェスクロックの横に開いて置いた扇子に目をやる。愛羅武勇の四文字が、午後の日差しを浴びて輝いて見えた。

 そうだ、穴熊に呑まれるな。香織と共に戦い、共に一勝を勝ち取るんだ。

 闇を切り開くのは、俺達夫婦の愛だ。


「愛では、我には勝てんぞ」


 同じように扇子を見つめ、穴熊はそう告げて来た。


「将棋には運の要素が無い。勝者は強者と持て囃される一方、敗者は弱者として蔑まれる。そんな非情の世界においては、愛などという軟弱な感情は不要。強くなりたいのならば、むしろ邪魔だと言えよう」


 この男が愛を否定するのは、愛を失った自分を正当化するためだろうか。


「俺は、そうは思わない」


 対局前は愛を失うからと棄権を勧め、いざ対峙すると今度は愛を否定して来る。愛に囚われているのは、あんたの方じゃないのか?

 俺の返答に、穴熊は鼻を鳴らした。五枚の歩を掴み、差し出して来る。


「何枚要る?」

「……え?」


 一瞬、何のことかわからなかった。


「何枚、『と金』が要るかね?」


 言い直して来た。

 それを聞いて、ようやく理解した。振り駒の話だ。

 ──理解はしたが、質問の意味はよくわからなかった。

 穴熊は、苛立ち混じりに続ける。


「トンシ戦を観ていなかったのか? 我は振り駒の運命を操ることができる。先手・後手選び放題だ。好きな数を言うが良い」


 運命を、操る……?

 任意に選べる、だと?


 確かに、トンシ戦の振り駒は見事だった。天高くに投げた五枚の歩は、一枚も盤外に転げ落ちることなく、盤上に着地した。しかもその全てが『歩兵(オモテ)』の面を上にして。

 もし『歩兵(オモテ)』と『と金(ウラ)』の割合を任意に選べるのだとしたら。もはや振り駒は、意味をなさない。

 何かイカサマでも使っているのか? それとも、本当に?


「先程も言ったように、将棋には運の要素が無い。ただ、この振り駒のシステムだけは別だ。これだけはどうしても、運が絡んでしまう。それが前々から気に入らなくてな。どうにか改善できないものかと思い悩んでいたのだが。

