(8)運命の導きのままに

「どうやら、視(み)えて来たか」


 良い眼だ、と穴熊さんに褒められる。

 指導対局のノリに近いが、悪い気はしなかった。こんな形で出逢わなければ、弟子入りを希望していたかもしれない。

 せめてもの礼だ、全力で応じよう。満足してもらえるかどうかはわからないが。


 23歩成が理想の第一歩だ。ならば、実現させてみせよう──24歩を、突く。


「良い判断だ。だが、間に合うかな?」


 予想通り、36飛が飛び込んで来る。

 次に39飛成の狙い。単純な狙いながら、悩ましい。

 単に受けるだけなら37歩打だが、それには26飛とぶつけられる。折角の持ち駒の歩を使ってしまう分、こちらが不利だ。

 かといって受けずに23歩成を決めれば、39飛成からこちらの飛車を追い回される。急いては事を仕損じる典型だ。

 どうするか。


 一旦は受けなければならない。だが、下手な受けは通用しない。唯一の持ち駒の歩は、できれば攻めに取っておきたい。

 なら。39飛成を防ぐ手段は、もうこれしか無い。

 ──57の銀を、48に退く。玉の守りは薄くなるが、致し方あるまい。


「絶妙の受けだな」


 またもや褒められたと思った、次の瞬間。

 26飛が、来る。


 飛車が逃げれば、29飛成と桂馬を取られてしまう。同飛とせざるを得ないが。

 同角とされた手が、次に48の銀を狙っている。ならばと、37銀で逆に角を取りに行く。15角とかわさせた所で。

 理想を実現させる。ここでようやく、23歩成を決めた。


「見事だ」


 ──36歩打。


「見事、我の読み通りに動いてくれた」

「あ、ああっ……!?」


 盤面を見つめ、呆然と呻(うめ)く。

 理想の未来が遠ざかるのを自覚する。第一歩を踏み出したつもりが、たった一手で覆されてしまった。

 36に打ち込まれた歩が、鋭利なナイフのように突き刺さる。銀に、そして俺の心に。


「正直、ここまでやれるとは思わなかった。誇りに思うが良い、園瀬修司君」


 君は我を、本気にさせた。

 ぞくり。その一言を聞いた瞬間、全身に震えが走った。

 この男は今の今まで、本気ではなかったのか? 指導対局の様相ではあったが、とっくに全開状態の棋力だと思っていた。そうでなければ、あまりにも強過ぎる。

 認識が甘かったと、思い知らされた。

 絶望的なまでの棋力差を、痛感する。


 黒き炎が引火する。

 36の歩を種火に、37の銀、それから29の桂馬へと。次々に飛び火していく。

 鎮火しようとする手が、かえって火の粉を舞い上がらせる。収拾がつかなくなる。

 恐ろしい未来が視えた。穴熊さんにとっての、理想の局面が。

 上手く誘導されたのだと気づき、ぎり、と歯噛みする。


「君の読みが浅ければ、もっと手前で決着がついていたことだろう。あるいは、予期せぬ妙手が偶然飛び出す可能性もあった。

 だが、実際には善くも悪くも、君は我の予想の通りに動いた。

 唯一あの38飛だけは予想外だったが、それでも最終的にはこの局面に合流したのだ。

 全ては、運命の導きのままに」


 彼は告げる。

 俺が苦心して見出した指し手のことごとくは、彼の読み筋であることを。

 いや、読む必要すら無いというのか──運命とやらが導いてくれるのであれば。神は、彼の味方なのだという。

 故に、俺に勝ち目は無いのだと。


「諦めろ、修司君。今ならまだ引き返せる。愛を失わずに済むのだ」


 またそれか、と思わず胸中で苦笑する。

 彼は気づいていないのだ。その言葉を聞く度に、俺の心に火が点くことに。


「逆効果だよ、穴熊さん」


 絶対に諦めるな、園瀬修司。

 対局で負けても良い。だが、愛を否定する奴にだけは負けちゃ駄目だ。

 運命が、神が何だ。俺には女神がついている。

 たとえ棋力が低くても、溢れんばかりの愛情が、俺を支えてくれているんだ。

 扇子を手に取る。彼女の想いを受け取る。一旦閉じたそれを再び開いた時には、秋風と共に心の迷いが晴れた。


 元より、無謀な挑戦なのは百も承知。勝てないとわかっていてもなお、愚直に挑み続ける。いつだってそうして来た。

 読み筋だから、何だ? 劣勢に追い込まれたから、何だ? それでも俺を応援してくれる奴が居る限り、俺は諦めない。


「諦めるが良い。愛の力など、神のご加護の前では無力なり」

「愛を説く神が、愛を否定するのか?」

「我が神は唯一にして全。愛する者など、居ない」

「それはまた、寂しい神様だな」


 36歩は痛打だ。同銀と取っても、28に銀を逃がしても、飛車打で銀桂を狙われる。かといって放置は、銀を取られた上にと金まで作られ、最悪の結果を生む。

 どんな選択肢を選んでも、不利となるのは避けられない。だったら。

 どうせ駄目なら、歩をもらう。同銀と取る。

 すかさず39飛打が来る。銀桂両取り。


 反射的に銀を逃がそうとするも、逃げ場が無いことに気付く。銀の下に歩を打って受ける手は、29飛成と桂馬を取られてはっきり損だ。

 両取り逃げるべからずという格言もある。ここは逃げる以外の手を指したい所だ。積極的に仕掛けるような手を。