 ある時気付いた。それならば、神の御業をもって、確率に干渉してやれば良いのだと」


 確率に干渉する。口にするのは簡単だが、成すのは容易ではなかったと、穴熊は振り返る。

 最初はサイコロから試したが、念じた面を出すのには月日を要したという。

 ……いや。普通、できるとは考えないだろう。

 周囲の嘲笑に晒されながらも、彼は一心不乱に努力を続け。ある日、天啓を得たのだという。


「神は我が願いに応えた──いや、応えさせた。我は得たのだ、振り駒を自在に操る術を」


 なるほど、よくわからん。

 わからんが、穴熊の意図は理解した。彼は俺に選ばせようとしているのだ。先手か後手かを。

 ……明らかに、格下に見られている。


「さあ。『と金』は何枚必要だ?」

「五枚」

「くくく。欲張りめ」


 先手を取りたいのなら『と金』三枚で良い所を、あえて五枚要求した。穴熊はニヤリと笑みを浮かべて了承する。


「とくと見るが良い。神の御業を」


 そう告げて、黒炎の付いたままの五枚の歩を、今正に投擲しようとした──その時。


「待て。振り駒をするのは、俺だ」


 俺は咄嗟に、穴熊を止めた。


 このまま奴の思い通りにさせたら、対局する前に勝敗が決してしまう気がした。

 自陣から歩を五枚掴み取る。炎に包まれていても、熱は感じない。


「……何、だと?」


 驚きの声を上げる穴熊。当然の反応だろう。振り駒で俺に先手番をプレゼントし、格の違いを見せ付ける思惑だったのだろうから。


「さあ。何枚要るかい?」

「貴様……どこまで我を愚弄すれば気が済むのだ……?」


 俺の問いかけに、穴熊は怒りを露わにする。


「貴様如きが神の真似をするだと? 身の程を知れ!」

「もしできたら、どうする?」

「フン。万に一つもありえんわ!」

「そうか。希望が無いのなら五枚、歩兵を出させてもらう」

「園瀬修司ィ……!」


 穴熊の全身から、黒い炎が噴き上がる。闘気を形にしただけで熱は持っていないはずだが、頬を一筋の汗が流れ落ちた。

 少し、挑発し過ぎたのかもしれない。


「良かろう。やってみるがいい。だが、もし五枚の歩兵が揃わなかったその時は。神を侮辱した罰を、その身に受けてもらうぞ」


 炎が穴熊の頭上で渦を巻き始める。先程食らった黒炎弾とは比べ物にならない火力。あんなものをまともに食らえば──嫌な想像が頭を過ぎり、俺はかぶりを振った。

 穴熊が神だというなら。こっちには、女神がついている。白扇が俺を見守ってくれている。

 やれる。何としても、振り駒を成功させてみせる。


 息を整える。覚悟を決める。掌の中の五枚の歩が、白く輝き始めた。黒炎を退け、本来の姿を取り戻している。俺の想いに応えてくれている。いける。

 振り駒を成功させ、流れを掴むんだ。ここで挫けるようじゃ、ミスター穴熊には勝てない。


「はあっ!」


 叫びと共に、思いっきり真上に投げ放つ。

 純白の軌跡を描いて、青空へと吸い込まれていく五枚の歩達。どこに落ちて来るのかはわからない。

 信じるだけだ。俺達の愛の力を。


「愚か者め。ただの人間が、我を真似できるものか。さあ、跡形も無く焼き尽くされる覚悟はできたか?」


 侮蔑の視線を向けてくる穴熊を睨み返す。当の昔に、覚悟は完了している。

 だがその覚悟は、たとえ刺し違えてもお前を倒す覚悟だ。

 香織が命をかけて永遠と戦ったように。俺だってこの一戦に、全生命を懸けよう。


 五つの流星が降って来る。まっすぐに、盤を目指して。

 流れ星に願いを託そう。どうかこの一投に、奇跡を。

 着地の瞬間。眩いばかりの白光が、盤上より放たれた。


「ええい、鬱陶しい光よ……!」


 顔を歪め、穴熊は吐き捨てる。

 彼は、頭上に展開した黒炎の一部を、無造作に掴み取り。


「消え去るが良い!」


 それを、盤上に叩き付けた。

 あっと、止める暇も無かった。呆然と見守る俺を前に、白き光はかき消されてしまう。


「今こそ、審判の刻は来たれり!」


 五枚の歩が、ついにその姿を現す。

 ──『歩兵』が三枚に、『と金』が二枚。


 何とか先手は取れたが……『歩兵』の面を五枚出すという宣言からは外れてしまった。

 ぎり、と歯噛みする。黒炎を食らえば、対局続行はおろか、命さえも奪われかねない。対局中に死ぬならともかく、一手も指せずに死ぬなど、無念の極みだ。

 だが、それでも。約束は約束だ。

 覚悟を決めよう。黒炎を受けきった上で、残った体力を振り絞り、対局へと臨む覚悟を。

 白扇へと目を遣る。そこで見守っていてくれ、香織。俺の生き様を。

 さあ来い。穴熊の頭上で渦巻く黒炎を見上げ、歯を食い縛る。逃げも隠れもしない。さあ、遠慮なく掛かって来い──!


「……我の、負けだ」


 その時、穴熊がぼそりと呟いた。黒炎が黒い霧状に変化し、文字通り霧散する。

 その様子を、俺は呆気に取られて見つめていた。

 神妙な面持ちで、穴熊は口を開く。


「先程、我は『と金』が五枚出ると予言していた。だが、結果はどうだ? 『と金』はわずかに二枚が出たのみ。

 園瀬修司よ。貴様の想いが、我の予言を覆してみせたのだ」


 だから貴様の勝ちだと、彼は告げて来た。

 なるほど。そう言われてみれば、俺が賭けに勝ったことになるのか。歩一枚の差とはいえ。


「慈愛の将棋、か。君ならば、あるいは」

「え……?」

「何でもない。さあ、始めようか」


 怒りはどこへ消えたのか。穴熊は、落ち着きを取り戻しているようだった。

 少々計算外だ。わざと煽る言動を繰り返すことで、冷静さを欠く将棋を指させる狙いもあったのだが。

 まあ、いい。ようやく彼が向き合ってくれた。前向きに、俺と将棋を指す気になってくれた。それだけでも上々としよう。

 俺達は静かに見つめ合う。呼吸を、そしてタイミングを合わせる。


「宜しくお願いします」


 同時に頭を下げる。対局開始の挨拶が今、交わされた。

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