 理想の局面を思い描け。

 次の一手で、未来を創造する。


 俺の理想は、香織と温かい家庭を築くことだ。

 その未来を、盤上に描き出す。

 子供はできれば、三人は欲しい。一戸建ての家も欲しい。庭が広ければ犬も飼いたい。それから、それから……夢は大きく膨らみ、盤から溢れ出してしまいそうだ。

 俺達のこれからが、新しい棋譜(ミライ)を形作っていく。


「何を、笑っている?」

「長女の名前は『穂香(ほのか)』にしようと思う」

「……は?」


 呆気に取られた様子の穴熊さんを見て、俺は笑みを浮かべる。

 そうだ。既に視た理想の未来を実現させるために、俺は戦う。戦える。

 読み切れるものなら読んでみるがいい。後悔するなよ?


 ──55歩を、突く。


 彼の顔が歪む。

 恐らく読みの中には入っていなかった手。もしくは。読んだ中で、最も指されたくなかった手、か。


 盤の中央を陣取り、白き光を放つ歩。

 54の銀に当てる一手。一見してタダで取られるだけの歩。

 実際の効果の程は、俺にもわからない。ただ、視えた。

 視えたのならば、それに懸けよう。


「馬鹿な」


 やがて穴熊さんは口を開く。

 信じられないという面持ちで。


「自ら、敵駒を自陣に招き入れようというのか」


 確かに、同銀と応じた場合は、そんな風にも見える。

 だが俺には、彼がそう指して来るとは思えなかった。彼は一流の将棋指しであり、格下の思惑に乗るような手は指さないはずだ。

 また、現状では彼が優勢なのだから、わざわざ離れ駒を増やすような手を指す必要も無い。

 彼個人の、石橋を叩いて渡るような性格を考えれば、なおさらだ。

 十中八九、彼は銀を退く。退く方向もわかる。自陣を引き締める、63銀と指すはずだ。

 読むまでもない。故に、その次の手へと思考を巡らす余裕ができた。


「……修司君。それが君の思い描いた未来像なのか?」

「ああ。理想を実現させる第一歩だ」

「儚く、淡い希望だな」


 言いながら、63銀を指す穴熊さん。

 彼も俺がその手を読んでいたことはわかっているだろう。それでも勝てると踏んだのだ。やってみろと開き直って、堂々と囲いを強化して来る。

 その判断は、恐らく正しい。


 そうだ。彼の言うことは全て正しい。彼は正論しか言わない。まるで、本心を包み隠すかのように。いつまでも優等生を演じ続ける。

 彼の上っ面を剥ぎ取りたい。闇の中にある真実を引きずり出したいと思った。

 だが、それを為すには凄まじい抵抗が伴うことだろう。果たして俺にできるかどうか。


 31に飛車を打つ。

 銀を守ると同時に攻める。

 ──と、指しかけた手を止める。

 待て。本当にそれで良いのか?

 恐らくその進行は、穴熊さんの読み筋だ。31飛打では銀が重荷となり、打った飛車を横に動かしづらいのではないか?


 冷静になるんだ、修司。無意識の内に焦る気持ちを、懸命に抑える。

 飛車を打つ前に、まずは銀を逃がすんだ。45銀とかわす。

 すると、穴熊さんは29の桂馬を取り、龍を作って来た。


「ほう。よく踏み止まったな。だが、そう来ることも想定済である」

「だろうな。一向に良くなる気がしないよ」

「当初思っていた程、一方的な展開でもないがな」


 苦笑する俺に、彼は真顔でそう答える。

 想定内とはいえ、健闘している方だと言うことだろうか? まだ、致命的な形勢の差にはなっていないと?

 もし、まだ食らいつけているのなら。更に牙を、奥にまで食い込ませたい。

 最初に考えていた31ではなく、22に飛車を打ち込む。23龍と退かれ、桂馬を取れなくなる筋を未然に防いだ。


 これに対し、彼は48の地点に角を成り込ませて来る。攻め込むと同時に、自陣の守りにも利かせる一手だ。

 一方こちらは、角を上手く使えていない。飛車交換を果たした今となっては、77の位置に居る意味が薄いのだ。一応守りには利いているものの、働きの差は大きい。どこかで役に立つ時が来れば良いのだが。


 内心ため息をつきながらも、気を取り直して21に飛車を成り込む。

 19龍に、11龍。互いに香車を取り合う。


「ようやく準備が整った」


 戦いの始まりを、穴熊さんが告げて来る。ああそうだ、準備は整った。互いに龍を作り、持ち駒に香車と桂馬を得た今こそが、本当の始まりだ。

 違うのは囲いの固さと、駒の利き。どちらも、向こうの方が上だ。

 だが。俺に全く、利点が無い訳でもない。


「ああ。いざ、尋常に勝負だ」


 俺の利点は、囲いの高さを活かし、盤の中央をほぼ制圧できている点だ。

 その分自玉の周りは弱いが、寄せ合いになった際に、そう簡単には捕まらない。

 劣勢なのは間違い無いが。それでもやれると信じよう。


 頑張って。


 声援が聞こえた気がした。

 そうだ、心は共に在る。たとえどんなに離れていても。

 負けられない。香織のためにも。

 鍔(つば)競り合いはもう終わりだ。ここからは、斬り合う。

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